あさば荘



 おれが住んでいる築三十年のアパートに、もうすぐカモが引っ越してくるらしい。矢島さんからの情報だから、確かかは分からないけど。
 矢島さんとはおれの右隣に住んでいる人で、冬でも半袖を着ていたりする。以前その理由をきいたときは、「部屋の片付けをしていたらなくしたと思っていたお気に入りのTシャツが出てきたから」と言っていた。でもこの三月に薄着の彼へ同じような質問をしたら、「おまえ暑くないの?」と不思議そうな顔をされたから、単にすごく暑がりなだけなのかもしれない。とにかく、あんなにいいかげんな人を、おれは他に見たことがない。

 木造の二階建て。駅まで徒歩十分。おれは一昨年の春から大学生になると同時に、ここ『あさば荘』で一人暮らしを始めた。畳の部屋をいやがる人もいるけど、おれがいちばん気に入っているのはこれだ。ときどき、暇なときなんかに、カーテンを開けて日光を取り込む。つよい日差しであたためられた畳に、そっと鼻を押しつける。そうしてゆっくりと呼吸をしていると、とても幸せな気持ちになる。
 こういう話は、矢島さんにはしない。彼はきっと「意味わからん」と言って笑いながら煙草のけむりをはき出すだろう。だから話し相手を変える。矢島さんの部屋の真上に住んでいる、文くんがちょうどいい。
 よく本を読んでいる彼は、あいまいで分かりにくい感情なんかの話をしても、静かに聞いていてくれる。けして饒舌ではないが、だからこそ彼と話すのは心地いいと、きっとたくさんの人がかんじているだろう。特に矢島さんなんかは彼を非常に気に入っているようで、暇になると天井をつつかれて困るのだ、と文くんが言っていた。
「みっちゃーん」
 ふいに声が聞こえて、扉がノックされた。おれのことをそんなふうに呼ぶのはあの人くらいだ。寝そべって畳のにおいにうっとりしていたおれは、はじめ声を無視していたが、あまりのしつこさに負けてしぶしぶ体を起こした。
 鍵を外して扉を開ける。笑顔の矢島さんと、無表情の文くんに挟まれて、見知らぬ男が立っていた。矢島さんも背が高いほうだと思うけど、その男のほうが大きい。もともと小柄な文くんがとても小さく見えた。
「これが、さっき話してたみっちゃんね。木賀 三隆くん。俺の二つ下」
 矢島さんがおれを指さす。文くんが矢島さんを睨んだ。真ん中の人は、素直に「はい」と頷いた。
「はじめまして。今日から隣の部屋に住みます」
 言いながら男が手を差し伸べてきたので、反対の手を出すと、つよい力で握られた。容赦なく上下に振られて足下がぐらつく。警戒して顔を上げたら、男は肩の力が抜けるほどの笑顔でこちらを見ていた。さっきは思わなかったが、破顔すると一気に幼くなる。
「鴨 七代といいます。金魚と、あとカボチャが好きです」
 おれはちらりと矢島さんを見る。ほら、鴨がきただろう。得意げな彼の表情が、無言でそう言っていた。



091127



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