はなぞの

2009.6.18 15:41 [Thu]
[彰紋→泉水]院編二章序盤くらいの不思議野
西の対へと続く渡殿に踏み出すと、僅かに床が軋む。
廊の向かいから、空色の指貫から覗く白い襪が現れた。

「あ…おはようございます、東宮様」
「これは泉水殿。おはようございます」

ひどく緊張した様子の泉水が、恭しく頭を下げる。
東宮、という響きに一線を画された気がして、胸が痛んだ。
今までは勢力が対立していることもあり、必要以上に関わることは無かった彰紋と泉水。
…いや、もしかしたら元服前後から、僕が無意識のうちに避けていたのかも知れない。
心の中でそう呟いて、彰紋は笑顔を作った。

「先日も神泉苑で言いましたけど…どうかそのように畏まらないで下さい。僕たちは従兄弟でしょう?」
「え、ええ…」

納得しているかは定かでない様子の泉水が、戸惑いながら視線を迷わせる。
その丁寧に重ねられた手の甲に、叩かれたかのような赤い跡があった。
真新しく痛々しい色を、彰紋は思わず指していた。

「その手、どうなさったんですか?」
「あ、これは…その、今朝、母がわたくしをお叱りになったときに」

やさしく微笑みながら語る泉水に、彰紋は行き場のない憤りが燻りだすのを感じた。

「わたくしが不出来なもので、母には迷惑をかけております。それなのに、母はわたくしのために正しい道を示して下さる…本当にお優しい方なのです」
「泉水殿」
「は、はい?」

おかしいとは思わないのですか。
なぜそんな仕打ちを受けて笑っていられるのですか。
泉水殿のためなどではない、あのひとの意図は別のところにあるのに。
言ってしまいたいこと、言ってはならないことが多すぎて、言葉になる前につかえてしまう。
ここで泉水に当たることは簡単だ。
しかし、それを言ったところでどうなるのだろうか。
彰紋が問いただしても、困ってひたすら頭を下げる泉水の姿が容易に想像できる。
それにこれは、誰に対してでもない、彰紋自身への怒りなのだ。
泉水を傷つけるものが許せないのに、真実を打ち明けることもできない、そんな自分への呆れと苛立ち。
泉水の優しさに甘んじて苛立ちを押し付けるのは、絶対にしてはならない。

「あの…申し訳ありません。何かお気に障ることを申しましたでしょうか」

彰紋がきつく握って白くなった指を見て、泉水がまた頭を下げる。
彰紋は慌てて両手から力を抜き、ぱたぱたと振ってみせた。

「いえ、何でもないですよ。どうか顔を上げてください」

言われるままに頭を起こした泉水と目が合って、彰紋は戸惑う。
穏やかな菫色の瞳にすべてを見透かされそうで、怖い。
思えば、こうして二人きりで向き合うことなど、今までなかった。
何を話したらいいのだろう。
こちらの言葉を待って静かに佇む泉水を前に、彰紋は話題を探して辺りを見回す。
すると、庭を行く赤と橙の髪が見えた。

「あれは…イサトと勝真殿ですね」

渡殿にも笑い声が聞こえそうなほど、明るい笑顔でイサトが笑っている。
その肩を笑顔で叩く勝真も、弾けるような笑顔だ。
院と帝、互いの勢力は違うはずだが、その根深い隔たりを感じさせない二人。

「花梨さんはあの二人とお出掛けになるのですか」
「ええ、そのようです。わたくしもご挨拶が済みましたので、今日はこれから式部省へ参ろうかと思います」
「皆さんに先を越されてしまいましたね。無駄足になってしまいました」
「ふふ、そのようなことは…」

恐縮するばかりだった泉水の声に、やわらかさが宿る。
賑やかなイサトと勝真の間から、淡い色の水干がちらりと見えた。
長く話すことのなかった泉水と、こうして向き合って微笑み合えるのは、彼女のお陰だ。
少しずつ、何かが変わっていく予感。

「僕も内裏に戻ります。牛車を待たせていますので、泉水殿もご一緒にいかがですか?」
「で、ですが…」
「遠慮なさらないで。僕、泉水殿ともっとお話がしたいって、ずっと思っていたんですよ」
「は、はい…では、是非」

自分も変われるだろうか。
進む強さを持つ花梨のそばにいることで、勇気が持てるだろうか。
いつかこの罪に終止符を打ち、渡殿の向こうにいる乳兄弟二人のように、泉水と兄弟として笑いあう日がやって来るのだろうか。

「…彰紋様」

躊躇いがちに名を呼ばれ、そのやさしい声に、じわりと胸に熱が広がる。

「では参りましょうか、泉水殿」
「ええ」

泉水の笑顔を見た瞬間。
心の臓がやけに大きな音を、とくん、とひとつ響かせた。

2009.6.17 17:19 [Wed]
泉水→彰紋→花梨を目指そうとしたもの
ふう、と息を吹き掛けると、白い綿毛は風に乗って旅立っていく。
僅かに残った種も、後ろから吹きつける風に飛ばされて夕闇へと舞い上がった。

「まるで神子のようですね」

落ち着いた声が、同じ風に乗って彰紋の耳に届く。
振り返ると、泉水が髪を風に舞わせながら空を仰いでいた。

「ええ…少しの風で、この手から飛んでいってしまう」
「…彰紋様は」

言いかけて、ふと口をつぐんだ泉水に微笑む。

「かなわない想いとは、辛いものですね」

綿毛の飛んでいった先は見えない。
だが、少なくとも自分がいるところではないのは確かだった。

「本当に、花梨さんによく似ている」

そう言いながら笑ったのにも関わらず、泉水は困惑した表情を浮かべていた。
彰紋の頬に伝う雫を袖でそっと拭い、小さく頭を下げる。

「わたくしにできることはこれくらいしか御座いませんが」

ただその痛みが和らぎますように、と告げたくちびるが、金の水仙の細工の上にとまった。
響いた音は、あたたかく胸を満たしていく。

「…兄上」

呟いた言葉が未だもつ違和感。
それに苦笑しながら、彰紋はたんぽぽの茎を握りしめた。
綿毛が飛んでいっても、残ったものは、この手の中にある。
笛の音に目を閉じ、静かにそう思った。

2009.6.17 12:46 [Wed]
[泉彰]夏の攻め泉水
紗の狩衣に袖を通すと、夏の香りが舞った気がした。
昨年焚きしめた夏の香が漂い、そして一瞬で消えて行く。
そんな錯覚をおぼえて、小さく笑みが零れる。
何も知らなかった昨年の夏、あれからどれほどの変化が起きただろう。
何よりも変わったのは、泉水自身、そして、

「兄上、お召し替えは済みましたか?」

御簾越しにかけられる声のやさしさ。
いつもの赤い首飾りを提げ、髪を輪の外に出す。

「ええ、どうぞ」
「失礼します」

一歩、板敷に踏み出した彰紋様の素足が止まる。
まぶしい陽射しを背に受けて、それに負けない輝きで笑った。

「ふふっ、やはり綺麗ですね。兄上の髪に、青の紗織物はよく似合う。僕、いつもその服を着られるあなたを目で追ってしまっていたんですよ」
「…」

御簾を捲っていた白い手が離され、ばさりと音が響く。
腕の中の彰紋は驚きに声も出せず、目を大きく見開いていた。
抱き締めると、彰紋の髪から陽射しの香りがする。
夏の薄い衣のせいか、今までよりもずっと華奢に感じる彰紋の身体。
このちいさな肩に、どれほどの重荷を背負わせていたのだろう。
去年もこの服を着ていた泉水をどんな表情で、どんな気持ちで見つめていたのだろう。

「不思議です。あれからたった1年しか経っていないのに、こんなに大きな幸せが、ここにあるなんて」
「…ええ」

密着した腕から想いが伝わればいいと願いながら、力を込める。
淡い色の髪にくちづけを落とすと、くすぐったそうに肩が震えた。

「…そろそろ行かないと、舎人を待たせてしまいますね」
「はい。…でももう少しだけ、こうしていてくれませんか…兄上」

もう気温も高いというのに人肌が恋しいのか、離れようとしない彰紋の背中を撫でる。
心地よさそうな笑顔を見ていると、もっとその笑顔を幸せで満たしたくなってしまう。

「愛しています、彰紋様」
「僕もです…!」

溢れた笑顔の輝きは、夏の陽射しよりも、ずっと眩しかった。

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