破片



 なんとなく逃げ出したくなった。冬の海にでも飛び込んだら、頭のなかがすっきりするんじゃないかと思った。何十分も自転車をこいでたどり着いたのは、けれどなんだかよく分からない異臭を放つ、バカでかい工場だけだった。
「くだらないもんだらけだな」
 その一部として俺は生きていて、ポケットからぐしゃぐしゃになった煙草を取り出した。俺が育ったのは、幸せな家庭と呼ばれる環境ではないが、特別不幸なわけでもない。それなりにろくでもない父親と、それなりにやさしい母親に育てられて、かわいい妹を持った。
 工場から出る煙がくさい。俺がいいにおいだと思って吸っている煙草も、誰かにとってはこんなにおいをしているんだろう。ゆっくりと白い息を吐く。

 かすれたインターフォンの音がした。玄関に駆け寄り、ためらいなく扉を開けると、待ちわびた人物が立っていた。
「よくきたなあ、文」
 小脇に本を抱えた文は、不機嫌な顔をして睨むように俺を見ていた。
「苦情を言いにきたんです。いいかげん、天井をほうきでつつくのはやめてください。ここはアパートで、矢島さんの上には僕が住んでいるのだということを覚えてください。でないと…」
 無表情でまくし立てる文を苦笑いで受け流し、小さな声でさえぎった。
「会いたかったんだ」
「僕は本を読んでいたんです」
「まあ、上がれ」
 腕をつかんで引き寄せる。相変わらず細い腕に、途中で少し怖くなって、手の力をゆるめた。文はよろけながら家の中に入ってきた。
「お昼ごはんだって作らなきゃ…」
 まだためらう文の頭を、黙ったまま乱暴になでる。こうするとなんとなく大人しくなることが多い。ぐしゃぐしゃになった髪の毛を片手で直しながら、「煙草くさいからいやなのに」と文は唇を尖らせる。
 玄関に座り込み、丁寧に片足ずつ靴を脱ぐ文の後頭部を見下ろしながら、そのつむじが誰かに似ていると思った。

「また裸足だ…」
 歩くと、パジャマ用にしているズボンの長い裾から足が出てしまって、それを見た文が呆れたようにつぶやいた。
「まだ寒いですよ?」
「うん」
 適当にうなづいて、ガチャガチャとキッチンを探る。やっとコップをふたつ見つけて、冷蔵庫にあったペットボトルのお茶をそそいだ。ひとつを文に渡す。ソファから一連の動きを見ていたらしい文は、いぶかしげにお茶を見つめた。
「これ、いつのですか」
「まあ大丈夫だろ」
「矢島さんがお菓子屋さんで働いてるって、嘘でしょ」
 ほんとだよ、と笑いながらテレビの電源を入れる。文のとなりに腰掛けると、やわらかなソファが大きく沈んだ。
「テレビ見るんですか」
「うん」
「じゃあ僕は本を読みます」
「どおぞ」
「僕がここにいる意味は?」
「俺が会いたかったからじゃん」
「そんなに似てますか」
 ふいに文が言った言葉に、「え」と返した瞬間コップが手からすべり落ち、ガシャンと軽快な音を立てた。
「あーあ」
 ため息をついてガラスに手を伸ばす文の腕を反射的につかむ。文が俺の顔を見て、俺は曖昧に笑った。
「けがするぞ」
「慣れてますよ」
 割れたガラスを拾うことに、なのか、けがをすることに、なのか分からなかった。分からないほうがいいのかもしれなかった。
「矢島さんが」
 少しだけ笑って、文が言う。
「会いたいけど会えない誰かに、似ているんでしょう。僕が」
 俺は何も言えなくなった。かたまっている俺を見て、文は楽しそうに笑った。
「いいですよ。お互いさまですね。矢島さんも、似てます」
 誰に、とは言わなかった。顔をそらすように再びガラスに手を伸ばす文の後ろ姿が、なんとなく泣きそうに見えた。
「文」
 声をかける。文は振り向かない。もう一度くり返すと、文の肩がふるえた。
「名前なんか、呼ばなくていいのに」
 俺に見えるくだらないもんだらけの世界の中で、文はいつも違った。年齢に似合わない冷静さを持ち、常にどこかのふちに立っているみたいな俺の、服の裾をつまんでくれている気がしていた。けして揺らぐことのなかった文の心が、感情にふるえたとき、俺はどうしたらいいのか全く分からなくなった。
「雑巾どこですか?」
 文はもういつも通りのポーカー・フェイスで、割れたガラスを片付けている。俺は途方にくれたまま、ぼんやりと文を見ていた。雑巾を探しに行くのも、お前は妹に似ているのだと言うのも、今は違う気がした。



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