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その場所は、掘るといっそう湿った土の匂いがした。
土を掬うシャベルのふちは不思議と泥を寄せることなくメノウのように滑らかで、月明かりに照らされるとまるで濡れているのかと見紛ってしまう。最後に見た彼女の瞳もずっと濡れていた。つるりとした黒い瞳に写る僕がぼやけて見えて、球面に合わせて変形した僕の顔を彼女は怖がっていたのだろうか?人の頭が入るほどまで穴が拡がった。また一台、車のライトが僕の影をスライドさせながら通り過ぎる。この辺りは宇宙がよく見える。ひっそりと、手の届かない暗闇を求めて、ここには人間が集まるのだった。そのまま、暗闇に救いを求めて帰らない人間もいるらしいと、誰かが甲高い声で言っていたのを思い出した。
腕が二本入るほどまで穴が拡がった。掘り出した土はふわりと軽く積もり周囲に匂いをまき散らせながら僕の居場所を教えている。動物たちはもう気付いている。また一台、車が遠くで通り過ぎ、ライトに照らされた森の中で一瞬だけ木の上の眼と眼が合った。内側から緑色に光るその眼は、僕を心配するように、ホウと鳴いた。人間よりよほど、彼らの方が優しいじゃないか。きっと僕がここで死んだら、残らず彼らが僕を食べてくれるだろう。そして、彼らが生きている間は、僕のことをその身体に記憶してくれるだろう。
肋骨と股関節が入るほどまで穴が拡がった。普段使わない筋肉は早くも強張りシャベルを汗でぬめらせる。深くなる穴の中で上着を一枚脱ぐと、籠っていた熱気が逃げるように森の中へ溶けていった。長い足でもすっぽりと入るほどまで穴が拡がった。地獄まで繋がるほど仄暗い穴が拡がった。僕は彼女にさよならを言って、土をかけながら、また会おうねと約束した。
きっと来世では、しあわせにしてあげる。

あ、きた。

全身の血が粘性を持ったような感覚は、満月と共に周期的に私の身体を流れる。頭にかかるもやは冷静さと私を切り離し、ある香りへの執着を蘇らせる。
青臭い香りと、鉄錆の香りを、私は求めていた。

「ねえ、君の彼氏、心配してるよ」

青白く脈打つ携帯の画面を、目の前の男は読み上げる。帰り遅いね、大丈夫?残業かな?だって。でも君、こんな顔じゃあ帰れないね?
既に血で濡れた拳を、彼は私の顔へ振り下ろした。衝撃は少ない。ぬるついた拳は、私の頬を滑って情けなく揺れる。


今の彼氏と付き合って、もう1年が経つ。普段から仕事でなかなか会えないせいか、彼は私の性癖には気付いていなかった。
彼は優しく撫でるように私を触る。壊れ物でも扱うかのように触れられる私の身体は濡れこそするが、冷めていた。それでも1ヶ月のうち20日間は私は彼の優しさで満たされることができた。けれど、抑えることができないのだ。月が大きくなるにつれて、私の身体は自分のものではないように凶暴さを求めた。満月の日、私はこうして都会へ出る。声をかけてくる人間は、不思議と私の欲求を満たしてくれる者だけだった。


「あ……もっと」

喋らなくていいよ。目の前の男はそう言って、首筋に噛み付いた。私の身体は震えて悦び、首筋に顔を埋める男の真っ黒な髪にさえ興奮した。男は私の髪を掴み、首筋から離れる。熱い。血が伝っていくのがわかる。男が私の腹を蹴る。腫れてほとんど見えない眼を男に向けると、端正な顔と黒い瞳が光を持たずに私を見つめていた。そういえば、名前を聞いていないと、どうでもいいことを思い出した。

「ほら、君、これが欲しいんでしょ」

男はチャックを下げ取り出したものを私の口に押し込んだ。味わう余裕もないままに喉の奥へ突き動かされ、酸素の欠乏は抗えない快楽を生む。もうなにも考えられなくなっていた。
殴られたい。飲み干したい。端正な顔の男は、少し喘いで、私を殴った。


「あーほら、またこぼしちゃうわよ」
「あーんして。そう、いいこいいこね」

母の料理はとても上手で、僕は子どもの頃から母の料理が好きだった。生まれてすぐの僕が写っている色あせたアルバムには、母の離乳食を美味しそうに食べる僕の姿があった。大掃除のときに出てきたビデオには、はじめてトイレで用を足す僕を見て、泣くほど喜ぶ母が写っていた。運動会のかけっこでいつも一位をとれなかった僕を、それでも僕が一番かっこよかったと励ましてくれた。僕が彼女にフられて落ち込んでいるときは何も言わずに僕の好物を食卓に並べてくれた。僕の大学受験の日は遠くの神社まで合格祈願に行っていた。合格発表の日に報告の電話をしたとき、僕はそれを父から聞いて、帰り道に母の好きな花を買って帰った。卒業式の日までその花はリビングに飾られていた。卒業式に出かける僕を見送った母は、午後に雨が降るとテレビが言っていたのを思い出して僕を追いかけて傘を渡した。折りたたみ傘を鞄に入れながら横断歩道を渡ろうとした僕に向かって大きなトラックが突っ込んでくるのを僕は気付くことができなかった。大きなバンパーが視界に入った瞬間僕ははね飛ばされてコンクリートで肘を擦りむき、僕をはね飛ばした母は頭を強く打って2ヶ月入院した。退院して家に帰ってきた母は、顔の右半分がただれてケロイドになっていて、僕のことを3歳児だと思いこんでいた。

「ほら、今日はターくんの好きなエビピラフよ」
「はい、あーんして」

「母さん、僕一人で……」

「ダメよ、こぼしちゃうでしょ?」


父は日に日に仕事場にいることが増えて、今ではほとんど顔を合わせることもない。先週久しぶりに顔を合わせた父は何かを言いかけて、息を詰まらせたあと、「ごめんな」と呟いた。僕に聞こえるか聞こえないか、恐らく聞こえなくてもよかったのだろう、父が言いたいことは溢れ過ぎて、決壊するのを恐れるように、固く口を閉ざしていたから、針の穴のようにあけた口の間から、ごめんなと呟くことのできた父を素直に尊敬出来る人間だと思った。

「ターくん?おいしい?」
「……おいしいよ」

3歳児の僕に向けて作られた薄味のエビピラフは、僕にとっては物足りなかった。それでも懐かしい母の味がして、鼻の奥が痛くなるから僕は本当に赤ん坊になってしまったみたいにぐずぐずと泣いた。僕が言いたかった言葉が両眼から流れ出してくるのを、母はティッシュで拭ってゴミ箱へ捨てる。僕があの頃と違うのは、声をあげて泣く方法を忘れてしまったことだった。


古い枝の折れる音を最後に聞いたのはいつ?

僕は爪切りを差し出しながら彼女にそう問いかけた。彼女は爪切りを受け取りながら、僕の言葉の意味がわからなかったようで再び聞き返す。

「だから、ね、枝の折れる音を最後に聞いたのはいつだったか、覚えてる?」
「そんなの……覚えてるわけないじゃない。あなた、覚えてるの?」
「いや……覚えていない。でもきっと、僕も君も、ずっと子どもの頃のことだろうね」

彼女は既に僕の言葉からは意識を離して左手の爪を切っていた。これは僕のお願いだった。彼女と付き合い始めて3日目に、これからは一週間に一度、僕の前で爪を切ってくれと頼み込んだのだ。以前付き合った女性たちにも、毎回頭を下げてきた。これまでの女性たちの怪訝な顔は焼き付いている。ただ、僕にとってはそんな顔などどうでもよかった。

パチ、パチ、パチ、パチ、パチ。
彼女の爪が切られる音を聞くのは何度目だろうか。僕はこの音が好きだ。生易しい言葉を使わずに言えば、「性的に興奮してしまう」。パチ、パチ。パチ。微かに荒くなる呼吸をごまかすように、ぬるくなったコーヒーを啜った。パチ、パチ。爪を切る動きが止まった。薬指と小指を残して。

「どうしたの」
「ねえ、聞いてもいい?」
「……なに」
「あなた、この音が好きなの?」

パチ、パチ、パチ。薬指の爪が切られる。焦らされながら音を聞くのも悪くないと僕は恍惚に浸りそうになるのを抑えて、そうだよと言った。ずいぶん悦さそうな顔をするのね。彼女は気付いている。それ以上言ってしまうと、もう戻れなくなる。

「悪いけど……。あまり、聞かないでくれるかな。こんなの、ペラペラ人に言うものじゃない」
「目の前で爪を切ってくれって懇願したのはあなたでしょ?ねえ、いつからこの音が好きなの?」

目の前の彼女は好奇心と加虐心の入り交じった表情で僕を覗いた。興醒めだ。醜い顔など見たくもない。

「ねえ、何がきっかけなの?興奮してるんでしょ?あなた。変態ね。ほら、」

パチ、パチ、パチ。最後の手指の爪が切られた。追い打ちをかけるように、彼女は足の爪を切り落としていく。パチパチパチ、パチパチパチ、パチパチパチ……。勢いよく十本全ての爪を切り終わると、彼女は僕の股間を見て、また変態と言った。

「僕が十歳の頃、」
「え?」
「僕は母と電車で街へ出かけた。贔屓にしている画家の展覧会があるとかいってね。僕は先頭車両で、座席に座って窓の外をずっと眺めていた。しばらく走って電車がどこかの踏切を超えたとき、突然電車が急停止したんだ。人身事故だった」
「……突然なんの話?」
「窓の外には意外にもなんの異変も感じられなかった。だけど、僕の座席の下……車輪の下からは、パチパチパチという軽い音と、なにかが弾けたり跳ね返ったりする振動が響いていた。僕は、それが、人間が巻き込まれて骨の砕かれる音だと一瞬でわかった。音はすぐに後方車両の方へ伸びていったけれど、僕はこの音を何度も何度も反芻した。2時間遅れて行った展覧会のことなんか、何も覚えちゃいないけど、この音だけはそれからずっと頭の中にあるんだ」
「……やめて」
「僕が初めて精通したのは、その日の晩だよ。あの音を思い出しながら列車の下を想像すると、どうしようもなく興奮して、触らなくたってイけるんじゃないかってくらい」

「爪を切る音は、そのときの音によく似てるんだ」

今僕はどんな顔をして彼女を見つめているのだろうか。彼女の怯えた様からして、きっと捕食者の眼で彼女を見つめているのだろう。でもまあ、いいか。興を削いだ彼女に、責任を取ってもらわなきゃ。

「ねぇ、もう我慢できない……。本当は、君の身体が欲しいんだ」

声を上げる間もなく彼女の細い首は簡単に捩じれた。手に響く振動とあの音で、僕は絶頂を迎えた。

「それは、私が最も生きることに困窮していた頃の話だ」

嗄れ声の彼は口を開いた。

「私がまだ21歳のときだ。とは言っても、私は21歳を5年生きた。これは、多少難しい話だから、また今度話そう。とにかく、その5年間、私は、ある国で、兵隊として生きていた」

僕のおじいちゃんは、その青い眼を僕の方へ向けたり暖炉の方へ向けたりしながら、昔話をしてくれた。暖炉のそばには大きな蜘蛛が巣を張っていたから、おじいちゃんはそれを見ていたのかもしれない。

「おじいちゃんはどんな国に住んでいたの?」

「危ない国だよ。お前くらいの子どもはみんな武器を持っていた。ばらばらの国から連れて来られた人間が入り混じった、ばらばらの国さ」

おじいちゃんは細い指をぎしぎしと動かしながら話した。指先を見つめる青い眼は伏せられた瞼で見えない。僕はおじいちゃんの眼が大好きなんだ。青い眼って、とってもきれいだと思わない?
もう片方の、おじいちゃんの潰れた左眼は、暖炉のそばにいたからか、いつもより乾いて見えた。

「お前は、戦争というと、飛行機で空から爆弾を落としたり、ジャングルの中をガチャガチャとかき分けながら進んだりするのを想像するかもしれないね。私が戦っていたのは街の中だった。煉瓦作りの家々の壁には、銃弾の跡が絶えなかった」

僕はおじいちゃんが話している間、お父さんの机に座って絵を描いていた。お父さんから貰ったギターはいい音がするけれど、あまりかっこいい見た目ではなかったから、新しいデザインを考えていたところだった。黒いクレヨンを手に取ったところで、僕は手を止めて、おじいちゃんに聞いた。

「銃弾って何色なの?」

「銃弾は、鉛色だよ。お前の右腕にある時計と同じ」

僕は黒いクレヨンを置いて、代わりに白を選んだ。

「みんな、戦時中というとまるで月面のような世界を想像するけれど、それは違う。戦時中だって地球は地球さ。空は青いし、葉は緑だし、血は赤い」

「夜は?」

「夜は藍色。それも今と同じだ。星の並びも変わらない」

言いながら、おじいちゃんは暖炉の中に刺さった火掻き棒を手に取って、側の蜘蛛の巣を払った。真っ赤な火掻き棒の先端は、またすぐに暖炉の中に戻る。

「戦争の間、毎日毎日人を殺した。代わりに、何人もの仲間が殺された。みんな紙切れに名前と死んだ日時を書いて、それでおしまいだ。ある男の人生はそうして一枚の紙になってしまう。女たちは毎日、死んだ男の名前をタイプして、金をもらっていた」

人の名前を書くだけの仕事は退屈そうだな、と僕は思った。

「そんな倫理も道徳もない銃弾だらけの街で、ある日、ひとりの貧しい老人が製鉄所から鉄くずを盗んだ。その頃は、鉄くずといっても価値は高かったから、盗むやつも多かったんだ。ただ、その老人はすぐに捕まってしまった。そして、兵器の元となる鉄を盗んだという重い罪で、正式な裁判にかけられた。罪のない人間が毎日殺される街で、その老人は見せしめのために、銃殺刑を受けた」

皮肉なものだ、とおじいちゃんは呟いて、笑った。

僕は、皮肉、という言葉がどういう意味なのかはわからなかったけれど、その老人がどうしようもなくその鉄くずが欲しくてたまらなかったということが、僕と同じように思えて、嬉しかった。僕はその老人と、いい友達になれそうだ。

足が長く美しい妻、スーツの似合うハンサムな夫、そして理知的な顔つきでバーバリーの洋服を着ている二人の子ども。マネキンのような四人家族が私の目の前のテラス席で朝食を食べていた。
焼き色の素晴らしいトーストに妻は紅茶を、夫はブラックコーヒーを飲みながら新聞を広げている。子どもたちは、おとなしく、けれど食事の楽しみを忘れないような会話をしながら、背筋を伸ばしてベーコンサラダを食べている。「ガラスでコップを作れるんだって。楽しみだね」「うん、とても。お父さんは、今日もお仕事なんだよね。お父さんのぶんもじょうずに作るから、お仕事がんばってね」新聞から眼を離して子どもたちを見ながらコーヒーをすする父親は、落ち着いた優しげな表情でありがとうと言う。薄い唇は自然な笑顔を作る。妻はそのやりとりを幸せそうに見つめながら紅茶を飲み、時計を覗いて「あなた、そろそろじゃない?」と言った。「ああ」新聞をたたみ、子どもたちに上着を着せると、私の隣を通り過ぎて四人家族は店から出て行った。ローズマリーの香りを残して。
すれ違いざまに店へ入ってきた女性は、一見すると少年にも見えるような短い髪をして私の前へ座った。前髪の下の長くした睫毛と色づいた唇で、やっと女性だとわかる。
「おはよ。で、詩は書けた?」
「……あの家族、」
「は?」
少年じみた彼女は私の言葉に怪訝な顔をして、すぐに振り返ってからまた答えた。
「ああ。今の家族?マネキンみたいな家族だったな」
「うん。あの家族、きっと幸せにならないだろうから、あの家族が幸せになるはずだった未来を歌おう」
四人家族が座っていたテラス席へ向けた携帯の録画ボタンを止めて、ノートの左側をすべて破り捨ててから、まだ白いノートの左上にタイトルを書いた。きっと愛しい曲になる。


美しいと思っていた彼女は近くで見ると化粧が浮いていたし、眼を合わせると白目はボンヤリと黄色かったし、キスをすると歯並びの悪さが舌に伝わった。

シャワーから戻った彼女の頬は上気していて色っぽいが、それだけだ。化粧を落とした彼女の顔は整ってこそいたが、個性もない。この程度の顔は五万といるだろう。話もたいしておもしろくない。感情のこもらない相槌を気にすることなく、興味のない話を楽しそうに喋る姿は壊れたブリキ人形を思わせたが、聞き心地の良い声だけが救いだった。
僕はいつのまにか眠っていた。


ずっと好きだった人だ。職場で知り合って一年、僕はゆっくりと彼女に気に入られる努力をしたし、不自然じゃない程度に彼女の近くにいるようにした。彼女はよく仕事ができて毎日素敵な笑顔を僕にくれた。僕が疲れているときはコーヒーをくれて、僕のやる気があるときは協力して頑張ってくれた。それは特別僕にだけというわけではなかったから、彼女を狙う輩は少なくなかっただろう。気が利く素直な女性だった。とても魅力的な人に思えた。

長いことかかっていた大きな仕事が片付いたとき、僕は初めて彼女を食事に誘った。食事といっても、近くの居酒屋でちょっとした打ち上げをするだけのものだったが、二人きりの時間はとろけるように楽しかった。僕はその日、舞い上がって服を着たまま風呂に入ってしまったくらいだったから。仕事の話はもちろん、彼女の家族の話や人生観の話、映画や本や音楽などの話をした。僕と音楽の趣味は少し違っていたけれど、違う部分も、嬉しく思えた。

彼女から教えてもらったアーティストのCDをレンタルした。通勤途中に聴くようになると、心なしか彼女のような性格に近づいている気がした。なんとなくキビキビと動ける気がしたし、笑顔も増えた。

それから何度か仕事終わりに食事に誘った。食事に行くようになってから、彼女と僕は少しずつ特別な関係になっていった。職場でも、彼女は僕に対して、微妙だけれど明らかに親密さのある話し方や笑顔を向けるようになったし、僕も彼女に対して、他の社員と比べて心を開いていた。稀に、個人的な悩みについてメールをもらうようにもなった。頼られている気がして嬉しくて、彼女のためになりたいと、ほとんど寝ずに彼女の悩みを聞き、解決方法を模索した夜もあった。


彼女が音楽を聴きながら出勤してきたときチラリと見えた再生中の画面に、僕が薦めたアーティストの名前が見えて僕はドキリとした。ドキリとしたあと、顔が熱くなった。「おはよう」「おはよう」平静を装いながら、僕はいまキチンとおはようが言えただろうか?自分の声が遠かった。彼女も僕と同じだったのだ!僕は彼女の好きなアーティストを聴き、彼女も僕の好きなアーティストを聴いてくれていたのだ。僕がそうであるように、彼女も僕を構成する一部分を取り込んでくれていることを、一人喜んでいた。


そして、ある冬の夜に、僕は彼女に告白した。


彼女は少しの間フリーズしていて、口を開け、閉めてまた開けてから二秒後に、やっと返事をしてくれた。僕は思わず彼女を抱きしめてしまった。ああ、本当は、もっとゆっくり時間をかけて彼女に触れようと思っていたのに。そんな決意も忘れて、彼女をきつく抱きしめた。彼女は苦しそうに、それでも嬉しそうに、「苦しい」と言った。

それから半月、僕たちは初めてキスをした。軽く軽くキスをした。そしてまた半月して、今度は深いキスをした。そして一ヶ月して、僕は初めて彼女の裸を見た。彼女の裸はキレイだけれど、ところどころ古そうな小さい痣があったり、あばらが薄く浮いていたりした。肌は白くて柔らかかった。僕はとても時間をかけて、ゆっくりゆっくり、彼女を解した。彼女の声は控えめだったけれど、艶のある声だった。汗の香りに、興奮した。



彼女とセックスをしたのはこれで何度目になるだろう。愛を伝えるための手段であったセックスはもはやここにはないのかもしれない。僕は彼女に慣れきっていた。彼女がどう思っているかは知らないけれど。彼女の内側を知るうちに、出会った頃感じていた特別な感情がどんどん薄れてゆくのを感じていた。特別だと思っていた、彼女の笑顔や素直さやセンス、優しさや一生懸命な性格は、彼女を手にした今、冷静に周りを見渡せば少なくない数の人間が持ち合わせているようなものだったし、彼女の美しさも特別なものではなかった。不思議なことに、今まで気がつかなかったけれど職場には彼女より美しい女性は何人もいた。彼女の素晴らしいと思えたはずの人生観はよく聞くとところどころ穴があったし、日によって主張が違うことも何度かあった。彼女も不完全な人間だったのだ。周りと同じだった。特別な所なんて、どこにもないのだ。僕はもう、彼女がどうして好きだったのか、思い出せなくなっていた。思い出すために、セックスをした。変わらないのは身体だけだったから。


狭い部屋に「好きだよ」という声が響く。彼女の控えめで高い声が響く。全てがウソだった。思い出すためのウソだった。

重力のある星に住む私たち全人類からすれば宇宙空間に存在するものを理解することは到底不可能であろうし、第一に「浮遊」という感覚を知ることは微塵もないだろう。Macintoshの初期設定のままの壁紙をぼんやりと見つめながらそう思う。二次元の宇宙空間に思いを馳せることは究極に意味のない時間の使い方のように思えて自嘲気味に笑いながら、それでも銀河系の中に潜り込んでゆく妄想をせずにはいられなかった。ここが宇宙なら重力にさえ縛られずにどこまでも飛びながら生きてゆけるのに。僕を縛る人間や時間やタスクの煩わしさは僕に一瞬の隙を与えた。今日の九時から重役と会議、通勤途中で急遽上司から頼まれている書類を作りながら駅前のコンビニで昼飯を買う。十時半には向こうの会社を出て支店に顔を出さなければならない、深夜留守電に入っていた母の声を思い出す。「たまには連絡くらい入れなさい、生きてるの?ーーーー」二週間前から彼女は家を出てしまっている。いつもは甲高い声の彼女から漏れた最後の言葉は低く響いていた。なんて言っていたっけ……「あなた」「私のこと」「愛していないんなら」「早く私を」「解放してよ」今月はまだ休みをもらっていない。僕は玄関を出る前に縛っておいた雑誌の束からロープを解いて、ドアノブに首を括り付けた。次に目を覚ましたのは漂白された病室だった。会社の人間が、今日の会議についてメールが届いていないのを不審に思い僕を訪ねたらしい。僕はまた彼らによって地獄へ引きずり堕ろされてしまったようだ。僕の左腕は麻痺してしまっていたけれど、利き腕は右腕だったからナイフを身体に突き立てることは容易だった。僕はそれでも死ななかった。ナイフの代わりに、ボールペンを使ったからだった。親父に殴られて、母親はうっ血するほど泣き、実家に帰っていた彼女はごめんねと繰り返しながら僕を優しく抱いた。全てが僕をきつくきつく縛り上げた。逃げられない。

乾いた愛の音を聞いている。
「コーヒー飲む?」「うん」砂糖とミルクの配分など既に覚えてはいないけれど、偽りかもしれない愛の記憶を頼りに手を動かせば不味くはなさそうなコーヒーが入った。不自然に二人を詰め込んだリビングルームで無言の雑音をBGMにコーヒーを啜る。

「……ぬるい」
「ミルク、いれすぎたかも」

舌をざらつきながら喉を通る液体を味わう空間は彼にとって日常のヒトコマだったけれど、目の前に座る彼女の素っ気ない睫毛を何とはなしに覗くのは、いつぶりだったろう。

****
僕らに濡れた関係がなくなったのは、四年前のことだ。四年前の十月に最後のセックスをして、それからはやり過ごすようにお互いの身体を避けた。お互いの身体「だけ」を避ける二人の違和感は徐々に世界を侵蝕していったけれど僕も彼女も見ないふりをして侵蝕を受け入れるように生きたから僕らはもう救われない。

初めてセックスをした日から感じていた微かな恐れがあった。満ち満ちている身体と精神と彼女の笑顔と「幸せ」という言葉にオプション「愛してる」。僕は彼女の身体という宝箱へあらゆるものを詰め込んだけれど、時間は宝箱を脆くさせていく。これは知っておいた方がいい。僕は彼女に触るたびに彼女の魅力が色褪せていくのを感じていた。きっとそれは彼女も同じだったのだろう。僕らは次第にセックスで絶頂を迎えることを忘れ、僕は昂りを忘れ彼女は潤いを忘れた。最後のセックスは乾いた音しか聞こえなかった、僕らはもう「愛してる」と伝えるシーンを失ったのだ。それからの四年間で僕らは完全に枯渇した。それでも同じ空間に居続ける僕らに与える美しい言葉などありはしない。惰性は時にとても優しい。

****
愛してると言ってみたい瞬間がある。そんな陳腐な言葉に何を期待する訳でもないけれど、音感に閉じ込められた過去の記憶は音感によって思い出されるのではないかしら。やっぱり、期待してる。嘘でもいいから思い出したい愛を知っている。
私の身体に感じる彼がもういなくなってしまったことを私は彼が気付く前から気付いていた。きっと。彼は私に触れる機会を避け続けた。あるいは求めなかった。私は変に自然とそれを受け入れて身体に記憶したから、それ以来私は彼に欲情したりはしない。私たちはそれ以来不思議なことに以前よりも混ざり合うように空間と時間を共に生きたけれど人間的ではない二人の間に生まれ続けるものはもうなかった。死んでゆくだけだった。



「……思い出しちゃった」

私は長いこと見つめていなかった彼の顔を見た。混ざり合ったはずの彼の顔を忘れていたことに驚いて、すぐに納得しながら、彼は今の私と同じ顔をしているのだろうと推測した。

「……『愛してる』」

「……ありがと」

どこか適当な時間軸から引用された鍵括弧付きの彼の言葉は残酷に優しい。


コーヒーはとうに冷めていた。

海に沈んだともだちの輪郭を鮮明に描くことはできない。
天使は昨日よりもぼくの近くに座っていた。そして泣いていた。不器用に泣くから息をのむ音は声になった。
「誤解しないで、ぼくは今嬉しいんだから……」
それでも天使は泣いていた。両腕でぼくの首に抱きついた。すぐそばにある天使の心臓がいまにも止まってしまいそうなくらいに早く鳴っていたからぼくは冷たい汗を流しながら天使の背中を撫でた。心臓を止めてしまわないように、手を泡のようにして天使に触れた。
「優しいオハナシしてあげる……」
まぶたがとても重かった。そのとき、涙は伝染するということをぼくは始めて知ったのだ。

鼻血の流れる感覚が心地良くて息を荒くしていると(口で呼吸するのはいつでも困難だ)天使が手鏡をくれた。裏に細やかな装飾が付いた大きめの鏡。今日のような日にぼくにプレゼントするために持ち歩いていたと言う。そこに映るぼくの顔は鼻水と混ざる朱色の血液で咲き乱れていて素晴らしいプレゼントを貰ってしまったと思った。この鏡を割っても彼は泣いてくれないだろうから、大事に使おう……。


天使はぼくの手を握るのが好きらしい。そうして僕を覗く。天使の睫毛の色まではわからなかった、なんにせよ天使は小さかった。椅子の上で眠ってしまうこともあった。そんなときぼくはいつも彼に触ろうとするけれどダメだった、ダメなんだ、理由なんてない。ただ、感覚だけがなかった。彼の寝息は規則正しく聞こえているから、ぼくはそれを羊のように抱いて眠った。そのあと部屋になにか入ってくる気配がするのはいつものことだった。彼の寝息が乱れるのだけが心配だった。

「おはようございます」

粘つく朝の挨拶は虚しく滑る。45リットルのゴミ袋はたちまちに埋まってゆく、街中に散布された人間の悪意を僕は毎週金曜日の早朝にかき集めては捨てるのだ。
駅へ向かう人々の眼に自我を見ることはできない。正確な周期に基づいて自らを殺す人間達の多さに僕はため息をついてしまう。また一人、短くなったタバコをアスファルトへ埋める人間を傍らにして、新しいゴミ袋を呼吸させるように広げれば怪訝な顔を人々の間に生み出すことは簡単だった。その表情は僕の胸を打ち鳴らすのに十分すぎる。

公衆トイレから漂うすえた臭いは嫌いじゃない。反対に、人間達の本当の臭いを誰も受け入れようとしないことが不思議だった。散り散りになったトイレットペーパー、乾いたガムのアップリケ、黄色くなった使用済コンドーム。僕はそれらに血の繋がり以上の親近感を覚えた。割れた鏡には僕の顔がスライドするように写っている。あらゆる表情を継ぎ接いで作った仮面を思う。

八月の第三金曜日のことだった。
夏の公衆トイレは凶悪な香りで満ちる。丸々と太った蛾を踏み潰しながら、僕はいつもの親近感の中に絡まる甘酸っぱい香りを嗅ぎ分けた。
奥から二番目、空室の青が主張しているけれど扉は閉まったままだった、「誰かいますか」呼びかける声への反応はない。無理矢理に押し開くと黒いパンプスが覗く。女だ。ストッキングは皮膚を剥がされるように裂けている。ギイイ。扉はつかえて最後までは開かなかったけれど、”女だったもの”の赤く散った胸や使い回された女性器や赤黒く腫れた顔や首に巻きついた鞄の細い紐は全く問題なく確認できた。

「これは……一枚じゃ、足りないかな……」

分別に困る。不法投棄は厄介だ。

ぼくが八歳のときに撤去されたジャングルジムを十年経った今でも夢に見る。心臓が騒がしくて眼を覚ますと四隅が濁るどろりと暗い部屋がぼくごと包んでいるので安心するのだった。いつものぼく、いつものぼくの部屋で重たい布団に寝返りさえ打てない日常。手を伸ばして触れる夜は丸くて温かい日もあれば鋭くてひんやりと沈み込む日もあった。丸い夜の日は仰向けで眠ると悪い夢を見なかった。反対に、鋭角的な夜の日はうつぶせで眠るのが良いらしかった、これは最近気付いたことだ、鋭角的な夜でも、触れてみて温かかったら、うつぶせで眠らなくても良いというのは昨日知ったことだった。ただしこんな夜はめったにない。これだけでも彼に教えてあげることができれば彼は笑ってくれるだろうかと思ったのだけど、彼はそれでも薄い唇をまっすぐ閉じたまま星を見ていた。ぼくは戦争映画を再生しなければならなかった、返却日は明日だったから。

太陽だって穴は空くんだ。


乾いた白米の塊を水で流し込みながら暗くなった明け方を肌で感じる。水はいつも通りカルキの臭いで濁っている。五月二十一日。何曜日かは忘れてしまった。高い声の群れが微かに通り過ぎるからきっと平日だ、そして恐らく彼らは僕と同じ学校に通う生徒だ、憶測でしかないけれど。

割れる音がする。割れる音がしたような気がする。僕の耳は既にほとんど使い物にならないけれどそのかわりに肌が過敏になった。空気の振動を肌で感じる。割れる音は僕を震わせてから身体を強張らせるチャンスをくれる。硬くなった身体に降るものは人間の手と思えないほどにごつごつと冷たかった。ひやりと感じる床の冷たさを頬で感じて眠たくなる。遠くで微かに怒鳴る音を聞いて、耳が使い物にならなくてよかったとこういうときに思う。静かに眠ることだけが僕の幸せだったから。

何万匹もの羊が目の前を飛んでいって眼が覚める。澱んだ窓の向こうで鳥が囀るのがなぜかはっきりと耳に届いて僕は飛び起きた、希望が見えたような気がしたから。開かない窓に張り付いて鳥を眼で追う。真っ青で小さな鳥がちらちらと羽ばたいて僕の目の前で踊った。きれいな色だと思った。昔のように、僕の手で君をキャンバスに写し出せたならどんなにか素敵な色になっただろう。夢を見て僕は微笑んだ。僕が笑うのを見て、青い鳥は太陽に向かって羽ばたいたのを最後に、それを追う僕の網膜は穴の空いた太陽にすっかり焼き尽くされてしまった。

それは冬を告げるランプが僕に合図するのと同時だった。
大きく弧を描いた星座は進むべき方向を示してくれていたから僕は何の心配もなく森を抜けることが出来た。走ることに慣れていないせいか不安とは関係なく心臓は強く僕をノックする。扉を開けるわけにはいかなかった。僕は心臓をしっかりと施錠して鍵を失くさないよう心の奥底にしまった。血液の騒ぐ声も聞かずに抜ける森は僕を傷つけた。鋭い葉は皮膚をさらっていったけれど眼に見えるものに大事なものなどないから頬を濡らしながら暗闇を切った。僕にそう教えてくれたのはとくちゃんだった。とくちゃんは左腕を失くしてしまっていたけれどとてもとても長い睫毛が生きていたから美しかった。既に記憶の中でしか会うことのできないとくちゃんに毎日笑いかける、おはよう、げんき?いいてんき。灯りを消すね、もうねむるね、とくちゃんはいい夢をみてね。ぼくのかわりに。おやすみ。おはよう。げんき?僕の時計。とくちゃんの心臓は僕の時計。とくちゃんの心臓は僕の耳になった。僕の耳は囁く、今は真夜中2.5時。僕の耳は囁く、夜明けまであと3.75時間。でもそんなに焦らなくていい、僕を追いかけるものは誰もいなくなった。少なくともランプが消えるまでは。ねえ、きみ、僕のかわりに後ろを見てくれない?怖くて振り向けないんだ。お願いだよ。

蒸気した頬に籠る音楽に溶ける。左肩を撫でる水面、右耳を犯す水音、膝を折り曲げ不自然に首を曲げながら左手は外の音楽に合わせて水面を叩いている。私を閉じ込める蓋が青く透けて酸欠状態の私に優しく映る、手を伸ばしたら水滴が指を伝って肘で溶けた。晴天から注ぐ雨のようで神様の私は酷く楽しい。浴槽の中には私の掠れた歌声だけが生きている。瞬きの音までが響く。お気に入りのアルバムを一周歌ってから浴槽の蓋を開ける。酸素の踊り食いをしているように苦しくなってしまう、いつものことだ。酸欠よりも苦しいなんて、外の世界にはどれだけの不純物が蔓延しているのか恐ろしい。冷えきったタイル張りの浴室に流す温度は一瞬で私の視界を曇らせてしまった。
私が美味しそうな蜂蜜の香りでコーティングされた頃、いつも我慢できずに達してしまう。石鹸は最初の大きさよりもだいぶ小さくなった。きめ細やかな固い泡で包まれるとプレゼントしてくれた彼が肌を撫でているような気がする。腕、足、背中、胸、そして……身体の中まで甘く染まることにエクスタシーを感じる、彼の顔が浮かぶ。あれから一度も会っていない。「別れよう」という言葉だけがピリピリと肌を刺激するからそれさえ快感だった、私はどこかおかしいのだろうか。お湯をかけても泡はなかなか流れ落ちてくれない。甘ったるい香りを閉じ込めるように、私は再び浴槽の蓋を閉めて、歌った。

彼女の細い指に似合うだろうピンクゴールドを温めながら横浜駅で彼女を待つ19:54。日曜に仕事のある僕に合わせて20:00にいつもの場所で待ち合わせた。間抜けな着信音と共に[もうすぐ着くよ]の文字、改札の向こうに見えた彼女は一足遅れて僕を見つけたようで、いつものきらめくような笑顔を見せてからIC乗車券をかざし、料金不足で構内に引き止められてから、ばつの悪そうな顔をして、清算を終わらせ小走りで僕の中に入ってきた。さむいね。うん、さむい。自然と手を絡ませ駅を後にする。僕と彼女の歩幅は全く違うけれど、呼吸の拍子はほとんど同じだった。白い息が生まれるたび二人の間で混ざっていたからだった。

普段は陳腐な光もこれほどまでに散りばめられれば眼を見張らずにはいられなかった。プラネタリウムのような街を静かに眺める彼女をそっと覗くと、大きな眼の中には宇宙があった。街よりもずっと彼女の方がきれいだったけれど、何万もの男がきざに吐いたであろう台詞を使い回すのは躊躇われたから言葉をキスにして投げかけると、二度目のキスで宇宙は閉じてしまった。風が冷たい。手がじくじくと痛む。彼女の鼻も、少し赤い。


「夜遅くになっちゃって、ごめんな」
横浜の光を映し出したパノラマの窓が彼女の横顔をしとやかに照らす。鴨フォアグラのソテーをフォークで弄んでいた彼女の顔が一瞬当惑の表情に歪み、すぐに笑った。
「ううん、気にしてないよ。わたし、会えただけで嬉しかったもん」
お仕事忙しいのにありがとう、そう言って彼女はまた笑う。デザートが運ばれてから、僕はやっと鞄の奥にしまい込んでいた小箱を渡すことが出来た。
「これ、プレゼント。メリークリスマス」
僕の想像していた以上にひとしきり彼女は感動してから、小さな箱を開けてうわー、とかひゃー、とか感嘆の声を漏らして、左手の薬指にくぐらせた。シンプルだけれどかわいげのあるピンクゴールドの細い指輪はやっぱり彼女にぴったりだ。そのあとも二回ありがとうという言葉を発した彼女は、実はね、私もクリスマスプレゼントあるの、と楽しそうにコーヒーを飲みながら言った。
「またあとでね」
へへへ、と笑う彼女が愛しかった。


深夜の横浜駅はいつも少し騒がしい。特に今日なんかは一層に。終電を間近にしたカップル達は別れを惜しむようにキスをしたりなにか囁き合ったりしている、僕はそれらを見て見ぬふりをしながら彼女の手を心なしか強く握ってしまった。
「じゃあ……今日は、ありがとう」
眉を下げた彼女が改札の前で僕を見る。うん、たのしかった。ありがとう。僕も白い息をはふはふと吐き出して言った。改札をくぐろうと僕の手を離した彼女が、あっ、と声を上げて思い出したように鞄を探り出して、ほんのしばらくごそごそとやってから、僕に手を突き出して、今日一番の笑顔でこう言った。
「これ、私からのクリスマスプレゼント。メリークリスマス」
何も言えない僕を放って、じゃあね、と手を振る彼女と背を向ける彼女と一番線のホームに上がる彼女をたっぷりと見つめてから、僕の手の中のものをもう一度見た。手の中には、さきほどまで僕の鞄を占領していた小箱が収まっていた。彼女は一度も振り返らなかった。

赤みが引かない。

二ヶ月経った。小学生時代の二ヶ月というのはほとんど永遠のように過ごしていたのにいつのまにか時間の早さに追い抜かされてしまっている。赤みが引かないのは追い越すことが出来ない証だ。痒くはない。五年前の身体ではないことに季節を追いかけて気付く。触れることが出来ないまま春は夏に変わってしまった。蝉の鳴き声は一瞬で途絶え大火のように燃え上がる紅葉は燃え広がる間もなく白銀に覆いつくされた。痒くはない。少しだけ眠い。
脳内麻薬の分泌を感じるために人体実験を決行した。手首はケロイドのためにふやけてだらしなく幾多もの線が浮き上がっている。弦楽器を演奏するように手首を撫でてみたけれど部屋に響くのはストーブの嚥下する下品な音だけだった。無理もない。僕は楽器など触れたこともないのだから。

十二月二十日
五年前の傷をなぞるようにカッターの刃を滑らせた。ピリピリと痛い。中学校のトイレで初めて手首を切ったことを思い出した。子宮のつくりについて読み上げなければならないなんて普通の精神状態では成せないと思ったからトイレに籠って手首を切った。前の時間に理科の先生が「痛みは脳内麻薬の分泌を促進する働きがある」と言っていたからだった。頭がふわふわしたら教室に戻ろうと思っていたのだけれど、三時間目終了のチャイムが鳴って個室の床が血まみれになっても僕の頭は正常だった。和式便器に溜まる血液を見て、毎月のように股から血を出すらしい(そして僕はそれを教科書でしか知らない)女たちは狂っていると思った。僕は女が嫌いになった。

ペンを置いて麦茶を飲む。喉が乾いてしょうがない。室温22℃の部屋には加湿器がないのだ。一年に一冊日記帳を書き潰しているので左から五冊目の日記帳を捲る、日記を辿ってみると……僕が女嫌いになったのは五年前の七月十三日だった!ということは僕の記念すべきケロイド誕生日でもあるのだ。これは重大な発見だ、日記に付け加えておかねばならない。

アルコールの摂取は赤みを助長する。それに加えてケロイドが笑うように痒くなる。数えきれないほどの口が手首に開くから僕は耳を塞いでいなければならなかった。それも、前後不覚へ陥ればどうということはないから大抵は笑い声を捩じ伏せてアルコールを注ぎ込む。朝は好きだ。舌に歯の跡がつくほどに浮腫んでいる顔が愛しい。笑い声も鳥のさえずりには勝てないようで、ほんの少し赤みが残っていても僕は上機嫌にお気に入りの歌を口ずさみながらパンを焼き目玉焼きを作ることが出来た。食後にドグマチール100mg、リーゼ10mg、パキシル20mg、デパス3mg、デザートには足りないと思う。落ち着いた気持ちで手首を切る。十二月二十一日、脳内麻薬の分泌は未だに確認できない。

都会に長く住みすぎたせいか、私はいつしか虫を嫌悪するようになってしまった。
虫に対する好奇心は無機質なコンクリートに埋まりギラギラとしたネオンを愛すうち虫の美しさを思い出す事もなくなった。蝶や蛾の二つとない羽模様や削れる鱗粉や不規則に羽ばたく可憐さを拒絶するようになって季節は何周も巡り何度目かの春を迎える。網膜に映る褪せた桜色を覗いてしまう人がいなかったのは幸せだったのかもしれない。乾いた瞼の瞬きは桜の散る音に似ていた。
桜色のノイズが走る公園には幾名かの子どもが舞っている。黄色い服に引き寄せられるように重い腰を引っ張り草むらへと向かう。背を向ける黄色い一人の子どもの手には鮮やかな緑が握られていた。もう片方の手が緑を掴むと、意外すぎるほど簡単に足は千切れた。
足を一本なくしたカマキリはバランスを崩しながらすぐにどこかへ隠れてしまった。きっと身体の半分をなくしてもジワジワと活動を続けるのだろう。小さな身体に秘められた生命力の不気味さに私は怖じ気づいたのだろうか。生きるという恐ろしさに私は眼を背けたかったのだろうか。ふと昔の自分を思い出して、にこやかに言う。


「ねえボク、虫は好き?」
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