ダリア



「カエルになってよ」
 雨の日に、彼女が言った。
「ねえ周くん、好きだから、カエルになってよ」
 ひどく雨の降る土曜日に、ぼくの大好きな彼女が言った。ぼくは手を洗っていた。それはむりだよとぼくが言ったら、彼女はどうしてどうしてとしつこく訊いてくるので、ぼくも首をかしげた。どうしたら人間がカエルになることができるのかは分からないが、どうしてカエルになることができないのかも、ぼくには分からなかった。いま同じ気持ちでいる彼女の胸の中がどんなに不満でいっぱいか、それなら少しだけ分かる。
「周くん、しあわせ?」
「しあわせだよ」
「嘘はひとつもないって言える?それって絶対?どのくらいの気持ちで毎日生きてる?ほんとうに今しあわせ?」
「たぶん」
「ねえ、もう一時間だよ」
 いつの間にか真後ろに立っていた彼女の手が、僕のわきをくぐり抜けて蛇口の水を止めた。うつむいていた顔を上げると、きらきらした銀色の向こうで、痩せた男が目に隈を浮かべてこちらを見ていた。その後ろに突っ立っている彼女が泣きそうな顔をしているのに気付いて、ぼくまで泣きそうになった。
「どうしてずっと手、洗ってるの?」
「きれいじゃないのは怖いから」
「怖くないよ」
「きみはどうして泣きそうなの」
「怖いから」
 だいじょうぶだよ、とぼくは言ったけど、何がだいじょうぶなのかはよく分かっていなかった。水を止められた蛇口からぽたりと、何滴かの水がこぼれて流れる。なんだか土曜日は切ない。
「ねえ、周くん」
「ん?」
「あなたの唇にダリアが咲いているみたいよ」
 ふにゃりと笑った彼女は、いつかの蒸し暑い植物園で、一緒に見た紫色のダリアみたいに、不安定で美しかった。彼女の唇はずっとかすかな震えをはらんでいたが、夕方にさよならを言うまで、一滴も泣くことはなかった。きっと今夜は耳についた水音がうるさくて、いつまでも眠れないだろう。ふたりとも。そんな気がした。



091111



-エムブロ-