青の真実



青の嘘の続き







 駆け込んで鍵をかけた部屋の電気は、なんだかいつもより薄暗い気がした。ついさっき衝撃を受けたこめかみがじんじんと痛む。どんどんどんどん、扉がノックされた。ノックというより、壊そうとしてるみたいだ。
「倉之助!」
 扉の向こうで、男が叫ぶ。本当なら聞き慣れて心地いいはずの父親の声に、なぜか俺の心臓は早鐘を打っていた。暴力は痛い。
 次の日、放課後の教室で、俺の手を見た関が、またけんかをしたのかときいた。本当はけんかではなかったけど、面倒くさいので適当にごまかした。

 休日は、誰もいない公園でずっと寝てるのが好きだ。この日も一眠りしてうとうとしていたら、一羽の鳩が寄ってきた。適当にポケットを探ると、チョコレイトのかけらがひとつあったので、袋から出してそっと投げてやった。鳩は寄ってきてチョコレイトをつついたが、そのうち首をかしげて飛び立ってしまった。
「チョコは食べないのか」
 投げたチョコレイトを拾い、適当に草をはらって袋に戻す。自分で食べる気はしないので、こんど関にでもやろう。
 関とは高校で知り合った。全体に色素が薄く、掘りの深い関の顔は日本人離れしている。短くカットされた飴色の髪と、それと同じ色の瞳が印象的で、そのうえがりがりに痩せているので、いつ消えてもおかしくないような容貌だ。けれど喋るとうるさく、外見のイメージとはかけ離れた変人。それが関だ。
 太陽がいい具合に当たって気持ちよかったので、もう一度眠ろうと目をつむったら、携帯電話が鳴り出した。誰からかは着信音で分かる。初期設定のままだった俺の携帯を勝手にいじり、自分の着信音を設定した男。
 俺が電話に出るなり、関は早口に喋り始めた。
「昨日さあ、アオの夢見たよ。おれと一緒にマグロごっこしてんの。あれだよ、マグロってずっと泳いでないと死ぬでしょ?だからおれたちもさあ、必死で歩き続けてんの。止まったら負け。こんどやろ」
「やだよ」
「ねえ、なんか楽しい話して」
「…無理」
 素っ気ない返事をしてしまう。以前、関に「アオと話してると幸せだけど時々すごくむなしくなる」って言われたのを思い出す。「まるでアオがおれで、おれがヤマダになったみたい」なんだって。よくわかんないけど、ヤマダになるのはいやだろうなあ。ぼんやりしてたら、関が言った。
「もどかしくない?」
「なにが」
「電話で話してると、もどかしくならない?」
「別に…」
「おれにさわりたいでしょ」
「…」
「おれはアオにさわりたいよ」
 電話の向こうの声が震えている。いやな予感がした。こういうとき、泣きそうになる。お互い。
「会いたくて、死んじゃうかも」







 土曜日はアオの声がききたくなる。なんか、落ち着くんだよねえ。バイト先の休憩室で、おにぎりを頬張りながら、電話しようかなあと考えた。アオはいつもおれを無精にあしらうし、からかうこともあるけど、いやな嘘はつかない。でかい体して、聖書なんか読んでんの。キリスト教徒でもないくせに。
「おっ。ハッチ、休憩?」
「うん」
 いつの間にか休憩室に入ってきたらしいヤマダが声をかけてきた。たまたま同じクラスで、たまたま同じとこでバイトしてるから、時々、喋る。
 ところでおれ、自分の名前が好きじゃない。高校一年のとき、充八という名前を担任にみつばちと読まれ、そこから付いたあだ名がハッチ。おれはこっちの呼ばれ方の方が気に入ってるから、初めて会う人間にもそう名乗ることにした。おれのこと、ずっと名字で呼んでるアオには関係ないけど。もしもアオが、あのやわらかな声でおれの名前を呼んだら、「みつや」なんて呟いたら、おれは自分の名前を好きになっちゃうかもしれない。そんな予定ないけど。
「突然だけどよお、ピアス開けるときってやっぱ痛えの?」
 ヤマダが向かいのイスに座った。おれは二個目のおにぎりを頬張る。面倒くさいので、「さあ」と答えた。おれの耳にはぜんぶで11この穴が開いている。
「ハッチ、ピアスいっぱい開けてんじゃん。教えろよ」
「興味あんの」
「ある、ある。開けてみてえの」
 じゃあ開けろよ、って思ったけど黙ってた。ヤマダはカバンから弁当を取り出して、おれの前で食べ出した。
「そういえばよお、ハッチのピアス穴ぜんぶ、青柳に開けてもらってるって聞いたけど」
「誰に」
「いや、うわさ」
「ふうん」
 適当に返事をする。ヤマダはなおも何か言いたげに、おれをちらちらと見た。
「なに?」
「なにも…」
 いらっとして睨んだら、わざとらしく目をそらす。
「アソコにもピアス開けてるってほんとかよ?」
「うん」
 どうでもいいから即答。痛そおー、ってヤマダはばかっぽく顔をゆがめた。
「それも、青柳が開けたのかよお」
「さあねえ」
 鼻で笑って席を立つ。まだ話したそうにしてるヤマダを無視して、ジーンズの尻ポケットから携帯電話を取り出した。アオの番号は登録されてるけど、おれは自分で入力するのが好き。自分の番号なんて覚えてないのに、アオの携帯番号とアドレスだけはそらで言える。
 ボタンがうまく押せなくて、自分の手が震えていることに気付く。そういえば心臓もいつもより早く動いてるかも。ドキドキするならアオのそばでしたいなあ。舌打ちをしたその動作さえ力なくて、ああ、不愉快。
 無機質な電話の呼び出し音がもどかしい。早くアオに会いたい。







 アヴェリアは関のにおいだった。彼がいつもその香水をつけているからだ。
 関のきれいな形をした耳に、何度も何度も穴を開けた。彼がそれを望んだからだ。
 突き放すようにしていても、突き放されるとすがりたくなる。この頃はアヴェリアの香りが消えただけでも落ち着かない。結局のところ、俺はすっかり彼に依存しているのだ、おそらく。信じたくなくても。
「アオ」
 関が俺の名前を呼んだ。俺の手の中には、彼の耳に新しい穴を開けるための小さな装置。関の家の前で会ったのが十五分前で、彼の部屋のなかは、青白い蛍光灯のひかりに満ちていた。
「おれのピアスは全部アオが開けたんだよね」
「うん」
「全部だよねえ」
「うん」
「今からするのも、アオだよね?」
「そうだよ」
 ピアスの穴を増やすたび、関は同じやりとりをしたがる。それで関が安心するなら、俺は何度でも頷くだけだ。
「倉之助」
 関が俺の名前を呼んだ。いつも父親に呼ばれるそれと同じはずなのに、関に呼ばれる名前には、アヴェリアの甘いにおいが染み込んでいて、胸がくるしくなった。
「チョコがあるんだけど」
 はぐらかすように呟けば、関はすぐさま俺のポケットから、好物であるそれを探り当てた。
「トブラローネ・ミルクだ」
 嬉しそうに、幸せそうに、三角をした小さなチョコレイトを食む関の、紅をさしたようにあかいくちびるから、俺は目がはなせなくなる。







 蛍光灯の光の下でおれを見つめるアオはヘビに似て見えた。そのことを伝えた瞬間にバチンと大きな音がして、おれの耳に12こめの穴が貫通していた。
「だったら、おまえは、イタチに似てるよ」
 アオが言って、おれに濡れたタオルを渡した。じゅうぶん冷やしていたはずなのに、穴が貫通したばかりの耳はじんじんと痛んだ。この痛みが好きだと言ったら、アオはばかにするみたいに笑った。
「おまえが好きならいいんじゃないの」
 アオの冷たい言葉は、いつもおれを救う。アオの暖かすぎる体温は、いつもおれを淋しくさせる。おれもアオを淋しくさせたくて、だから抱きしめるんだって、いつかアオに教えてやろう。とりあえず今は、おれに跨ったアオの重みが心地いいから、もっともっと近くで、泣きそうなくらい淋しくさせてよ。

 ベッドの端に座って本を読む、アオの広い背中に後ろから触れた。アオはびくりともしない。
「また聖書、読んでるの」
「うん」
「なんで?」
「おもしろいから」
「アオには聖書なんか似合わないよ」
 じゃあ何が似合うんだよ、って言ったアオの首筋を後ろから噛んだ。けっこうつよい力。アオはそれでも動かない。おれは嬉しくて口角がゆるみそうになって、あわてて頬の筋肉に力を込めた。
 アオに似合うのは、もっと非道で残酷で、暴力的な、だけどやさしいなにかじゃないかなあ。







「おれって外国の少年みたいで儚げでしょ?だから、常に誰かに守ってもらわなくちゃいけないと思う」
 ふざけたような口調で発せられた関の台詞も、くっきりと浮き出たあばらを目の前には、冗談と思えなかった。彼の指先に巻かれた包帯はぼろぼろで、先日彼によって俺の手に巻かれた包帯もすでにぼろぼろだ。
「アオ、あったかいなあ」
 いつの間にか伸びてきた関の手が俺の首筋に触れた。その冷たさにぞっとする。
「欲しいなあ」
 ぼんやりと呟いた関の髪の毛に触れる。くらのすけ、と関が言う。答えるように充八と呼んだら、関の大きな目が見開かれた。飴色をした瞳のなかに、はっきりと俺の顔が映り込んでいる。次の瞬間、関の顔が泣きそうに歪んで、不覚にも視界がにじんだ。
 お互いにぼろぼろで、それでも支え合っているから、なんとか立っていられるんだろうか。それとも、一緒にいるから、いつまでも変われないんだろうか。
「倉之助」
 関が俺の名前を呼ぶ。また少し、アヴェリアの毒が体をめぐる。
「たとえば、なにもかもぜんぶ」
 さっき開けたばかりの穴に、包帯だらけの指が触れた。
「忘れたとして、失ったとして、それでもこの傷跡だけは、ずっと消えなかったらいいなあ」
 独白のように、関は言った。俺はそれを聞いていた。まぶたを閉じた関の目元に、なにかが一瞬ひかったけれど、俺は見なかったふりをしたし、関も見られなかったふりをした。それでよかった。
 夕日に満ちた教室の中、こわいくらいに秋だと言った関をひどく昔のように感じて、そのときの彼の表情を思い出そうとしたけれど、俺の頭に浮かぶのは、口内に残ったチョコレイトの余韻を楽しむ満足げな顔だけだった。もしかしたらあのときも、関はこんな顔をしていたかもしれない。
 先に眠った関のとなりで、目をつむると無性に不安になったので、そばにあった手を握った。びくりとして、ためらいがちに握りかえしてきた関の手は、やはり驚くほど冷たかった。こわいくらいに愛おしかった。いつまでも忘れたくなかった。失いたくなかった。
 俺もきっと、たぶんいつか、耳に穴を開けたい日がくる。



091129



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セキ-ミツヤ【関充八】
高三男子/167センチ
色素が薄い。飴色の髪と瞳。ベリーショート。ガリガリ。かみ癖があり、常に指先に包帯を巻いている。変人。

アオヤナギ-クラノスケ【青柳 倉之助】
高三男子/185センチ
真っ黒な髪と瞳。しっかりした体。人見知りで無口。聖書が愛読書だがキリスト教徒ではない。

ヤマダ
高三男子/173センチ
関のクラスメイト。関と同じ店でバイトをしている。不良っぽい。



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