アルファ4



 なってもいないインターフォンの音が聞こえた気がしたのは、いつもならその時間に訪ねてくる人がいるからだ。無意識に玄関の方角をちらりと見る。耳を澄ますと、お風呂場でごうごうと唸る洗濯機の音がよく聞こえた。
 目線を手元の小皿に戻した。食べ終えた枝豆の殻を、ごみ箱へ捨てるのをためらっている。中身を失ってしゅんとした様子が、なんとなく宝くんに似ていたからだ。一度そう思うと彼にしか見えず、捨てるのが悪い気がして、もう長い時間キッチンに立ちつくしていた。

 ふとブラジルに行きたくなる。以前、宝くんがその話をしていたからかもしれない。あの国は珈琲がおいしいと聞くが本当だろうか。何にせよ甘党な彼のようにミルクや砂糖を何杯も入れて飲むなら意味がない。
 迷いつづけるのにも疲れて、小皿を抱えたままキッチンを出た。ついでにコップに飲み物を入れていく。こんな土曜日の午後にゆっくりとくつろぐには、飲み物が必需品だ。冬はこたつになっているテーブルに小皿と飲み物を並べ、テレビでも付けようかとリモコンを目で探した。なかなか見つからないのは、宝くんがよくいたずらに隠してしまうからだ。本体でも操作はできるが、くやしいので意地になって探す。クッションの下や物の隙間などをさんざん探して、窓際の観葉植物の裏からやっとリモコンを見つけた。
 テレビの電源を入れる。一通りチャンネルを回してみたが、特に気になる番組はなかった。宝くんは、一緒に見ていた番組のチャンネルをわたしがころころ変えても怒らない。めんどくさそうな顔をして、わたしの意識をテレビから逸らそうとちょっかいをかけてくるだけだ。
 暑いなあと思ってうなじに手をやると、長い髪に隠れたそこがうっすらと汗をかいていた。緩慢な動作で立ち上がり、窓を開ける。すぐに涼しくはならないが、しばらくじっとしていると静かに風がふき込んでしあわせな気持ちになった。こんなとき宝くんがいるとすぐエアコンを付けたがる。
 部屋でもいちばんお気に入りの位置に戻ってテレビを見ながら、ふと飲み物を飲もうとコップに手を伸ばして、唖然とした。ふたつある。まるで無意識のうちに、わたしはそれが癖のように、二人分の飲み物を用意していたのだ。
「ばかじゃないか」
 記憶を反芻してみるほどに、ひとりでいても頭の中は彼ばかりの自分が見えてきて、吐き気のような感覚が込み上げた。
「ばかだ」
 くだらない喧嘩はもうおしまいにしよう。わたしは衝動のままに、宝くんの携帯へ電話をかける。彼はワンコールで出た。電話を取るなり裏返った声でハイと呟いた宝くんを、口から内臓が飛び出すほど強く抱きしめたいと思った。
 ので、その旨を電話ごしに伝える。
『内臓はかんべんして』
 宝くんは笑って、今からそっちに行くと電話を切った。聞き慣れたインターフォンの音が室内に響くころ、わたしの吐き気は強くなっていて、宝くんの顔を見た瞬間、けれどそれが吐き気ではなかったことに気付いた。胸がつまる。わたしの目の前にたたずむぼさぼさの黒髪を、普段より少し乱暴に撫でまわす。とおくから、洗濯の終わりをつげるピーッという音が聞こえた。



090726



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