pixivの企画【百怪談】参加作品を流用。


 艶のある黒髪を揺らしながら、二階堂さんは廊下を歩いていました。一年一組の教室を通り過ぎます。
「人間の魂は二十一グラムだそうですよ」
 突然そんなことを言うと、続けて言葉を紡ぎました。
「ダンカン・マクドゥーガルと言う医師の行った実験によれば、人が死んだ際に水分の減少とは別に、二十一グラム分、なんらかのものが消えていたそうです」
「それが、魂ですか?」
「かもしれないという話です」
 小さく笑い、そして保健室の前で立ち止まりました。真っ白な扉を見つめています。曇りガラスを覗きこみました。
「なかが気になるなら、入ってみますか?」
 二階堂さんは先日転校してきたのです。いろいろなところに興味を魅かれるのでしょう。
「いえ、今日は結構です」
 としかし、あっさりと窓から目を離しました。――そう言えばと、歩を進めながら口を開きます。
「怪談、でしたか? 聞かれていたのは」
「そう。どんな話でも良いんですけど、知りませんか?」
「流行っているのですか? この学園では」
「流行っている……と言うわけではないんですけど……」
 百藤学園の性。其処には、怪談が集まり、そして怪異の影が差す。噂をするから、影が差す。
「そうですねぇ」
 一年一組の教室の前で一度立ち止まり、顎に手を沿えて、何か考え込む仕草を取ります。――≪コンスタンツ湖の寓話≫――そうして、呟きました。
「知っていますか?」
「いえ……」
「ではお話ししましょう」
 二階堂さんは歩を進め始めます。
「旅人が馬に乗って、雪の降る平野を走っていました。雪は最早吹雪と呼ぶべき激しさであり、旅人も馬も限界でした。更に走り続けると、旅人は小さな灯りを見つけます。近づいてみれば、それは家の、宿の灯りでした」
 それは歌うようでした。歩き続ける様は、ミュージカルのようであり、細く、すらりとした二階堂さんは舞台俳優のようでした。
「旅人は扉を叩きます。『ここまで何とか来たのだが、この吹雪だ。一晩泊めてくれないか?』宿主は一瞬目を見開きましたが、すぐに労わるような表情に変わり『おぉ、大変だったな。早く入りなさい』と、快く迎えてくれました。旅人は裏の馬小屋に馬を留めると、宿主に続いて宿へと入りました。『しかしあんた、どっから来たんだい? 随分とボロボロだが』『北の方からだ』旅人がそう答えると、宿主は大きな声で笑いました。『おいおい、あんた、コンスタンツ湖を馬で走ってきたのかい?』振り向くと、旅人は崩れ落ち、死んでいました」
 言葉の残滓が、長い長い廊下の隅まで響きます。二階堂さんは手を後ろで組んだまま、一定のペースで歩き続けています。しかし、それぎり口を開かず、どうやら怪談はこれで終わりのようです。
「それが、二階堂さんの怪談ですか?」
 一年一組の教室を通り過ぎて、二階堂さんは保健室の扉の前で止まりました。
「面白くなかったかな?」
「いえ、面白いは面白かったのですが……怪談なのかなって」
 ≪コンスタンツ湖の寓話≫……そう二階堂さんは言いました。怪談ではないのです。
 怪異のごとく語っていましたが、結局は不思議なお話で済んでしまいます。怪談は不思議なものではありますが、不思議なものが怪談とは限りません。
「怪談ですよ」
 しかし二階堂さんは言い切りました。きっぱりとして、異論は認めない……そのような雰囲気でした。
「どうしようもなく《コレ》は怪談なのです」
「どういうことですか?」
「そうですね。旅人の死因が分かりますか?」
「死因……ですか」
「彼は≪魂≫を失って……いえ、≪魂≫が別の場所に移ってしまっていたのですよ」
 二十一グラム分ね。二階堂さんは付け足します。いたずら気な笑みを浮かべていました。
「魂が移る場所? そんな場所があるんですか?」
「夢」
「夢?」
「そう。そして、その夢を≪喰われ≫て≪魂≫を失った」
 だから死んだ。
「喰う……。夢を?」
 二階堂さんは黙って頷きました。その後、ゆっくりと視線が横へ動きました。
「知っていますか? 知らないことは夢に出ないのです」
「それは実証出来ないことでしょう」
「実証なんて、必要ありません。重要なのは知らないことは夢に出ないという、認識」
「知らないことは……夢に出ない」
 コン……と、二階堂さんが扉を叩きました。
「保健室。おそらく、知っているのは此処と教室だけなのでしょう……あることは知っているが、どこにどうあるのか知らない。『だからない』」
 声が段々と大きくなっていきます。
「誰もいない森で木が折れました。さて、その音はしたのでしょうか」
 認識論です。世界は五分前に出来ている。認識されなければ、存在しないのと同じである。
「教室で倒れ、保健室へ運ばれた……それは入学当日のことです。途中で見た教室は覚えているのかもしれませんが、中身は知らないでしょう?」
 止まることなく、二階堂さんは言葉を連ねていきます。
「だから、歩き続けている。曲がり角はない。階段もない。行き止まらない」
「じゃぁ! なんで二階堂さんは……」
「分かっていることをわざわざ確認するのは頂けない」
 突っぱねるように、強く言います。視線は曇りガラスに向いていました。
「いいえ分かりません……二階堂さんを知らないはずなのに、何故、夢に出てきているのか!」
 嘆息して、二階堂さんは顔を上げました。眼鏡の奥の瞳が、鈍く、深い色で光りました。
「知っていますか。ト書きは嘘を吐かない。小説の原則です」
 応えはありません。
「そして、夢落ちはいけない。マンガの師の鉄則です」
 応えはありません。
「嘘を吐く前に、夢に落ちる前に、終わらせましょう。今日の夢はここまでです。二度と、お会いすることもないでしょう」
 ぱちぃんと、静かに音が響きます。
 二階堂さんは白い扉の横に設置されたソファに座っていました。ソファも白く、廊下も白い。……病院のようです。たくさんの足音が響くのを、黙って聞いています。
『どうした!』
『容体が……急変……いえ、心肺が停止しました』
『なんだと!? いくらなんでも突発過ぎる。どういうことなんだ』
『おかしいんです……切れたように、いきなり、心停止して……』
 二階堂さんは立ち上がりました。艶のある黒い髪が揺れました。黒い制服は、喪服のようにも見えます。胸ポケットに挿した赤いフレームの眼鏡が、黒の中に毒々しく存在感を放っていました。
「君!」
「はい?」
 白衣の男性が、二階堂さんに声をかけました。振り向きます。男性は息を切らしていて、かなり焦っているようでした。
「君は……彼の知り合いかな?」
 彼、とは先ほど話されていた、心停止したという青年のことでしょう。二階堂さんは首を横に振りました。
「いいえ、知りません」
「そうか。これから慌ただしくなる。用がないなら、待合室に移動してくれないか?」
「いえ、用は済みましたのでこれで。失礼しました」
 一礼し、白い廊下を歩いていきます。かつん、かつんと靴音が高く鳴り響きました。
「良い夢でした」
 湖は、どこにもありはしません。