誰かの日記帳



19XX年7月1日
みんなはわたしが何も知らないと思ってる。でもわたしは知っている。夜になると水のない池を魚が泳いでいること。葉も無い桜の木から花びらが落ちてくること。姉が冷蔵庫を開けて、ありもしない氷をむさぼっていること。

19XX年7月2日
母は花が好きだ。いつもわたしを花の名前で呼ぶ。菊だったり薔薇だったり、それは日によって違う。今日は紫陽花だった。紫陽花は好きだ。いやなにおいがしないから。ひとつひとつの花びらみたいにわたしも綺麗になりたい。

19XX年7月3日
おじいちゃんは時々、何もない宙を見つめて叫ぶ。今日もおじいちゃんは、わたしの少し後ろを見て、いつもの足跡を見つけて叫んだ。「大きな犬が来るぞぉう」。何度も叫んでいた。少しうるさかった。

19XX年7月4日
今日は空が真っ赤に染まった。まるで兄が死んだ時みたい。辺りを血で真っ赤に染めて倒れていた兄の顔をまだ覚えている。兄を轢いた車はまだ見つからない。

19XX年7月5日
わたしは大きくなりたい。でも小さいままだし、多分これからもずっと小さいままだ。でも姉はとっても大きい。わたしはとても羨ましい。でも、姉は小さくなりたかったって言ってた。最近は姉の頭が天井に付くのでみんな困っているようだ。

19XX年7月6日
おばあちゃんが叫んだら、わたしの影がおばあちゃんに付いた。そして行き場を無くしたおばあちゃんの影は、わたしにぴったりくっついた。はじめは何ともなかったのに、今は腰がとても痛い。おばあちゃんは元気に庭を走り回っている。

19XX年7月7日
おばあちゃんはよく叫ぶ。そのたび、何か変なことが起こる。今日もおばあちゃんが叫んだ。ふすまの穴からこっそりのぞいたら、おばあちゃんの前に真っ赤な人が立っていた。おばあちゃんは天使だって言い張ったけど、わたしは本当はそれが何なのか知っている。

〔1ページ紛失(破られた形跡あり)〕

19XX年7月9日
父が鶏を拾ってきた。鶏はわたしの部屋を取ってしまった。仕方なくわたしは庭で寝ている。

19XX年7月10日
大きな姉。悪魔を喚ぶおばあちゃん。殺された兄。花に狂った母。足跡を見るおじいちゃん。わたしを部屋から追い出した鶏。その鶏を拾ってきた父。みんなは怖いというけれど、わたしはこの家族が好きだ。何となくそう思った。

19XX年7月11日
姉は学校に行けない。学校が姉を退学にした。今日、わたしはとてもむしゃくしゃしたので学校の窓を全部割ってやった。学校はわたしを追い出さなかった。学校の考えてる事がわからない。

19XX年7月12日
白くなってきたわたしの息を見て、おじいちゃんがまた叫んだ。おばあちゃんは、ふすまの奥で悪魔と遊んでいる。姉は氷をむさぼり、母は生け花に夢中。鶏はまだ布団の中で寝ているし、父は仕事に行った。退屈だったので仕方なく、おじいちゃんと一緒に叫んだ。

19XX年7月13日
「これが最後だ」。昨日の夜、父が鶏にそう言うのが聞こえた。わたしは今日から暖かい部屋に戻れると思ってたのに、鶏は今日も部屋から出ようとしなかった。わたしが様子を見に部屋に行こうとしたら、鶏は大きな声で鳴いた。父が飛んできて、鶏の頭を撫でた。わたしは庭に戻った。何が最後だったのかいまだに分からない。少し怖いです。

19XX年7月14日
あんまり毎晩、姉が美味しそうに氷を食べるので、わたしも食べたくなった。でもわたしが氷を持とうとしたら、氷はピリッという音を立てて粉々に砕けた。それでわたしは、我が家の氷は姉しか持つことが出来ないのだと思い出した。

19XX年7月15日
父が買ってきた映写機からは、カタカタと変な音がした。空気が震えて、真っ暗な部屋に映像が浮かび上がる。いちばんに小さい頃のわたし達が映った。嬉しかった。でもわたしが五歳になるころから、姉しか映されなくなった。悲しくなって庭に戻った。

19XX年7月16日
母に、開けてはいけないと言われたタンスがある。とても開けてみたいのだが、タンスには鍵がかかっている。開けたくても開けられない。

19XX年7月17日
父は毎日鶏の頭を撫でている。そのたび、鶏は目を細めて気持ちよさそうにしている。悔しい。わたしはもう、父がわたしの頭を撫でる感覚を覚えていない。

19XX年7月18日
タンスの鍵を見つけた。わたしの爪だった。開けてはいけないと言われたタンスの、しっかりとした鍵穴に、わたしの爪はすっぽりとはまった。鍵を開けかけたけど、何かを感じて手を止めた。とてもこわかった。

19XX年7月19日
この家には金魚がいる。真っ赤な和金が十匹と、真っ黒なデメ金が一匹。餌を与えたとき、泳ぎの遅いデメ金はいつも和金に先を越されて何も食べられない。真っ赤な和金に囲まれて、デメ金はまるで水の中に落ちたインクのシミみたいだ。周りから拒絶され、浮いている。今日、思ったのだが、真っ黒だったデメ金が赤くなり始めたような気がする。

19XX年7月20日
家に蜘蛛が出た。姉は怖がったけど、わたしは別に怖くない。むしろ可愛いから飼いたいくらいなのに、怖がる姉を見た父は蜘蛛を潰してしまった。わたしはもう名前も付けていたのに。庭に出てこっそり泣いた。

19XX年7月21日
わたしは鏡に映らない。だから、自分が今どんな姿をしているのか分からない。今までは知りたいとも思わなかったのに、最近少し気になり始めた。それでも鏡はわたしを映してはくれない。

19XX年7月22日
空はいつだって赤かった。兄が死んだ日も、姉が退学になった日も、父が鶏を連れてきた日も。なのに今日だけ、なぜこんなにも空が青いんだろう。赤い空はきらいだけど、青い空はもっときらいだ。

19XX年7月23日
お気に入りの人形があった。わたしはいつもそれで遊んでいた。本当に大好きだった。なのに今日、それがゴミ袋に入ってた。悲しくなった。もう悲しくなるのはいやだ。

19XX年7月24日
以前はわたしが家に入ろうとしたら、みんな怒った。でも今日は誰も何も言わなかった。おじいちゃんだけが、足跡を見たと言って叫んだけど、誰も相手にしなかった。

19XX年7月25日
「大きな犬が来るぞぉう」。おじいちゃんの叫び。続いて、おばあちゃんが叫んだ。「犬じゃ犬じゃあああ」。二人の震える指先は、真っ直ぐわたしを指していた。

19XX年7月26日
「ほら、始まるよ」。夢の中で誰かがわたしを呼んだ。「おいで。行かなくちゃ」。それは懐かしい兄の声だった。涙が出た。お兄ちゃんって呼ぼうとしたのに、わたしの声は「わん」と言う虚しい響きになって、高い空に登っていった。夢の中で、わたしは何かを思い出した。

19XX年7月?日
そうだわたしは死んでいたのだあの雨の日にお兄ちゃんと一緒に。そしてわたしの記憶の中の最大の間違い、わたしは犬だった、姉も犬、大きな犬。小屋の天井に頭が付いてみんな悩んでいる。わたしのきょうだいは皆犬だった。ただひとり人間だった兄を除いて。犬だった。思い出した瞬間、わたしの存在は〔六字不明〕た。



-エムブロ-