※バレンタインデー深夜に書いた記事だと思って読んでいただけるとありがたいです。
ははっ!今日はもうバレンタインデーなのか!世の中の浮かれポンチどもは友達なり家族なり愛する人には、もうチョコレートを渡したのかな?
まあこの浮き世(憂き世ともいう)で人生を達観することを目標として日々を過ごしている私にとっては、チョコレートを渡すか否かなんて本当に些細かつくだらない問題であり、まあ何が言いたいかというと、もはや論ずるに値しない題目に時間をかけること自体、馬鹿馬鹿しいとは思わないかい?
でも愛や恋に夢見る人間たちのためにあるせっかくの年に一度の行事なわけだし、この機会にちょっとばかし日本人の文化について語るのも悪くはないね。
まあ世の中にはチョコレートを貰えなかった男子や贈る相手のいない女子たちが僻み妬みからか、バレンタインはキリスト教の行事であって日本人には関係ないだの製菓会社の陰謀云々という人が毎年必ずいますが、私はそんなつまらないことを言ったりはしないさ。
そもそもバレンタインデーというのはSt. Valentine's Dayの文字が示す通り、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが、何故キリスト教の司祭の命日がこんなにも盛大に祝われるのかというと、その背景にはルペルカリア祭だとか、ローマ帝国皇帝クラウディウス2世による兵士の婚姻の禁止だとかいろいろあって……、って今回はバレンタインデーの由来について話したいわけではなく、日本においてのバレンタインデーの話をしたいだけなんだよね、少し話が逸れてしまった。
たしかに、製菓会社の陰謀だという人がいるように、バレンタインは戦後まもなく流通会社や製菓会社によって販売促進のために普及が試みられたけど、当時は思うようには広まらなかったそうだ。デパート各店もバレンタインデー普及に務めたが、なかなか定着せずに1968年をピークに客足は減少し、日本での定着は難しいとの見方もあった。日本社会に定着したのは1970年代後半で、女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈るという日本型バレンタインデーの様式が成立したのもこの時期なんだよね。それに現代日本社会におけるバレンタインデー文化の、起源、普及過程、社会的機能、歴史的意義などについては民俗学、社会学、宗教学、歴史学(文化史、商業史)の各分野から研究されるべき事項だけれど、バレンタインデーに関するまとまった研究は存在していないんだって。だから一概に製菓会社の陰謀だからといって日本人と関係ないと決め付けて言い切るのは難しいというか、なんというか。
ヨーロッパでは、チョコレートに限らず男性も女性も、花やケーキ、カードなど、様々な贈り物を恋人や親しい人に贈与することがあるらしいけど、日本のバレンタインの特徴だと言われているチョコレートを贈る習慣は、19世紀後半のイギリスで始まったわけだし。まあ日本独自の発展を遂げているのは確かだけれども。日本人はキリスト教に関係ないという意見も一理あるけど、今日では宗教的意義がそこまで深くないバレンタインはおろかクリスマスでさえも、日本ではある種文化的に受け入れられ、経済効果をもたらしているし、ホワイトデーやオレンジデーなんていう派生習慣も生まれているわけだから、これはもはや宗教云々の問題ではない気がする。キリスト教が関係ない地域でも外国文化の流入によって一般的に認知されてきているし、サウジアラビアでは、最高位の宗教指導者によってアラーを崇拝するムスリムにバレンタイン禁止のファトワーが出されたらしい。が、宗教的な禁止にもかかわらず多くの人たちがバレンタインデーを行い、いくつもの業者が商品を販売しているくらいだから、多神教の日本がバレンタインでお祭り騒ぎしようと何ら不思議はないはずだよね。
そもそも日本人の宗教観はもともと神教が多神教(八百万の神)であったことに由来しているためか、キリスト教の神も仏教における仏もみんな一つの神様として受け取っているのでは?クリスマスは馬鹿みたいにお祝いして、バレンタインデーは浮かれ気分で、大晦日には除夜の鐘を聞いて、年が明ければ初詣に行き、お盆になれば墓参りしたり先祖を迎えたりエトセトラ。まあ他にも挙げだしたらきりがない。日本においては宗教を宗教として捉えるというよりも、単なる文化として生活の一部に上手く根付かせているのだろうか。だからたいていの日本人は無神論者でもないのに自分は無宗教だと言い張るし、そのくせありとあらゆる祝い事は行事として楽しむんだよね。まあ日本は古来から外国から流入してきたものは上手いこと良いとこ取りして、自国のものと組み合わせて独自の文化を築いてきたわけだし。まあこの宗教観も言ってしまえば日本独自の宗教とも言えなくは、ない……か?いやしかし、よく考えてみると神仏習合とは…昔の日本人、粗すぎるだろう。何故習合させようと思った。
はい、論点がズレてきたところで今回私が敢えてバレンタインを引き合いに出してまで語りたかったことを言いたいと思います。今までのはほんの前置きでしかないわけだよ。まあいつもの如く前置きの方が本題よりも長いというまとまりのない文章だが。
既に述べた通り、日本人が宗教を文化として捉えているか否かは別として、だ(今まで書いたこともこれから書くこともあくまでも私の持論に過ぎない)自分は無宗教だと言い張る人たちに一つお尋ねしよう。
今年って何年になるんだっけ?
この問いにたいしておそらくほとんどの人間が、今年は2011年だ、と答えるだろう。きっと平成で答える人は半分にも満たないのではないかな。
そこ!そこに大きな疑問をもたないかい?
君たちが無宗教、もっと言ってしまえば無神論者だと答えるならば、何故何の疑問ももたずに西暦で答えることができる?可笑しいだろう?これが言いたかったんだよ私は!しょーもない…それこそ論ずるに値しない題目だと言われようとも。いや、もしかすると幼い頃に既にこのことに疑問をもっていて、私の書く記事を今さらかよと感ずる人がいるかもしれない。もしそうだとしたら、何も言わずに仏のような慈悲深い心で私のくだらない話を読み進めるか、そっとページを閉じてほしい。
たしかに世界的な基準として西暦が使われているわけだから、生まれながらにしてこの概念を植え付けられているようなものだけれど、よくよく考えてみれば私たちは西暦の他にももう一つ、元号という年を数える術を持っている。では、西暦に変わる日本独自の紀年法があってもいいだろう?ご存知の方もいるとは思うが、それがズバリ、皇紀だよ!日本では明治時代から昭和の戦前まで、神武天皇が即位した年を皇紀元年として正式に使用していたのだ。ちなみに皇紀元年は西暦でいうところの紀元前660年、つまり今年は皇紀2671年となるわけです。この話をかなり前にとびとしていたときに、じゃあ今日から皇紀を使おう、と言っていたんですが、毎回数える度に西暦に660を足して計算しているという事実に私は気付いて、やはり生まれながらの刷り込みには抗うことができないのか、と哀しき現実に愕然として頂垂れました。あと、元号は中国発祥という知られざる事実。にもかかわらず、現在、元号を公式に使っているのは日本だけだという……なんて皮肉だ。
かといって元号や皇紀を使えば無宗教であることへの証明であるかと言ったら、それこそ本末転倒なわけである。とにかく何が言いたいかというと、無神論者でもないのに無宗教だと言い張り、そのくせありとあらゆる祝い事を行事として愉しむ日本人の浅はかさが、その反面国民性となって独自の文化を築いてきたという二面性をもつということです。
まあここまでの内容を踏まえるとまるで私が復古神道を唱える右翼のようだが、別にそういうわけではない。オチもなしになんか好き放題書きたかっただけ。
ちなみに何故この記事を今ごろ挙げたかというと、実は14日に一回記事を書いたのだが、更新をクリックした瞬間エラーが出て死にたくなったというどす黒い背景があったのです。これは書き直したものだから文章的にも支離滅裂。……ってこれは今回の記事に始まったことではないな。
では、夜も更けたことだし、ここまでとしよう。またいつか書くネタがなくなったら、今度はプラトンのイデア論について話そうかな。