アルファ7



 裸足のままキッチンに立つのが寒くなって、秋も終わりかなあと思った。宝くんとベランダに並んでお月見をしたのがつい二週間ほど前のことだ。アンコの苦手な宝くんは、お月見団子のまわりの部分だけを器用に食べては、申し訳なさそうに残りをわたしに渡した。そうして犬みたいな目をするときの宝くんが、わたしの最近のお気に入りだ。
 お昼から、宝くんが家に来る約束をしている。朝食の準備をしながら、数日前に彼がシチューを食べたいと言っていたのを思い出したので、ついでに冷蔵庫の中を確認した。なんとかあるもので作れそうだ。
 ゆっくりと会うのは久しぶりだった。このところずっと、宝くんがテスト勉強で忙しかったからだ。一緒に勉強できたらなあとも思ったが、高校生のころの理科や歴史なんてとっくに忘れてしまっていた。
 ふいにインターフォンが鳴って、まさかと思い外を見ると、鼻を赤くした宝くんがマフラーで手をこすっていた。約束の時間まではまだ三時間もある。寒そうにしているので、とりあえず扉の鍵を開けてやると、冷たい空気と一緒に流れ込むように宝くんが入ってきた。
「まだ早いよ」
「我慢できなかった」
 足だけで器用に靴を脱ぎながら、はにかむように笑う宝くんはやっぱり犬に似ていた。

「手伝おうか」
 キッチンにある切りかけの野菜を見て、宝くんが言った。やる気満々で腕まくりを始める彼だが、以前つくってもらった炒飯のひどい出来を思い出し、不安になる。今日は洗い物だけしてもらおう。
「テストはどうだった?」
「がんばったよ」
「そっか」
「花代さんに会う時間まで削って勉強したんだから、結果がよくなきゃ、やってられない」
 やけに甘える宝くんの頭を乱暴に撫でると、くすぐったそうに首をすくめた。まだマフラーをつけたままなのが、もこもこしていてかわいい。ふいにピリリと電子音が鳴って、宝くんがあわてたようにポケットから携帯を取りだした。
「ごめん、電話だ」
 電話に出た宝くんは、友だちと話すような口調で少しだけ喋ったあと、すぐにキッチンへ戻ってきた。
「友だち?」
「クラスの人」
「いいなあ」
 わたしがつぶやくと、宝くんは意外そうな顔をした。
「花代さんでも、うらやましいとか思うことあるの」
「そりゃあ」
 宝くんのクラスメイトは無条件に、たくさんの時間を彼と共有している。それにくらべてわたしは、今の関係が崩れてしまえば、顔を見ることすらなくなるかもしれない。今、同級生として彼と同じ制服を着て、同じ教室で同じ先生から授業を受けて、午後の授業は眠いなあとかそんな何気ない感情を共有できる人たちがうらやましい。
「宝くんと同じ年だったらなあって思うこともある」
「花代さんが教室にいるの?なんか、変なかんじ」
「生まれ変わったら同い年がいい」
「やだよ、生まれ変わりなんて」
「だっていつかは二人とも死ぬでしょ」
「花代さん!」
 宝くんが大きな声でわたしの名前を呼んだので、思わずびくりとしてタマネギを落としてしまった。床に転がったタマネギを拾って、宝くんがわたしをにらむ。しまった、と思ったけれどもう遅かった。
「花代さんのほうがずっと大人なのに、死ぬことがどんなにおそろしいことなのか、分かってないの」
 彼は死に対してとても臆病だ。
「いやだよ、おれは。考えたくもない」
「うん」
 曖昧にうなずく。なにが彼をそこまで恐れさせるのか、わたしにはよく分からなかった。だって想像がつかない。今こんなにあたたかい宝くんが冷たくなって、彼のお葬式でわたしが正座している場面なんて、全然はっきりとしない。宝くんの手にそっとふれると、宝くんは複雑な顔をして、ぎゅっと握りかえしてきた。やっぱり。こんなにもあたたかい。
「子どもだって言われても、これだけは、ゆずれない」
「ウン…」
 足下を見つめると、タマネギのかけらが落ちていたので、なんとなく目をそらした。宝くんはよく自分を子どもだと言うが、わたしはたまに、それを忘れそうになる時がある。宝くんの方が、大人なんじゃないかと思うことすらある。それでもやっぱり、大きな背や手足をしていたって、いくら大人びた考えをしてみたって、わたしが何年も前に脱いだ制服に、彼は身を包んでいる。それは今のわたしたちにとって何よりも重い枷だった。
 だから彼は急ぐのだ。早く枷を取り払い、わたしと同等になりたがる。けれど死を恐れ、成長を恐れる宝くんの矛盾は、わたしを幸せな気持ちにさせた。
「宝くん、好きだよ」
 わたしからそんなことを言うのは珍しくて、宝くんは目を丸くした。そうしてしばらくしてからやっと、心底嬉しそうに、間の抜けた顔でふにゃりと笑った。言葉を失う宝くんに、思わず触れるだけのキスをする。彼の肩がふるえる。



110112



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