いつか彼の手が



 穂積くんが消えました。それは物理的な意味でどろんと消えてしまったわけではなくて、一緒に暮らしていた部屋からいなくなったという意味です。つまりぼくは、彼に捨てられてしまったのでした。
 たぶん、おそらく、ぼくは穂積くんにとって犬のような存在でした。実際にときどき、穂積くんはぼくを犬と呼びました。おい、いぬ、ごはんつくって。ふつうの犬はごはんなんて作れませんが、穂積くんの飼っていた犬は少々とくべつだったので、彼好みのオムライスをつくることができました。ただしいつも時間がかかって、ほめられたことはありません。なでられたこともありません。穂積くんの犬は、ぼくは、いつか彼の手がやさしくあたまをなでてくれることを夢見ていました。
 けれど夢が叶う前に、穂積くんは消えました。それはぼくにとってどうしようもなく受け止めがたい現実でした。
 きのうまで彼の寝ていたベッドからは、かすかにニナ・リッチのかおりがしました。ぼくはずっとそこにいて、彼のにおいであるニナ・リッチをかぎ続けたいとおもいました。
 ほづみくん、ほづみくん。ぼくが名前をよぶと彼はいやそうに顔をしかめます。けれどそのあと、うそみたいにやさしく笑います。そのたびにぼくは息がくるしくなって、まぶしくなって、目を細めます。いつのまにか彼は冷めたかおで本を読んでいます。

 日に日に薄まっていくニナ・リッチがさみしくて、ぼくは次に穂積くんに会ったときのためにおいておこうと思っていた涙を、ついに流してしまいました。穂積くんが消えて一週間後の朝のことでした。
「ほづみくん、ほづみくん」
 ぼくの声はかすれていました。室内は冷え切っていました。窓ぎわで、彼の育てていたポトスの葉っぱが揺れていました。



091206



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