【ひまルシェで、ルーシェ遊夢町出戻り】


 昨日はそう、花見をしようと彼が誘い出してくれたのに、センスのない通り雨に降られたの。公園にあった屋根つきのベンチで雨宿りをしていて、色々な事を話したわ。そうしていたら日が射してきて、今まで見たこともない、大きくて美しい橋が空に架かった。それが虹という名前だって事は、この町に来てから知ったのだけど、それはワタクシの想像を遥かに超えて、目を奪われるものだった。

「今度からは二人で見に行こうよ」

 とびきりのお誘いに心が弾んで、次は何を彼と見たいか、たくさん考えながらその日はベッドに入ったわ。
 そう、ワタクシは、あの町でいつものように眠ったはずだった。

「姫様……!」

 目を覚ますとそこは18年間見てきた、けれど懐かしいベッドの天井があって、そこには見たことの無い男の人の顔。その人の目はみるみる驚きと喜びで光を集めていく。弾んだ声は、男性にしては高い声だなと感じた。
 起き上がるとベッドの周りからは祝福の声、拍手、歓声。一体なんだっていうの?
 頭の冷静な部分はそれでもあって、一つの可能性を弾き出した。
 そう、つまり、おとぎ話は待ちわびた主役の登場を迎えたの。

 目の前の知らない男性はスマートな顔をした、少し幼い雰囲気の人。突然抱き締められて「よかった」と歓喜の声をあげられる。そこで漸く自分の呪いについて思い出して、そう、つまり、ワタクシはこの人に口づけをされて、目が覚めたの?
 久しぶりに見たお父様やお母様、二人のお姉様は、同じ色の目を涙でたくさん濡らしてこちらを見ていた。抱きつかれて、髪を撫でられて、頬にキスを受ける。
 ああ、でも、全く嬉しさが込み上げてこないの。ごめんなさい。ねえ、だって、ここには彼がいない。ワタクシのお店もない。漸く親しくなれた、町の皆もいないんでしょう?
 ちがう、ちがう。動悸が早まっていく。誰? アナタは誰? ちがう、ワタクシの好きな人は……。

「結婚式を挙げなければな」

 弾んだお父様の声が聞こえた。結婚式? 一体何を言っているの? 意味を理解した途端背筋が凍るように冷たくなった。ねえ、どうしてみんなそんな風に、この上なく幸せな事だと言うように笑っているの?
 分かっていたことだ。そうよ、だって、けれど、もう、ちがうの。ワタクシはもう、前の、何も知らなかった眠り姫とは違う。


「イヤ……!!」


 未だ肩に手を掛けていた、見知らぬ男性を突き飛ばした。その人は驚いた顔で固まっている。周りも突然の事に静まり返る。痛いほどの静けさが、一瞬。

「何を、何を言っているの!? 違う、ワタクシは、」

 違う。ねえ違うの。ワタクシが聞きたいのは、そんな高い声じゃない。

 「混乱しているのね」と、優しく声をかけてお母様はワタクシの肩を抱いた。違う、そうじゃない、何もわかってないわ。
 でも、そうね、彼らからすればワタクシは、突然襲われた悲劇から王子様に救いだされたヒロインで、国民の涙と心から祝福を誘う物語。
 あの日々が、遊夢町という場所が、現実なのは、ワタクシにとってだけ。それは彼らからしたら、混乱している姫の戯言でしかない。
 違うと言って頭を振ると、「すぐに落ち着くわ」と宥められた。ねえ、どうして? どうしてこの溢れる涙の理由を求めてくれないの?


 遊夢町での記憶は鮮明にあった。その日の夜は誰にも会いたくなくて、家族の同情を振り払って、王子様とやらの手を叩き落として部屋にこもった。ベッドに埋もれても、気持ちがぐるぐる騒がしくて全く眠りにつけない。
 早く、早く、戻らなければ。あの人が待っているの。寂しがりで、少し脆くて、臆病な彼が待っているのよ。ワタクシが突然いなくなって、どう思ったかしら。不安にしていない? 約束を破ったと、思われないかな? 

ーールーシェちゃんが帰ってくるっていうなら、きっと絶対だって俺は信じられるよーー

 そう、大丈夫、大丈夫よ。待っていてくれるって、信じていてくれるって、彼はそう言ってくれたんだもの。
 ああ、もう、早く帰らないと。はやく、はやく……。

 けれどその夜は一睡もできなかった。




「姫は長い眠りにつきすぎて心を患ったのだ」

 世間ではそう噂されているみたいだった。

「真実の愛だもの、王子に愛されればその心も安らぎ、すぐに元の彼女へ戻るわ」

 続いて夢見がちな言葉が連ねられる。そんなことを言うから、式の日取りをお父様は急がせていた。

 もう、逃げるしかない。この国にいても、誰も話を聞いてくれない。この国で、ワタクシに選択権はない。
 なら何処へ? この強固なお城という檻から、何処へいけると言うの?

 部屋を見渡して視界で何かが光る。果物に添えられた磨き上げられたシルバー、それが希望の光に見えたわ。
 そうよ、彼も死者だったじゃない。彼と同じになればいい。なにも怖いことなんてないわ。

「ひ、姫様……!!」

 それはシーツを取り替えにきた使用人によって阻まれた。抵抗した際に腕を切ったみたいで、気がついたら腕に包帯を巻かれていた。

「痛みますか?」

 神妙な顔でそう聞かれたけれど、本当に痛くなんかないのよ。胸の奥の方が、もうずっと痛いから。



 そうして部屋には物が無くなっていった。ベッドと机に椅子、最低限の家具しか置かれていない空間。ナイフを取り上げられた日から、何度も目を盗んでは試みたから。そして部屋には鍵をかけられて、窓には格子で蓋をされてしまった。逃げる術が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。

 焦れば焦るほど夜は長くなって、そして思い起こす声が遠くなっていった。ねえ、このままでは、あの人の声も思い出せなくなってしまう。どうすればいいの? どうすることもできないの?
 怖い、このままでは、いずれ、忘れていってしまう。日を追う毎に、あの夢が現実から遠ざかっていく。
 人が最初に忘れていくのは声で、次は顔、そして思い出なのだと、昔家庭教師が言っていた。ワタクシが忘れてしまったら、もう、もう、名前も呼んでもらえない、そんなの、そんなのは……。

 今朝はとうとう真っ白なワンピースを用意されてしまった。婚礼前の三日間を白い服で過ごす事は、この国で古くから行われている、花嫁の儀式のようなものだった。
 幼い頃は自分もあの白い服を着て、素敵な王子さまと結ばれるのだと思っていたわ。この国の女の子は、だれしもがその儀式に憧れて夢を見るの。けれど現実、どうしてワタクシはこんな、葬列に並ぶような思いでこの服を着ているの?
 目を閉じたらまた涙が勝手に頬に溢れた。涙が枯れる事はないのね。もう、身体中の水分を流してしまったと思っていたのに。

 ワタクシに残されたのは、この三日間でお世話になった人へ会いに行くという自由。花嫁の星参りと呼ばれているけれど、……嫌、誰にも会いたくない。お願いだから眠らせて。夢の中へ連れていってほしいの。二度と覚めなくていいから。
 もう、静かに、眠り続けていたいのよ。王子様なんて、……現れてほしくなかった。


ーー行っておいで、夢の中へーー


 ワタクシを導いた、その声が耳の裏に聞こえたのは、彼女の魔法のひとつだったのかしら。



 何度も通い詰めた。幾度となく、この退屈で息苦しい毎日を劇的に変えてくれるものを求めて。
 お城の外では一番勝手を知ったその家は、相変わらず散らかり、不思議な臭いが充満している。国の一番高い場所に住む、月の魔女と呼ばれる老婆の屋敷。

 要らないと言ったのについてきた供を外へ残して中へ入ると、まるで来ると分かっていたように、ドアへ向いて彼女は座っていた。

「皆が言っているよ、幸せなお姫様。運命の人の愛する口づけで目覚めたお姫様」

 魔女は薄く口で笑って、ワタクシを見て目を細めた。「随分とひどい顔じゃないか」なんて言う彼女に、胸がつまって、苦しくて仕方ない。

「もう、アナタしかいないの。お願い、ワタクシを助けて」

 こんなところでも涙は出るのね。埃っぽい床に足をついた。白いワンピースが汚れたけれど、そんな事、今のワタクシには関係ない。魔女の足元に崩れ落ちて、椅子に腰かけるその膝へすがる。
 骨と皮でできたような細い指が髪をすいた。もうずっと髪も手入れなんてしてない。艶もなくし、セットもされず、パサついたひどい髪。こんな姿で人前に出るなんて。けれど、でも、そんなこと……。

「もう一度、もう一度連れていって。夢の中へ帰りたいの。お願い、お願いよ、」
「それは難しい話だね。なにせ今の姫様には、姫様を目覚めさせてくれる王子様がいる」
「ちがう!」

 まだこんな大声が出たのね。もう随分と前から胃の中は空っぽで、お腹に力だって入らなかったのに。
 魔女は立ち上がって、どこかへ行ったと思ったら、戻ってきた。体を起こすのが億劫なまま視線だけを送ると、手には小さなガラスのアンプルを持っていた。

「これをあげましょう。姫様は賭けに勝った。けれど今の姫様は、魔術よりも望んでいる事がおありでしょう」

 そっと手に乗せられたガラスはとても冷たくて、小さいそれは手のひらに収まってしまった。色のない、透明な液体が入っているみたいだった。

「タイミングはご自分でお考えなさい。どうにもならなくなったなら、これを一気に飲み干して、眠りにつけばいい」

 魔女はそれが何だか言わなかった。けれど、今ここでこれを飲み干してしまうと、彼女に迷惑がかかると分かったから、その時はそれで帰る事にした。
 もう、この人の顔を見る事もきっとないわね。ワタクシはそれを望んでいるのだから。全てのきっかけをくれた、それを思うと少しだけ里心がついて、小さくお礼を言ったけれど……聞こえていたかしら。


 部屋に戻って、大切に持って帰ったそのアンプルを枕の下へ隠した。
 もう、もう残り二日しかない。


 その日の夜、まだ二回しか顔を会わせていない、名前も聞いていない『王子様』が部屋へきた。ノックをして、部屋へは入ろうとはしなかった。優しい声で、ワタクシの様子を気遣ってくれる声が、どこか彼と重なって、耳を塞いだ。聞きたくない。これ以上、この記憶を崩そうとしないで。

 これまで様々な手続きや挨拶があって、やっと落ち着いてここに来れたのだと、耳を塞いでも聞こえてきた。きっと、誠実な人なのね。それこそ、眠りにつく前のワタクシが想像していたような王子様なのでしょうね。そして嘘偽りなく、心からワタクシを愛している。
 ああ、でも、ごめんなさい。ワタクシが心から求めるのは、アナタの声ではない。アナタの温もりでもないの。

「ごめんなさい」

 無性に、彼に会いたくて仕方がなくなった。はやく、帰らなきゃ。あの、太陽に愛された明るい町へ。信じて待っていてくれている、彼のところへ。

 枕に顔を埋めると当たる固い感触。もう限界だった。今がいつだかもよく分かっていないけれど、もう時間はない。それはワタクシの、この心を保っていられるかどうかという話。
 ドアの前は静かになっていた。足音が去った事も気づかないでいたのね。きっと、あの『王子様』にとって、ワタクシは酷いことをしようとしている。
 ごめんなさい。恨んでくれて構わない。それでも、それでも、ここにはもういられないの。

 アンプルの蓋を開けると、花のような香りがした。窓の外から差す明るい月明かりが、ガラスを通して中に色を落としている。この上なく、幸せなものに見えたわ。だって、これで……。


ああ、もう、はやく、はやく行かなきゃ。はやくあいたい。
あのひとの、そばにいなくちゃいけないの。
ずっとみはってるって、やくそくしたのよ。

なまえをよんでほしい。
だきしめてほしい。

まってたよっていって、わらってくれるかな。
きっとだいじょうぶ、よね、さみしいおもいは、してるとおもうけど。

あの、めじりをさげてふにゃりとわらう、あのだいすきなえがおがみれるなら。

「いま、いくわ」

なにもこわいものなんてないんだから。



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