しろいさかな



 その男の子の横顔は、昔飼っていた犬によく似ていた。小学校低学年くらいだろうか、田舎町の小さなペットショップで、男の子はずっと同じ魚を見ていた。少し高い位置にある水槽を見上げるには、彼はずいぶん首を上げなくてはいけない。必死で上を向き続ける姿が可愛らしかった。男の子がいなくなったあと、どんなに面白い魚を見ていたのだろうかとのぞいてみれば、水槽の中を漂っているのは一匹のまっ白な魚だ。目だけが赤いのが少し異様で、恐ろしくもある。名前をちらりと見たけれど、家に帰ったころには、片仮名の長ったらしい名前だったことしか覚えていなかった。
「朝子、またキュカのお店に行ったの?」
「違うよ」
 帰るなり母に問われて、咄嗟に嘘をついた。
「嘘ついたって駄目よ、ほら、動物くさいじゃないの」
 母はわたしの手を取ってにおいをかぐと、わざとらしく顔をしかめた。その手を振りほどき、階段を駆け上がる。部屋の扉を閉めると、「早くお風呂に入りなさい」という声が聞こえてきた。母の動物嫌いは異常だ。数年前に死んだ犬の世話にも一切関わろうとはしなかったし、彼女は世の中の全ての動物が嫌いなのではないのかと思う。父やわたしや弟のことですら、彼女は心から愛していないのではないか。

 またあの男の子を見た。同じペットショップの、同じ水槽の前で、彼はやはりあの魚を見つめているのだった。目だけ赤い、まっ白で、長ったらしい名前の魚。わたしはゆっくりと他の魚を見ていくふりをして、その男の子のとなりで止まった。男の子はわたしなど目の端にも入れようとせず、視線はただ真っ直ぐだった。魚の名前にもう一度目を通す。
「あるびのだいやもんど…おふすろ…ねーむす、ぐらみー」
 小さく声に出して読んでみると、男の子が口を開いた。「オフスロじゃなくて、オスフロだよ」とだけ呟く。か細いけれどしっかりとした口調だった。目線は相変わらず魚に向けられたままだ。横目でちらりとそれを見て、わたしも魚に目線を戻す。しばらく無言で並んで魚を見ていた。
「この魚、飼いたいの?」
 ふいに問いかけると、男の子がパッとこちらを向いた。
「買っちゃうの?」
 ずいぶん不安げな声だ。思わず目を合わせると、やはりその顔は昔飼っていた犬を彷彿とさせた。こちらまで戸惑って目線が泳ぐ。
「いや…ずっと、見てたから。飼いたいのかなあ、って」
「僕は飼わないよ」
 飼えない、ではないんだなと思う。
「わたしも飼わないよ」
 すぐに言ったけれど、男の子はそれでもこちらを見続けていた。不安そうに見上げる両目が、犬が留守番の前によく見せていた表情と重なった。
「僕、この魚、飼いたいわけじゃないんだ。好きでもないんだ。見てるとなんだか嫌な気持ちになるから。でも、目を離したくないんだ」
 男の子はずっとわたしを見ていた。わたしも彼の双眸から、目が離せなくなった。彼はのんびりと言葉を続けた。
「この魚、カイリョウヒンシュって言うんだって。元は色があったのを、人がカイリョウしたからって。母さんは可哀相にって言ったけど、僕はいいなあって思ったよ。普通のより、カイリョウヒンシュの方が高いもん、それって他よりすごいってことでしょ?好きになってもらえるんでしょ?だったら僕、うらやましいなあって思ったよ」
「…それ母さんに言った?」
「言わないよ。たぶん、嫌な顔するもん」
 そう言って困った顔をする。思った以上に沢山を考えているんだなあと思いながら、うちの母のことが頭をよぎる。
「わたしも言わないかな。うちの母さん、世界中の動物が嫌いなんだ」
「そんな人いるの?」
 わたしの呟きに、男の子は心から不思議そうな声を出した。純粋な疑問の言葉が、するりとわたしの脳に入り込む。そんな人がいるのか?どうなんだろう。分からなかった。
「分からないけど」
 男の子の素直につられて、わたしも本音を漏らした。
「分からないことだらけだよねえ」
 男の子が言った。わたしは妙に納得して、両手を軽く組んだまま、何度も首を縦に振った。男の子も真似をするように首を振っては、嬉しそうにふにゃりと笑った。
 男の子と別れて、のんびりと家に帰りながら、なんだか妙に気分がすっきりしていることに気付く。たくさんの命にあふれたあの店で、わたしたちは話し相手を探していたんだろうか。ほんの少しだけ分かり合って、共感して、うんうんと一緒に首を振れる相手を。もう引き返すには遠すぎる距離まで来た頃、名前くらい訊いておけばよかったなあと思った。

 家に帰ると、母が庭にしゃがみ込み、静かに犬の墓の前で手を合わせていた。帰ってきたわたしに気付いた母は、スッと立ち上がって気まずそうに笑った。
「また、キュカに行ってきたんじゃないでしょうねえ」
「行ってきたよ」
 母の目を真っ直ぐに見ながら言った。この庭で、ほんの数年前まで、犬が走り回っていた。母はいつも家の中にいた。家の中から、みんなを見ていた。犬も時たま確認するように室内を見るのが、おかしかった。やんちゃで強気なくせに、ひどく淋しがりな犬だった。それでも、言うことを聞かなくたって、悪さばっかりしたって、少し離れようとするたびに不安げな目で見上げられると、可愛くて仕方がなかった。
「楽しかった?」
 母が呟いて、わたしは頷いた。久しぶりに目を見て話をした気がした。
 その日の夕食の時間、母が、土曜日になったら久しぶりにみんなでキュカに行こうかと言い出した。反対する人はいなかった。



(アルビノダイヤモンドオスフロネームスグラミー)



090518



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