群青



 いつも電気のついていない弟の部屋からは、度々ギターの音が聞こえる。窓にもぶ厚いカーテンを張り付けた彼の部屋は真っ暗だ。そんな中でよく生活ができるなあと思うが、彼いわく、光を浴びるとよくないことがあるらしい。
「どう思う?」
 ふいに蚊の鳴くような声が聞こえて、自分が弟の部屋にいたことを思い出した。暗闇に慣れてきた目が、弟の輪郭をとらえる。彼はベッドの上でクッションを抱えてわたしを見ているようだった。少し大きめのクッションは十六歳の誕生日にわたしがプレゼントしたもので、海の深いところみたいな群青が彼に似合うと思って買ったのに、暗闇では意味がない。
「どうって」
「だから、ヘビを飼いたいんだ。毒もないし、人懐こくて安全なやつ」
「でも歯はあるんでしょ」
「そんなのは大抵の生き物に…」
 弟がクッションに顔をうずめたところで、廊下の柱時計がぼんやりと学校へ行く時刻を告げた。反射的に腰を上げたわたしに、弟は「いってらっしゃい」と拗ねたような声でつぶやいた。

 部屋の外は眩しかった。マンションを出て日光の下に晒されると、もっと眩しかった。目を細めて弟の部屋の窓を見上げる。407号室。沿岸に建つ古びたマンションで、ほとんどの窓から海が見えるが、閉鎖された彼の窓からは見えない。
 わたしの弟は、狭い世界の中で長い時間を過ごした。心地いい日差しの眩しさを、彼の体はきっともう忘れてしまっている。

 いつもの時間に帰宅すると、家の中が弟のギターの音に満ちていた。リビングの椅子に腰掛けて耳をすませる。やわらかな旋律が、まるで彼自身に包み込まれているようで心地よかった。急速に眠気が近づいてくる。夕食までまだ時間があるのを確認して、そのままテーブルにもたれて瞼を閉じた。
 目が覚めたのは、弟の手がわたしに触れたからだ。重い瞼を上げれば、自分の部屋から出るはずもない弟がすぐそばに立っていた。夢かと思ったが、死人のように青白い弟の手は確かに他人の熱を帯びていた。久しぶりに光の下で見た弟はひどく痩せていて、身長ばかりがひょろ長い豆腐みたいだ。伸ばしてきた彼の手を握ることをためらう。ふいに数え切れないほどの不安が煙のように沸き上がり、体中にあふれた。
「わたしがいなくなったらどうなるの」
 力を込めすぎて壊れないよう、注意してそっと手に触れる。安心したように握り返してきた彼の手の力は、その見かけからは想像も出来ないほど強かった。
「おれが生きてるのは、姉さんが生きてるから」
 真っ直ぐにこちらを見る弟の瞳は漆黒で、その中にわたしがいた。外した眼鏡を長い袖で拭く弟を見ながら、やっぱり彼には群青が似合うと強く思う。
「姉さんの終わりが、おれの終わり」
 直後、弟は光が眩しいと言って嘔吐した。そして涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになった顔でわたしを見つめ、ついでに感情も吐き出すかのように、薄い唇の隙間からボロボロと言葉をこぼした。
「ごめん。いつも迷惑かけてごめん。わがままばっかりでごめん。ちゃんとできなくてごめん」
 肩をふるわす弟を、幼いころのように抱きしめて頭をなでてやる。彼はしゃくりあげ、また嘔吐した。

 うす暗い部屋に戻ってギターを握る。そうして深呼吸をしていると、心がひどく落ち着くのだと、彼は言う。明るいところに出れば彼によく似合う群青のクッションを抱えて、弟は静かにギターを鳴らす。わたしはそれを聴いている。



090718



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