西瓜に醤油



 夜中の二時。公園のベンチ。ベヴェルライトの甘い匂い。
「夜行列車に乗りたい」
 となりで静かに煙草を吸っていたあひるが唐突に言って、勢いよく立ち上がった。腰に付けた携帯灰皿に慣れた手つきで吸い殻を収め、ぽかんとしている俺の手を掴む。あひるというのはこの男の愛称だ。唇がアヒルのように尖っているため、中学時代からそう呼ばれているらしい。大学生になった今でもその呼び名は変わらない。
「なあ、夜行列車に乗ろう」
「乗ってどこ行くんだよ」
「どこでもいいよ。見るだけでもいいから」
 あひるはとにかく俺を立たせようと、掴んだ腕を引っ張った。必死で踏ん張れば抵抗できるが、そこまでいやな訳でもないので素直に腰を浮かせる。
「めんどくせえ…」
 素直な気持ちを口すると、あひるはふにゃりと気の抜けた顔で笑った。月明かりと外灯に照らされて、少し色の抜けた柔らかな髪の毛が闇に浮かび上がっていた。
「旬くんがさあ、一緒にきてくれたら、おれ禁煙するから」
「はいはい」
 あひるの「禁煙する」は口癖みたいなものだ。真に受けてはいけない。大学で出会ってからの二年間でそのことは嫌と言うほど学んだので、軽く受け流した。
「どうして急に夜行列車なんか」
 もうすぐ家に帰ろうかというところで、突然二人乗りのバイクを長い距離運転させらされることになった理由を知りたかった。そもそも夜中の二時なんかに公園のベンチに並んで座っていたのも、あひるの唐突な思いつきによるものだ。「夕方から夜中まで公園のベンチに座っていたら、どんな気分になるのか知りたい」と言い出したときはバカじゃないかと思ったが、あひるにはどこか放っておけない雰囲気がある。一人でも行くと言い出した彼に付いてきたのも結局は俺の意思だ。
 俺の問いかけに、後ろで腰へしがみついていたあひるがうーんと首をかしげる気配がした。
「多分、歌か何かで聞いたんだ。それからずっと憧れてたのかも」
「ふうん」
「歌では、ひとりだったけどね」
 そう笑ったあひるに少しイラッとして、「じゃあひとりで行け」と前を向いたまま言った。あひるは困ったように「歩いて?」と呟いた。その声は微量の笑みと甘えを含んでいて、俺は黙ったまま大きなカーブを曲がった。

 地図もなしに行ったせいで途中で道に迷ってしまい、夜行列車を見ることはできなかった。あひるは拗ねたが、俺がまた行こうと言うとようやく笑った。そのまま家に戻る。小さな木造のアパートで、部屋があひると隣同士だ。玄関に鍵を差し込み、ノブを回す。中へ入るとあひるも当然のように後をついてきた。きちんと靴を履かないあひるが歩くと、ぺたぺたと音がする。それでずっとついてくるのがまるで本物のアヒルのようで、少し口元が緩んだ。朝食の時間だ。
 朝食の準備をしながら、ゴールデンバットに火を付けた。普段滅多に煙草を吸わない俺の一連の仕草をじっと見つめるあひるに、「吸う?」と一本差し出したが、あひるは首を横に振った。あひるが吸っているベヴェルライトは、煙は多いが軽くて甘い。パッケージ的にも女性向けのものと思われるのだが、それしか吸ったことがないというあひるには、確かにゴールデンバットは強すぎるかもしれない。舌についた葉を吐き出す俺を見ながら、あひるはテーブルに両肘をついてにこにこしていた。

 あひるが常に持ち歩いているもの。携帯灰皿と、醤油。卵や豆腐はもちろん、あひるは他のあらゆる食品に醤油をかけたがる。彼といるとたまに本気で頭がおかしいんじゃないかと思わされることがあるが、本人はいたって平然としていた。あひると食事をするとき、まさかこれにはかけないだろう思われる食品をわざと出してみることがあるが、彼は期待を裏切らない。これまで饅頭にもケーキにもためらうことなく醤油をかけて口に運んできた。
「それ、おいしいの?」
 この日も、出されたサイコロサイズの西瓜に迷わず醤油をかけたあひるを見て、正面から問いかけた。「食べる?」と箸に刺した西瓜を差し出され「いい」と顔を背ける。うまいとは思えなかった。
 食器はいつもあひるが洗う。彼の手つきは慣れたもので、皿のぶつかり合うカチャカチャという音がいっさいしない。水音も最小限だ。洗い終わったのが分からないので、ソファで寝ころんで待っている俺はいつも突然のしかかってくるあひるに驚かされた。
 何見てるの。俯せの俺の腰に座ったまま手元をのぞき込んでくるあひるを、押しのけようと身を捩る。雑誌、重いよお前。そんなことないとあひるは笑う。いつまでも立ち上がろうとしない。諦めて雑誌に目線を戻すと、あひるの手が俺の髪の毛に触れた。西瓜の甘い匂いがした。
「あひるさあ」
「なあに」
「俺にもいつか醤油かけんの」
 雑誌を読むふりをしながら問いかける。ちらりと目線をやると、真ん丸な目を細めて笑っているあひると目が合った。
「おれ、子供できたんだ」
 唐突にそんなことを言う。極端な狼狽こそしないが、雑誌を落とした俺を見てあひるは吹き出した。
「おれの腹にとは言わないよ」
 じゃあどこに、なんてバカげた質問だ。今までそんな素振りはひとつも見せなかったくせに。
「予定日は?」
「昨日」
「バカか、お前!」
 平気な顔で答えたあひるに、俺は慌てて飛び起きようとした。それでもあひるは一切動こうとせず、俺はソファに寝ころんだまま動けない。そんなに体格差がある訳でもないのに、あひるは的確な場所に的確な方法で体重をかけていた。
「公園とか、行ってる場合じゃねえだろ」
「うん」
「なにが、夜行列車だよ」
「うん」
「バカじゃん…」
 あひるが俯く。横目にもうつろな瞳が一体どこを見ているのか、俺にも分からなかった。
「旬くん、全部嘘だって言ったら怒るか」
 直後、真剣な顔できいてきたあひるに、俺はどっと疲れを感じた。
「…殴る」
「よかった。予定日は、本当は半年後。それ以外は本当だから」
 そう言ってやっと腰を上げたあひると向き合う。
「本当か」
「うん」
「絶対に?」
「うん」
 もう一度頷いたあひるを、思いっきり殴った。あひるはよろめいて尻餅をつき、唖然とした顔で俺を見た。俺は思ったよりずっと冷静に、あひるを見下ろしていた。あひるの尖った唇が震える。小動物のような目だと思った。
「旬くん、ごめん、おれ、もう煙草吸わない」
「本当かよ。吸ったら絶交するぞ」
 あひるが唇を噛みしめるのを見ながら、こいつが禁煙できるはずもないと思った。どうせいつもの戯言だ。数日中、早ければ数時間以内に煙草に火をつけてもおかしくない。そうなれば本気で突き放すつもりだった。けれどそれ以来、あひるは携帯灰皿を持ち歩かなくなった。アパートのゴミ捨て場に、新品のベヴェルライトが何箱も捨てられていた。時間が経ち、俺の気持ちが治まっても、あひるの口端にいつもの煙草はなく、かわりに習慣となったガムをもぐもぐと噛んでいた。味がなくなったガムでも、あひるは平気で二日三日と噛み続けた。大学の卒業式が近づいている。

 あひるは卒業と同時にアパートを出た。新しい住所は聞いていない。大家に聞けば教えてくれるかもしれないが、聞く気にもなれなかった。夜行列車を見に行こうという約束は果たされないまま、俺たちは別々の道を歩み始めた。
 それから数ヶ月後、一件の留守電を聞いていた俺は、それがあひるの声だと気づいて、慌てた。限界まで電話に近づき、集中してその声を聴く。子供が無事産まれたこと、相手の女性と結婚すること、そして煙草はまだ吸っていないことを告げて、あひるの留守電は時間切れで終わった。ため息が出た。
 醤油をかけた西瓜を、平然と差し出してきたあひるの顔を思い出す。食べておけばよかった、と思ったらじわりと喉が熱くなった。俺は今、ベヴェルライトを吸う女性と付き合っている。



090628



-エムブロ-