緑のひよこ



 夜中、とつぜん電話がかかってきた。そうして聞こえてきた声に、わたしは電話を取り落としそうになった。ゆずだ。
「夢を見たの」
「どんな?」
「怖い夢だったよ」
 わたしの問いに答えると、ゆずは少し笑った。彼女の声を聞いたのは、とても久しぶりに感じた。
「らいおんが出てきた」
「それから?」
「わにも出てきた。それにあひるも」
 怖い夢だと言っていたのに、語るゆずはどこか楽しげだ。
「すごく怖くて、でもね、最後に」
 あけみが出てきて、助けてくれた。そう言ってゆずはまた笑った。それから、わたしの返事も待たずに「じゃあね」と言って電話を切った。ぼんやりとしたままカレンダーに目をやる。ゆずと話をしたのは、本当に久しぶりだった。

 わたしとゆずは小学校のころから仲がよかった。わたしはゆずが大好きだったし、多分ゆずも同じだった。わたしの気持ちは今でも変わらない。けれど、ゆずはどうだろうか。ゆずは去年の春から、すっかり変わってしまった。
 わたしたちは一年間のほとんどの行事を一緒にすごしていた。中でも春のお花見は特別で、三月の下旬、満開の桜の下、わたしたちは毎年同じことを語り合った。今年も同じクラスになれたらいいね、そうだね、今年もよろしく、うん、よろしく。
 わたしは今年も同じセリフを言った。けれどゆずは何も言わなかった。わたしは初めて、ゆずと一緒に川につけた足を冷たく感じた。それからのゆずは、音を立てて壊れていくようだった。

 お花見から数日後のクラス替えで、一組と五組になったわたしとゆずは、いつも一緒にはいられなくなった。ゆずは話しかけても答えてくれなくなった。ゆずはクラスの誰とも話さなかった。ゆずは時々、意味もなくひとを怖がった。
 毎週、火曜日と金曜日に決まってゆずから電話がかかってくるようになったのは、五月の中頃だ。時間はいつもぴったり夜中の二時だった。話の内容は訳の分からないことばかりだったし、ゆずはとつぜん電話を切ってしまったりもした。けれどわたしは、火曜日と金曜日のその時間、必ず電話をにぎった。ゆずの声が聞きたかった。
「あけみ、きこえる?」
「うん」
「ちゃんとあたしの声かなあ。あたしはまだ、あたしかなあ」
 火曜日の午前二時。ゆずの声は震えている。
「あたし人間じゃなくなっちゃう。わかるの、ちょっとずつ変えられていくのが。指先から、こう、緑色になってくの」
 火曜日と金曜日、何かが自分のところへ来るのだと、ゆずは言った。
「誰も気付いてくれないよ」
 おびえるゆずに、わたしは「大丈夫」と言ってあげるしかできない。電話を切ったあとは、いつも心臓がどきどきして、なかなか眠れなかった。

 ゆずの電話が金曜日にしかかかってこなくなったのが、夏の初めのことだった。理由はわからない。とにかくゆずは、金曜日にしか電話をくれなくなった。それが良いことなのか悪いことなのか、わたしにはそれすらわからない。ゆずの声が聞きたい。

 夏休みになり電話をしたけど、ゆずの母親が出て「ごめんね」とだけ言った。わたしは初めて、ひとりで夏祭りに行った。他の人と行く気になんてなれなかった。ひとりでヨーヨーを釣って、ひとりでイカ焼きを食べた。どん、小さな音がして、小さな花火がひとつ上がった。ひとりで見た花火は、ちっとも綺麗なんかじゃなかった。今、ゆずは家で何をしているんだろう?ただそればかりが気になった。
 帰り道、ひよこ釣りの屋台を見つけた。色とりどりのひよこ達がピヨピヨとにぎやかに走り回っている。わたしは傷ついた緑色のひよこを一羽もらい、家に連れて帰った。緑のひよこはゆずに似ていた。「ゆず」と呼ぶと、緑のひよこは答えるようにピイと鳴いた。
「あんたを黄色く戻してあげる」
 もう一度、ゆずがピイと鳴く。

 良いことは、夏休みが終わりに近づくにつれ、ひよこのゆずは黄色くなっていった。悪いことは、ゆずからの電話が金曜日の夜にもこなくなってしまった。ぼんやりと毎日を過ごすまま、あっという間に夏は終わった。
 冷たくなったひよこのゆずに気付いたのは母だった。わたしは小学生の頃に使っていたスコップを裏庭から持ちだし、地面に深い穴を掘ってひよこを埋めた。真っ暗な穴の底の、見えないところに、ゆずを落として土をかぶせた。

 秋、一度もゆずからの電話はなかった。わたしがかけてもゆずが電話に出ることはなかったし、わたしもそのうち電話をかけることをやめた。電話をかけるかわりに、毎日ひよこの墓に水をやった。いつか黄色いひよこが生えてきて、また鳴いてくれるような、そんな気がしていた。けれどそこからは、黄色いひよこどころか、緑のひよこすら生まれてくることはなかった。

 そして、ゆずから久しぶりの電話がかかってきたのが一月の今日。外は真冬で、ちらほらと雪が降っている。怖いほど静かだ。彼女はまるで五ヶ月間の空白なんてなかったかのように、自然と話した。
「あけましておめでとう、あけみ」
「おめでとう」
「夢を見たの」
「どんな?」
 そしてゆずは普通に話して、普通に電話を切ったけれど、わたしは一度も普通になんてできなかった。その時のわたしの心臓は、壊れるんじゃないかと思うほど早鐘を打っていたと思う。

 次の日もゆずから電話があった。土曜日の夜の二時十分だった。
「こんばんは、あけみ」
「こんばんは」
 わたしは精一杯冷静に挨拶を返して、息を潜め、ゆずが話し始めるのを待った。この日のゆずは、なかなか声を出さなかった。いなくなってしまったのかと思うくらいの沈黙で、わたしは、恐ろしくなった。
「あけみ」
 とつぜん、ゆずがささやいた。
「あけみ…」
 もう一度、小さく、はき出すように言う。ゆずがわたしを呼んでいる。そう思った。
 電話が切れたのを確認してすぐ、コートを着てゆずの家へ走った。途中たくさんの雪がわたしの頬を打ったけど、冷たいと思う余裕もなかった。わたしの足は勝手に動いていた。とにかく、必死だった。

 ゆずは自分の家の前に立っていた。雪の中、マフラーも巻かずに、仁王立ちで突っ立っていた。「ごめん」と、わたしの顔を見るなり言った。わたしはゆずに駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。あたたかい。二度と放したくない。けれどゆずの体は、簡単にわたしの手から離れてく。
「遠い国へ行くんだって」
 ゆずのかすかな笑い声は、泣きそうに震えていた。
「そしたら病気が治るんだって。フツウのひとになれるんだって。今のあたしはイジョウだから、はやく戻らなくちゃいけないんだって。でもさあ、それじゃあ、あけみとお花見できないよ」
 わたしは、一度ゆずの家に入り、適当なマフラーを彼女の首に巻き付け、すっかり華奢になってしまった手をひっぱって、毎年お花見をしている河原まで歩いた。当然、こんな季節に桜など咲いているはずもない。わかっていて連れてきたのに、なんだか無性に悔しくて、わたしは泣きそうになった。
「ごめんね、ゆず。黄色いだけじゃ、だめなのに」
 ゆずはふしぎそうに首をかしげて、それから、ふにゃりと笑った。伸びてきたゆずの手がわたしを抱きしめる。か細くて、弱々しい、けれど変わらないゆずのにおいだ。
「あけみ、春みたいだねえ」
 ゆずが指差す先の黒い空を仰いだら、少しだけ勢いを増した雪が、わたしたちの目の前を、花びらのように舞っていた。ゆずの肩ごしに見る、遠くの木に積もった雪はまるで満開の桜のようにもに見えて、わたしは笑った。同時に涙があふれた。呆然と立ち尽くすわたしの耳に、ゆずのあまい声が溶ける。
「今年もよろしくね」
 それだけで、あと何百年も生きていられると思った。

 ゆずは月曜日に姿を消して、それから帰ってくることはなかった。ゆずがいなくなった朝、学校へ向かう途中にひとりで見た雪は、もう桜には見えなかった。あれから何年もたち、わたしはまだひよこの墓に水をやり続けているが、緑のひよこは顔を出さない。



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