01/21 16:02

遠くで人の笑い声がする。さざ波のようなそれに混じって、はは、と乾いた笑い声。よく聞き慣れた男の声が大王のものだとわかって、僕は薄く目を開く。見慣れない壁、身体には薄い布団がかかっている。あ、おはよう鬼男くん。そう声が飛んできて、僕は弾かれたように跳ね起きた。
「イノシシ!」
「イノシシはもう大丈夫だから」
「ていうかここどこですか!?」
「…どこだと思う?」
傍らのソファに腰掛けた大王はにやりと笑って首を傾げた。
地獄から逃げ出した獄卒鬼が人間界で大暴れしているらしい、という不祥事中の不祥事の解決のため人間界に赴き、なんとか地獄に送り戻したところで河川敷のイノシシに追い掛け回されて川に落ちたところで僕の記憶は途切れている。そこまで広くはない部屋、中央に鎮座するやたら広いベッドに僕は寝かせられていたらしい。壁にかかったテレビからはバラエティ番組が流れている。
着ていた服はぺらぺらの浴衣に変わっていて、枕元を見れば小さな皿に小さな包みが置かれている。その袋の正体に思い至って思わず大王を見れば、ソファのひじ掛けに肘をついてこちらを見ている大王と目があった。
「鬼男くんここまで引っ張ってくんの大変だったんだから」
「…このまま冥府に戻ればよかったじゃないですか」
「だって戻りの予定時刻まだ余裕あったからさあ」
一度行ってみたかったんだよね、ココ、と笑う彼に、冥府なら爪を突き刺しているところだったが、生憎人間界のヒトの肉体を得ている今はそんな力はないのだった。テレビからどっと笑い声が漏れる。
ここがどういう目的の宿泊施設なのかはわかった。問題は、僕が閻魔大王をそういう目的の対象として見ていることであり、そんなこと死んでも言えるはずもなく内緒にしていることであり、大王はそれに気づいてはいないということだ。僕が川に落ちてそれを大王が助けて、ホテルに連れ込んで回復するのを待っていた。そこに他意はなく、あとは時間になったら冥府に二人そろって戻るだけ。ただの言葉通り休憩、ここは言うならば救護室、それ以上でもそれ以下でもないと言い聞かせて僕はテレビを眺めている大王に問いかける。
「大王、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。問題も解決しましたし、もう戻りましょう」
「まだ二時間くらいあるじゃん」
「戻るのが早いには越したことないでしょう、つかまだ仕事残ってんだろ」
「ええー…鬼男くん、助けたオレにもうちょっと感謝の気持ちっつーもんがあってもよくない?」
「そりゃまあ、ありますけど…」
「じゃあちょっとそこ、もうちょっと横行って」
「え」
いうや否や、ソファから立ち上がった大王はベッドに膝をついて乗り上がる。ぎし、ときしむ音がやたら大きく感じられて息を呑んだ。
ふうん、と納得したような彼はごろりと隣に横になる。黒のズボンから覗く足は素足で、白いつま先がシーツを蹴る。
寝転がったまま、僕を見上げた大王は口元に笑みを浮かべて、結構いいね、と囁くように言った。
細めた赤い瞳に、ぞわ、と震えが走る。視線を外して、僕は口を開く。
「…っ、大王の寝室のほうが広いでしょう」
「まあね。でもさあ、ソレ専用っていうのが、」
「大王、いい加減に」
「何慌ててんの」
「何も、」
「せっかくだから、『ソレ』、試してみる?」
身体を起こした大王が僕の顔を覗き込む。その瞳を見たとたん、大王にすべて知られているのを僕は悟った。彼に抱く劣情を隠し通せるわけがなかった。何せ、彼は冥府の王なのだ。後悔からなのか恥ずかしさからなのか顔が燃えるように熱い。消えたい、という気持ちとは裏腹に、身体が熱くなっていくのが浅ましい。
睨みつけると大王は満足げに笑った。
「…誘ったのはアンタだからな」
「あはは、そうじゃなきゃこんなトコ、来ないよ」
彼の指先が頬に触れる。その指を掴んで、僕は彼の唇に噛みついた。



 
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