もうひとつの「唇に花」



 潮風に包まれているような朝だった。昨日の夜からぱらぱらと降り続く雨のせいで、蒸し暑く、湿気に満ちていて、元々くせのある髪の毛がくるくるになる。それでも学校を休むわけにはいかず、わたしは自転車をこいだ。
 大きなヘッドフォンから両耳へ流れ込むのは、わたしの大好きな曲だ。スウィング・ジャズというジャンルに出会ったのはごく最近で、同時に知ったこの曲しか、この頃は聴いていない。英語は苦手だがこの歌の歌詞だけは分かる。和訳の歌詞カードと照らし合わせながら何度も聴いているうちにすっかり覚えてしまった。

嘘を知らないあなたなら
きっと誰より似合うでしょう
あなたの唇に花をさす
あなたは笑って許してくれる…

 たゆたうようで軽快なメロディ。学校に行くまでの時間も、着いてからの休み時間も、この曲だけをリピートして聴き続ける。授業中にも自然と、鮮明なメロディが頭のなかを流れるくらいに。

 数日前に席替えがあった。となりの席になった沖さんは、真っ直ぐできれいな髪の毛をしている。だからというわけではないが、わたしは彼女が好きだ。その髪の毛みたいに、生き方もまっすぐに見えるから。席替えをするずっと前から、彼女と話してみたかった。初めて席がとなりになってからというもの、わたしは彼女がふいにこちらを向いて、口を開くのを心待ちにしていた。だからある日の休み時間、彼女が唐突に声をかけてきたときも、うろたえはしなかった。
「なに聴いてるの?」
「たぶん、沖さんは知らないやつ」
 言ってみて、と沖さんが言うので、小さくブッシェルと呟いた。思った通り、彼女は困ったような顔で笑った。
「いつも同じ曲、聴いてるね」
「うん。好きなの」
「一途だなあ」
 わたしに笑いかける沖さんは本当にきれいで、想像よりずっとまっすぐだった。わたしはうろたえた。
「沖さんみたいで好きなの。本当はこんな曲より、何よりいちばん、沖さんが好きなの」
 思わずそんなことを口走りそうになった。涙が目にたまっているのがバレないように、わたしは彼女から顔をそらした。今さら教室内の雑踏が耳へ押し寄せる。沖さんのきれいな顔が、今も嫌悪に歪んでいないことにほっとして唇を噛みしめる。言ったら終わりだ。だから言わない。これはずっと。

 ヘッドフォンから流れこむいつもの音楽。わたしの体内を満たす音楽。教室で見た沖さんの微笑みを思い出す。わたしへ向けて声を発した、きれいなかたちの唇を思い出す。一気に頬へ熱がたまる。自転車にまたがり、帰り道、潮風の中を走り抜ける。



091031



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