リズム・アンド・ブルース



 埃っぽいロッジの中には歌詞も分からない英語の歌が充満している。永広が好きだというリズム・アンド・ブルースは俺にはよく分からないが、とりあえず永広がゴキゲンだからいい。目をつむり、リズムに合わせて小さく首を揺らす彼のとなりで、俺は朝から興味のない本を読みつづけている。
「ねえ…」
 ふいに何かを言おうとこちらを向いた永広が、俺を見て吹き出した。
「ずいぶん姿勢がいいなあ」
 笑いを含んだ声で言いながら、永広は俺が目の前で持っていた本を掴んで自分の方へと倒した。至近距離で目が合って、視界が永広の笑顔で埋め尽くされる。
「本が目に近いよ蓮田」
 間近で言われると急に照れくさくなって、俺は乱暴に本を元の位置へ戻した。
「なんだよ」
「ん?」
「ねえって言ったろ、さっき」
 本を読んで冷静なふりをしようとしたけど、活字を目で追うだけで内容はちっとも頭に入ってこなかった。
「ああ。忘れた」
 さらに近づいてこようとする永広から大げさなほど身を引く。奴との壁にしていた本が取り上げられて、再び目が合った。真っ直ぐこちらを見ているはずなのに、その内側の感情は一切読めはしない。元々存在しないのかもしれない。自分の中の何もかもを押し殺したような目を凝視しているうちに、永広の手が俺の首もとに触れた。
「嫌かな?」
 眉をしかめた俺の顔をのぞき込んで永広が問うてくる。「別に嫌じゃない」と答えたら、永広は「嘘つき」と口角をつり上げた。
「俺に触られるのが本当は嫌なくせに」
 永広の感情はいつもぐらぐらしていて、誰かが支えていないと壊れそうに見えるから、俺はどうにも彼を突き放すことができない。永広はそれを知っていて、自分でずっと微妙な距離を保ってきた。
「“現実に触れよ、とは”…」
 音読するように喋りながらのしかかってくる永広を押し返そうとしたけれど、彼の目があまりにも真剣なので思わず手の力が抜けた。それを見た永広が表情を崩す。木の床に押さえつけられた肩が痛かった。
「“切実な経験をせよということである”って安倍能成が」
「ふうん」
 話の流れが読めずに適当に相づちを打ってから、しまったと後悔したが、永広が怒った様子はない。ふと顔が近付いてきて、思わず目をつむったら鼻と鼻がぶつかった。
「してみる?」
 口元に彼の息がかかった。ゆっくりと離れていった永広に、何をするんだと問いかける。彼はにんまりと笑った。
「切実な経験」
 相変わらず何を考えているのだか分からない顔だ。服の中へ侵入しそうになっていた手を掴んで止めたら、その一瞬、永広の目に感情があふれたような気がした。
「おまえはしたいの」
「それ、今さら聞く?」
「…さみしいのかよ」
「どうして」
 俺の問いかけに永広は問いかけを返した。つめたい指先が頬に触れる。初めてまっすぐに見つめ合ったとたん、ふいに永広が立ち上がり、離れていく。その丸い背中を見ていたら無性にすがりつきたくなった。
「さみしいって、言えよ」
「おもしろいね。言ったらどうなるのかなあ」
「俺が…」
 言いかけた声を、急激に音量の上げられた歌が遮った。耳が痛い。俺は両手で耳を押さえて叫ぶように文句を言ったが、永広は爆音の中でスピーカーのリモコンを握ってふにゃりと笑っていた。もはや音楽にも聴こえないリズム・アンド・ブルースが、小さな室内からあふれんばかりに流れ出す。周りに人はいないが、それでもこんな音量で聴き続けていたら頭がおかしくなりそうだ。リモコンを奪おうと近付いたらあっという間に押し倒された。彼はしきりに何かつぶやいていたが、この爆音の中では小さな声が聞こえるはずもなく、次になぜ鳩尾を殴られたのかも分からなかった。理不尽な仕打ちに涙があふれそうになる。そうして同意もクソもないままに、爆音に満ちた小さなロッジの中で、俺は彼の言う切実な経験をさせられた。
「…さみしくて死にそうだよ」
 やっと音楽が消されて、静まり返った室内で、永広がぼそりとつぶやいた。あまりに現実味のない痛みにぼうっとしていた頭が、しだいにはっきりしてくる。全身がふるえた。足を引きずり後ずさってロッジを飛び出す。永広はずっと俺を見ていたが、追いかけてはこなかった。呼び止めもしなかった。
 本当は最後まであいつに付き合ってやる決心なんてできていなかった俺を、永広はちゃんと分かっていたのかもしれない。永広と歩いてきた森をひとりでよたよたと走りながら、わけも分からずに涙があふれた。

 そのまま、永広は失踪した。もとが気楽で気まぐれなやつだったので旅にでも出たのだろうと言われていたが、それから何ヶ月たっても永広は戻ってこなかった。死んだのではないかという噂も流れたが、そんな話題はすぐに忘れ去られ、永広は何人もの記憶の中から次々と消失していった。さみしくてしにそうだよ、最後に永広が言った言葉が頭をぐるぐると巡る。止まったはずのリズム・アンド・ブルースが、脳みそにじっとりと染み付いて、今も俺の頭の中で流れ続けている。



090811



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