400



 人間が全力疾走できる限界の距離は四百メートルらしいよ、と唐突に村西が言った。小雨の降る放課後のことだった。日の暮れかけた薄暗い教室内には、私と彼のふたりしかいなかった。
「で?」
 先を促すように呟くと、教卓にひじをついていた彼は嬉しそうに身を乗り出した。
「一緒に陸上部に入ろう」
「やだよ」
「どうして」
 白々しく問うてくる村西を無視する。喘息持ちの私は幼い頃から激しい運動ができない。そんなのは百も承知なくせに、彼は時々見計らったように意地悪をする。
「人って、限界まで走ったらどんなふうになるのかなあ」
 ふにゃりと表情をゆるめて、村西は外に目をやった。朝から降り続く雨が窓を濡らして、外の景色はぼんやりしていた。
「気になるよねえ」
 彼の目線は何の輪郭も捉えず、ただ遠くの雲の黒い色を見ている。

 最後のチャイムで教室を出た。高校に入ってから一度も天気予報を見たことがないという村西と、同じ傘で歩き出す。隣を歩く村西の歩幅は小さくて、ふいに泣きそうになった。
 四百メートル。トラックちょうど一周分のスプリント。ここからならあの電柱くらいまでだろうか。そんなのはひどくあっという間のようにも思えるし、果てしなく長いようにも思える。
「走ろうか、四百メートルだけ」
 歩きながらぽつりと呟けば、傘の柄を握っていた私の手に、あたたかな手が重ねられた。となりで彼が唇を噛む気配がして、心臓が、ぎゅっと縮む。
「明日、晴れたらな」
 そう言った彼の左肩を、本格的に降り始めた雨は容赦なく濡らした。気まぐれに遠回りをして家についた時、自分が一滴の雨にも濡れていないことに気付いた私は、花柄の傘を差して大きな歩幅で歩いていく彼の、後ろ姿を見送っていた。



090618



rubbish提出作品



-エムブロ-