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足が長く美しい妻、スーツの似合うハンサムな夫、そして理知的な顔つきでバーバリーの洋服を着ている二人の子ども。マネキンのような四人家族が私の目の前のテラス席で朝食を食べていた。
焼き色の素晴らしいトーストに妻は紅茶を、夫はブラックコーヒーを飲みながら新聞を広げている。子どもたちは、おとなしく、けれど食事の楽しみを忘れないような会話をしながら、背筋を伸ばしてベーコンサラダを食べている。「ガラスでコップを作れるんだって。楽しみだね」「うん、とても。お父さんは、今日もお仕事なんだよね。お父さんのぶんもじょうずに作るから、お仕事がんばってね」新聞から眼を離して子どもたちを見ながらコーヒーをすする父親は、落ち着いた優しげな表情でありがとうと言う。薄い唇は自然な笑顔を作る。妻はそのやりとりを幸せそうに見つめながら紅茶を飲み、時計を覗いて「あなた、そろそろじゃない?」と言った。「ああ」新聞をたたみ、子どもたちに上着を着せると、私の隣を通り過ぎて四人家族は店から出て行った。ローズマリーの香りを残して。
すれ違いざまに店へ入ってきた女性は、一見すると少年にも見えるような短い髪をして私の前へ座った。前髪の下の長くした睫毛と色づいた唇で、やっと女性だとわかる。
「おはよ。で、詩は書けた?」
「……あの家族、」
「は?」
少年じみた彼女は私の言葉に怪訝な顔をして、すぐに振り返ってからまた答えた。
「ああ。今の家族?マネキンみたいな家族だったな」
「うん。あの家族、きっと幸せにならないだろうから、あの家族が幸せになるはずだった未来を歌おう」
四人家族が座っていたテラス席へ向けた携帯の録画ボタンを止めて、ノートの左側をすべて破り捨ててから、まだ白いノートの左上にタイトルを書いた。きっと愛しい曲になる。


美しいと思っていた彼女は近くで見ると化粧が浮いていたし、眼を合わせると白目はボンヤリと黄色かったし、キスをすると歯並びの悪さが舌に伝わった。

シャワーから戻った彼女の頬は上気していて色っぽいが、それだけだ。化粧を落とした彼女の顔は整ってこそいたが、個性もない。この程度の顔は五万といるだろう。話もたいしておもしろくない。感情のこもらない相槌を気にすることなく、興味のない話を楽しそうに喋る姿は壊れたブリキ人形を思わせたが、聞き心地の良い声だけが救いだった。
僕はいつのまにか眠っていた。


ずっと好きだった人だ。職場で知り合って一年、僕はゆっくりと彼女に気に入られる努力をしたし、不自然じゃない程度に彼女の近くにいるようにした。彼女はよく仕事ができて毎日素敵な笑顔を僕にくれた。僕が疲れているときはコーヒーをくれて、僕のやる気があるときは協力して頑張ってくれた。それは特別僕にだけというわけではなかったから、彼女を狙う輩は少なくなかっただろう。気が利く素直な女性だった。とても魅力的な人に思えた。

長いことかかっていた大きな仕事が片付いたとき、僕は初めて彼女を食事に誘った。食事といっても、近くの居酒屋でちょっとした打ち上げをするだけのものだったが、二人きりの時間はとろけるように楽しかった。僕はその日、舞い上がって服を着たまま風呂に入ってしまったくらいだったから。仕事の話はもちろん、彼女の家族の話や人生観の話、映画や本や音楽などの話をした。僕と音楽の趣味は少し違っていたけれど、違う部分も、嬉しく思えた。

彼女から教えてもらったアーティストのCDをレンタルした。通勤途中に聴くようになると、心なしか彼女のような性格に近づいている気がした。なんとなくキビキビと動ける気がしたし、笑顔も増えた。

それから何度か仕事終わりに食事に誘った。食事に行くようになってから、彼女と僕は少しずつ特別な関係になっていった。職場でも、彼女は僕に対して、微妙だけれど明らかに親密さのある話し方や笑顔を向けるようになったし、僕も彼女に対して、他の社員と比べて心を開いていた。稀に、個人的な悩みについてメールをもらうようにもなった。頼られている気がして嬉しくて、彼女のためになりたいと、ほとんど寝ずに彼女の悩みを聞き、解決方法を模索した夜もあった。


彼女が音楽を聴きながら出勤してきたときチラリと見えた再生中の画面に、僕が薦めたアーティストの名前が見えて僕はドキリとした。ドキリとしたあと、顔が熱くなった。「おはよう」「おはよう」平静を装いながら、僕はいまキチンとおはようが言えただろうか?自分の声が遠かった。彼女も僕と同じだったのだ!僕は彼女の好きなアーティストを聴き、彼女も僕の好きなアーティストを聴いてくれていたのだ。僕がそうであるように、彼女も僕を構成する一部分を取り込んでくれていることを、一人喜んでいた。


そして、ある冬の夜に、僕は彼女に告白した。


彼女は少しの間フリーズしていて、口を開け、閉めてまた開けてから二秒後に、やっと返事をしてくれた。僕は思わず彼女を抱きしめてしまった。ああ、本当は、もっとゆっくり時間をかけて彼女に触れようと思っていたのに。そんな決意も忘れて、彼女をきつく抱きしめた。彼女は苦しそうに、それでも嬉しそうに、「苦しい」と言った。

それから半月、僕たちは初めてキスをした。軽く軽くキスをした。そしてまた半月して、今度は深いキスをした。そして一ヶ月して、僕は初めて彼女の裸を見た。彼女の裸はキレイだけれど、ところどころ古そうな小さい痣があったり、あばらが薄く浮いていたりした。肌は白くて柔らかかった。僕はとても時間をかけて、ゆっくりゆっくり、彼女を解した。彼女の声は控えめだったけれど、艶のある声だった。汗の香りに、興奮した。



彼女とセックスをしたのはこれで何度目になるだろう。愛を伝えるための手段であったセックスはもはやここにはないのかもしれない。僕は彼女に慣れきっていた。彼女がどう思っているかは知らないけれど。彼女の内側を知るうちに、出会った頃感じていた特別な感情がどんどん薄れてゆくのを感じていた。特別だと思っていた、彼女の笑顔や素直さやセンス、優しさや一生懸命な性格は、彼女を手にした今、冷静に周りを見渡せば少なくない数の人間が持ち合わせているようなものだったし、彼女の美しさも特別なものではなかった。不思議なことに、今まで気がつかなかったけれど職場には彼女より美しい女性は何人もいた。彼女の素晴らしいと思えたはずの人生観はよく聞くとところどころ穴があったし、日によって主張が違うことも何度かあった。彼女も不完全な人間だったのだ。周りと同じだった。特別な所なんて、どこにもないのだ。僕はもう、彼女がどうして好きだったのか、思い出せなくなっていた。思い出すために、セックスをした。変わらないのは身体だけだったから。


狭い部屋に「好きだよ」という声が響く。彼女の控えめで高い声が響く。全てがウソだった。思い出すためのウソだった。

重力のある星に住む私たち全人類からすれば宇宙空間に存在するものを理解することは到底不可能であろうし、第一に「浮遊」という感覚を知ることは微塵もないだろう。Macintoshの初期設定のままの壁紙をぼんやりと見つめながらそう思う。二次元の宇宙空間に思いを馳せることは究極に意味のない時間の使い方のように思えて自嘲気味に笑いながら、それでも銀河系の中に潜り込んでゆく妄想をせずにはいられなかった。ここが宇宙なら重力にさえ縛られずにどこまでも飛びながら生きてゆけるのに。僕を縛る人間や時間やタスクの煩わしさは僕に一瞬の隙を与えた。今日の九時から重役と会議、通勤途中で急遽上司から頼まれている書類を作りながら駅前のコンビニで昼飯を買う。十時半には向こうの会社を出て支店に顔を出さなければならない、深夜留守電に入っていた母の声を思い出す。「たまには連絡くらい入れなさい、生きてるの?ーーーー」二週間前から彼女は家を出てしまっている。いつもは甲高い声の彼女から漏れた最後の言葉は低く響いていた。なんて言っていたっけ……「あなた」「私のこと」「愛していないんなら」「早く私を」「解放してよ」今月はまだ休みをもらっていない。僕は玄関を出る前に縛っておいた雑誌の束からロープを解いて、ドアノブに首を括り付けた。次に目を覚ましたのは漂白された病室だった。会社の人間が、今日の会議についてメールが届いていないのを不審に思い僕を訪ねたらしい。僕はまた彼らによって地獄へ引きずり堕ろされてしまったようだ。僕の左腕は麻痺してしまっていたけれど、利き腕は右腕だったからナイフを身体に突き立てることは容易だった。僕はそれでも死ななかった。ナイフの代わりに、ボールペンを使ったからだった。親父に殴られて、母親はうっ血するほど泣き、実家に帰っていた彼女はごめんねと繰り返しながら僕を優しく抱いた。全てが僕をきつくきつく縛り上げた。逃げられない。

乾いた愛の音を聞いている。
「コーヒー飲む?」「うん」砂糖とミルクの配分など既に覚えてはいないけれど、偽りかもしれない愛の記憶を頼りに手を動かせば不味くはなさそうなコーヒーが入った。不自然に二人を詰め込んだリビングルームで無言の雑音をBGMにコーヒーを啜る。

「……ぬるい」
「ミルク、いれすぎたかも」

舌をざらつきながら喉を通る液体を味わう空間は彼にとって日常のヒトコマだったけれど、目の前に座る彼女の素っ気ない睫毛を何とはなしに覗くのは、いつぶりだったろう。

****
僕らに濡れた関係がなくなったのは、四年前のことだ。四年前の十月に最後のセックスをして、それからはやり過ごすようにお互いの身体を避けた。お互いの身体「だけ」を避ける二人の違和感は徐々に世界を侵蝕していったけれど僕も彼女も見ないふりをして侵蝕を受け入れるように生きたから僕らはもう救われない。

初めてセックスをした日から感じていた微かな恐れがあった。満ち満ちている身体と精神と彼女の笑顔と「幸せ」という言葉にオプション「愛してる」。僕は彼女の身体という宝箱へあらゆるものを詰め込んだけれど、時間は宝箱を脆くさせていく。これは知っておいた方がいい。僕は彼女に触るたびに彼女の魅力が色褪せていくのを感じていた。きっとそれは彼女も同じだったのだろう。僕らは次第にセックスで絶頂を迎えることを忘れ、僕は昂りを忘れ彼女は潤いを忘れた。最後のセックスは乾いた音しか聞こえなかった、僕らはもう「愛してる」と伝えるシーンを失ったのだ。それからの四年間で僕らは完全に枯渇した。それでも同じ空間に居続ける僕らに与える美しい言葉などありはしない。惰性は時にとても優しい。

****
愛してると言ってみたい瞬間がある。そんな陳腐な言葉に何を期待する訳でもないけれど、音感に閉じ込められた過去の記憶は音感によって思い出されるのではないかしら。やっぱり、期待してる。嘘でもいいから思い出したい愛を知っている。
私の身体に感じる彼がもういなくなってしまったことを私は彼が気付く前から気付いていた。きっと。彼は私に触れる機会を避け続けた。あるいは求めなかった。私は変に自然とそれを受け入れて身体に記憶したから、それ以来私は彼に欲情したりはしない。私たちはそれ以来不思議なことに以前よりも混ざり合うように空間と時間を共に生きたけれど人間的ではない二人の間に生まれ続けるものはもうなかった。死んでゆくだけだった。



「……思い出しちゃった」

私は長いこと見つめていなかった彼の顔を見た。混ざり合ったはずの彼の顔を忘れていたことに驚いて、すぐに納得しながら、彼は今の私と同じ顔をしているのだろうと推測した。

「……『愛してる』」

「……ありがと」

どこか適当な時間軸から引用された鍵括弧付きの彼の言葉は残酷に優しい。


コーヒーはとうに冷めていた。

海に沈んだともだちの輪郭を鮮明に描くことはできない。
天使は昨日よりもぼくの近くに座っていた。そして泣いていた。不器用に泣くから息をのむ音は声になった。
「誤解しないで、ぼくは今嬉しいんだから……」
それでも天使は泣いていた。両腕でぼくの首に抱きついた。すぐそばにある天使の心臓がいまにも止まってしまいそうなくらいに早く鳴っていたからぼくは冷たい汗を流しながら天使の背中を撫でた。心臓を止めてしまわないように、手を泡のようにして天使に触れた。
「優しいオハナシしてあげる……」
まぶたがとても重かった。そのとき、涙は伝染するということをぼくは始めて知ったのだ。

鼻血の流れる感覚が心地良くて息を荒くしていると(口で呼吸するのはいつでも困難だ)天使が手鏡をくれた。裏に細やかな装飾が付いた大きめの鏡。今日のような日にぼくにプレゼントするために持ち歩いていたと言う。そこに映るぼくの顔は鼻水と混ざる朱色の血液で咲き乱れていて素晴らしいプレゼントを貰ってしまったと思った。この鏡を割っても彼は泣いてくれないだろうから、大事に使おう……。


天使はぼくの手を握るのが好きらしい。そうして僕を覗く。天使の睫毛の色まではわからなかった、なんにせよ天使は小さかった。椅子の上で眠ってしまうこともあった。そんなときぼくはいつも彼に触ろうとするけれどダメだった、ダメなんだ、理由なんてない。ただ、感覚だけがなかった。彼の寝息は規則正しく聞こえているから、ぼくはそれを羊のように抱いて眠った。そのあと部屋になにか入ってくる気配がするのはいつものことだった。彼の寝息が乱れるのだけが心配だった。

「おはようございます」

粘つく朝の挨拶は虚しく滑る。45リットルのゴミ袋はたちまちに埋まってゆく、街中に散布された人間の悪意を僕は毎週金曜日の早朝にかき集めては捨てるのだ。
駅へ向かう人々の眼に自我を見ることはできない。正確な周期に基づいて自らを殺す人間達の多さに僕はため息をついてしまう。また一人、短くなったタバコをアスファルトへ埋める人間を傍らにして、新しいゴミ袋を呼吸させるように広げれば怪訝な顔を人々の間に生み出すことは簡単だった。その表情は僕の胸を打ち鳴らすのに十分すぎる。

公衆トイレから漂うすえた臭いは嫌いじゃない。反対に、人間達の本当の臭いを誰も受け入れようとしないことが不思議だった。散り散りになったトイレットペーパー、乾いたガムのアップリケ、黄色くなった使用済コンドーム。僕はそれらに血の繋がり以上の親近感を覚えた。割れた鏡には僕の顔がスライドするように写っている。あらゆる表情を継ぎ接いで作った仮面を思う。

八月の第三金曜日のことだった。
夏の公衆トイレは凶悪な香りで満ちる。丸々と太った蛾を踏み潰しながら、僕はいつもの親近感の中に絡まる甘酸っぱい香りを嗅ぎ分けた。
奥から二番目、空室の青が主張しているけれど扉は閉まったままだった、「誰かいますか」呼びかける声への反応はない。無理矢理に押し開くと黒いパンプスが覗く。女だ。ストッキングは皮膚を剥がされるように裂けている。ギイイ。扉はつかえて最後までは開かなかったけれど、”女だったもの”の赤く散った胸や使い回された女性器や赤黒く腫れた顔や首に巻きついた鞄の細い紐は全く問題なく確認できた。

「これは……一枚じゃ、足りないかな……」

分別に困る。不法投棄は厄介だ。

ぼくが八歳のときに撤去されたジャングルジムを十年経った今でも夢に見る。心臓が騒がしくて眼を覚ますと四隅が濁るどろりと暗い部屋がぼくごと包んでいるので安心するのだった。いつものぼく、いつものぼくの部屋で重たい布団に寝返りさえ打てない日常。手を伸ばして触れる夜は丸くて温かい日もあれば鋭くてひんやりと沈み込む日もあった。丸い夜の日は仰向けで眠ると悪い夢を見なかった。反対に、鋭角的な夜の日はうつぶせで眠るのが良いらしかった、これは最近気付いたことだ、鋭角的な夜でも、触れてみて温かかったら、うつぶせで眠らなくても良いというのは昨日知ったことだった。ただしこんな夜はめったにない。これだけでも彼に教えてあげることができれば彼は笑ってくれるだろうかと思ったのだけど、彼はそれでも薄い唇をまっすぐ閉じたまま星を見ていた。ぼくは戦争映画を再生しなければならなかった、返却日は明日だったから。

太陽だって穴は空くんだ。


乾いた白米の塊を水で流し込みながら暗くなった明け方を肌で感じる。水はいつも通りカルキの臭いで濁っている。五月二十一日。何曜日かは忘れてしまった。高い声の群れが微かに通り過ぎるからきっと平日だ、そして恐らく彼らは僕と同じ学校に通う生徒だ、憶測でしかないけれど。

割れる音がする。割れる音がしたような気がする。僕の耳は既にほとんど使い物にならないけれどそのかわりに肌が過敏になった。空気の振動を肌で感じる。割れる音は僕を震わせてから身体を強張らせるチャンスをくれる。硬くなった身体に降るものは人間の手と思えないほどにごつごつと冷たかった。ひやりと感じる床の冷たさを頬で感じて眠たくなる。遠くで微かに怒鳴る音を聞いて、耳が使い物にならなくてよかったとこういうときに思う。静かに眠ることだけが僕の幸せだったから。

何万匹もの羊が目の前を飛んでいって眼が覚める。澱んだ窓の向こうで鳥が囀るのがなぜかはっきりと耳に届いて僕は飛び起きた、希望が見えたような気がしたから。開かない窓に張り付いて鳥を眼で追う。真っ青で小さな鳥がちらちらと羽ばたいて僕の目の前で踊った。きれいな色だと思った。昔のように、僕の手で君をキャンバスに写し出せたならどんなにか素敵な色になっただろう。夢を見て僕は微笑んだ。僕が笑うのを見て、青い鳥は太陽に向かって羽ばたいたのを最後に、それを追う僕の網膜は穴の空いた太陽にすっかり焼き尽くされてしまった。

それは冬を告げるランプが僕に合図するのと同時だった。
大きく弧を描いた星座は進むべき方向を示してくれていたから僕は何の心配もなく森を抜けることが出来た。走ることに慣れていないせいか不安とは関係なく心臓は強く僕をノックする。扉を開けるわけにはいかなかった。僕は心臓をしっかりと施錠して鍵を失くさないよう心の奥底にしまった。血液の騒ぐ声も聞かずに抜ける森は僕を傷つけた。鋭い葉は皮膚をさらっていったけれど眼に見えるものに大事なものなどないから頬を濡らしながら暗闇を切った。僕にそう教えてくれたのはとくちゃんだった。とくちゃんは左腕を失くしてしまっていたけれどとてもとても長い睫毛が生きていたから美しかった。既に記憶の中でしか会うことのできないとくちゃんに毎日笑いかける、おはよう、げんき?いいてんき。灯りを消すね、もうねむるね、とくちゃんはいい夢をみてね。ぼくのかわりに。おやすみ。おはよう。げんき?僕の時計。とくちゃんの心臓は僕の時計。とくちゃんの心臓は僕の耳になった。僕の耳は囁く、今は真夜中2.5時。僕の耳は囁く、夜明けまであと3.75時間。でもそんなに焦らなくていい、僕を追いかけるものは誰もいなくなった。少なくともランプが消えるまでは。ねえ、きみ、僕のかわりに後ろを見てくれない?怖くて振り向けないんだ。お願いだよ。

蒸気した頬に籠る音楽に溶ける。左肩を撫でる水面、右耳を犯す水音、膝を折り曲げ不自然に首を曲げながら左手は外の音楽に合わせて水面を叩いている。私を閉じ込める蓋が青く透けて酸欠状態の私に優しく映る、手を伸ばしたら水滴が指を伝って肘で溶けた。晴天から注ぐ雨のようで神様の私は酷く楽しい。浴槽の中には私の掠れた歌声だけが生きている。瞬きの音までが響く。お気に入りのアルバムを一周歌ってから浴槽の蓋を開ける。酸素の踊り食いをしているように苦しくなってしまう、いつものことだ。酸欠よりも苦しいなんて、外の世界にはどれだけの不純物が蔓延しているのか恐ろしい。冷えきったタイル張りの浴室に流す温度は一瞬で私の視界を曇らせてしまった。
私が美味しそうな蜂蜜の香りでコーティングされた頃、いつも我慢できずに達してしまう。石鹸は最初の大きさよりもだいぶ小さくなった。きめ細やかな固い泡で包まれるとプレゼントしてくれた彼が肌を撫でているような気がする。腕、足、背中、胸、そして……身体の中まで甘く染まることにエクスタシーを感じる、彼の顔が浮かぶ。あれから一度も会っていない。「別れよう」という言葉だけがピリピリと肌を刺激するからそれさえ快感だった、私はどこかおかしいのだろうか。お湯をかけても泡はなかなか流れ落ちてくれない。甘ったるい香りを閉じ込めるように、私は再び浴槽の蓋を閉めて、歌った。

彼女の細い指に似合うだろうピンクゴールドを温めながら横浜駅で彼女を待つ19:54。日曜に仕事のある僕に合わせて20:00にいつもの場所で待ち合わせた。間抜けな着信音と共に[もうすぐ着くよ]の文字、改札の向こうに見えた彼女は一足遅れて僕を見つけたようで、いつものきらめくような笑顔を見せてからIC乗車券をかざし、料金不足で構内に引き止められてから、ばつの悪そうな顔をして、清算を終わらせ小走りで僕の中に入ってきた。さむいね。うん、さむい。自然と手を絡ませ駅を後にする。僕と彼女の歩幅は全く違うけれど、呼吸の拍子はほとんど同じだった。白い息が生まれるたび二人の間で混ざっていたからだった。

普段は陳腐な光もこれほどまでに散りばめられれば眼を見張らずにはいられなかった。プラネタリウムのような街を静かに眺める彼女をそっと覗くと、大きな眼の中には宇宙があった。街よりもずっと彼女の方がきれいだったけれど、何万もの男がきざに吐いたであろう台詞を使い回すのは躊躇われたから言葉をキスにして投げかけると、二度目のキスで宇宙は閉じてしまった。風が冷たい。手がじくじくと痛む。彼女の鼻も、少し赤い。


「夜遅くになっちゃって、ごめんな」
横浜の光を映し出したパノラマの窓が彼女の横顔をしとやかに照らす。鴨フォアグラのソテーをフォークで弄んでいた彼女の顔が一瞬当惑の表情に歪み、すぐに笑った。
「ううん、気にしてないよ。わたし、会えただけで嬉しかったもん」
お仕事忙しいのにありがとう、そう言って彼女はまた笑う。デザートが運ばれてから、僕はやっと鞄の奥にしまい込んでいた小箱を渡すことが出来た。
「これ、プレゼント。メリークリスマス」
僕の想像していた以上にひとしきり彼女は感動してから、小さな箱を開けてうわー、とかひゃー、とか感嘆の声を漏らして、左手の薬指にくぐらせた。シンプルだけれどかわいげのあるピンクゴールドの細い指輪はやっぱり彼女にぴったりだ。そのあとも二回ありがとうという言葉を発した彼女は、実はね、私もクリスマスプレゼントあるの、と楽しそうにコーヒーを飲みながら言った。
「またあとでね」
へへへ、と笑う彼女が愛しかった。


深夜の横浜駅はいつも少し騒がしい。特に今日なんかは一層に。終電を間近にしたカップル達は別れを惜しむようにキスをしたりなにか囁き合ったりしている、僕はそれらを見て見ぬふりをしながら彼女の手を心なしか強く握ってしまった。
「じゃあ……今日は、ありがとう」
眉を下げた彼女が改札の前で僕を見る。うん、たのしかった。ありがとう。僕も白い息をはふはふと吐き出して言った。改札をくぐろうと僕の手を離した彼女が、あっ、と声を上げて思い出したように鞄を探り出して、ほんのしばらくごそごそとやってから、僕に手を突き出して、今日一番の笑顔でこう言った。
「これ、私からのクリスマスプレゼント。メリークリスマス」
何も言えない僕を放って、じゃあね、と手を振る彼女と背を向ける彼女と一番線のホームに上がる彼女をたっぷりと見つめてから、僕の手の中のものをもう一度見た。手の中には、さきほどまで僕の鞄を占領していた小箱が収まっていた。彼女は一度も振り返らなかった。

赤みが引かない。

二ヶ月経った。小学生時代の二ヶ月というのはほとんど永遠のように過ごしていたのにいつのまにか時間の早さに追い抜かされてしまっている。赤みが引かないのは追い越すことが出来ない証だ。痒くはない。五年前の身体ではないことに季節を追いかけて気付く。触れることが出来ないまま春は夏に変わってしまった。蝉の鳴き声は一瞬で途絶え大火のように燃え上がる紅葉は燃え広がる間もなく白銀に覆いつくされた。痒くはない。少しだけ眠い。
脳内麻薬の分泌を感じるために人体実験を決行した。手首はケロイドのためにふやけてだらしなく幾多もの線が浮き上がっている。弦楽器を演奏するように手首を撫でてみたけれど部屋に響くのはストーブの嚥下する下品な音だけだった。無理もない。僕は楽器など触れたこともないのだから。

十二月二十日
五年前の傷をなぞるようにカッターの刃を滑らせた。ピリピリと痛い。中学校のトイレで初めて手首を切ったことを思い出した。子宮のつくりについて読み上げなければならないなんて普通の精神状態では成せないと思ったからトイレに籠って手首を切った。前の時間に理科の先生が「痛みは脳内麻薬の分泌を促進する働きがある」と言っていたからだった。頭がふわふわしたら教室に戻ろうと思っていたのだけれど、三時間目終了のチャイムが鳴って個室の床が血まみれになっても僕の頭は正常だった。和式便器に溜まる血液を見て、毎月のように股から血を出すらしい(そして僕はそれを教科書でしか知らない)女たちは狂っていると思った。僕は女が嫌いになった。

ペンを置いて麦茶を飲む。喉が乾いてしょうがない。室温22℃の部屋には加湿器がないのだ。一年に一冊日記帳を書き潰しているので左から五冊目の日記帳を捲る、日記を辿ってみると……僕が女嫌いになったのは五年前の七月十三日だった!ということは僕の記念すべきケロイド誕生日でもあるのだ。これは重大な発見だ、日記に付け加えておかねばならない。

アルコールの摂取は赤みを助長する。それに加えてケロイドが笑うように痒くなる。数えきれないほどの口が手首に開くから僕は耳を塞いでいなければならなかった。それも、前後不覚へ陥ればどうということはないから大抵は笑い声を捩じ伏せてアルコールを注ぎ込む。朝は好きだ。舌に歯の跡がつくほどに浮腫んでいる顔が愛しい。笑い声も鳥のさえずりには勝てないようで、ほんの少し赤みが残っていても僕は上機嫌にお気に入りの歌を口ずさみながらパンを焼き目玉焼きを作ることが出来た。食後にドグマチール100mg、リーゼ10mg、パキシル20mg、デパス3mg、デザートには足りないと思う。落ち着いた気持ちで手首を切る。十二月二十一日、脳内麻薬の分泌は未だに確認できない。

都会に長く住みすぎたせいか、私はいつしか虫を嫌悪するようになってしまった。
虫に対する好奇心は無機質なコンクリートに埋まりギラギラとしたネオンを愛すうち虫の美しさを思い出す事もなくなった。蝶や蛾の二つとない羽模様や削れる鱗粉や不規則に羽ばたく可憐さを拒絶するようになって季節は何周も巡り何度目かの春を迎える。網膜に映る褪せた桜色を覗いてしまう人がいなかったのは幸せだったのかもしれない。乾いた瞼の瞬きは桜の散る音に似ていた。
桜色のノイズが走る公園には幾名かの子どもが舞っている。黄色い服に引き寄せられるように重い腰を引っ張り草むらへと向かう。背を向ける黄色い一人の子どもの手には鮮やかな緑が握られていた。もう片方の手が緑を掴むと、意外すぎるほど簡単に足は千切れた。
足を一本なくしたカマキリはバランスを崩しながらすぐにどこかへ隠れてしまった。きっと身体の半分をなくしてもジワジワと活動を続けるのだろう。小さな身体に秘められた生命力の不気味さに私は怖じ気づいたのだろうか。生きるという恐ろしさに私は眼を背けたかったのだろうか。ふと昔の自分を思い出して、にこやかに言う。


「ねえボク、虫は好き?」

「気持ちいいよ」

君は一体何人の男に同じ言葉を吐いてきたのだろうね。そう問うと僕の下に転がっている彼女は二重を滲ませながら 私でもわからない、と唇を歪ませて言う。とうもろこしのように並んだ歯の間からこぼれる喘ぎ声に溶けて生々しい室内温度。実を食べるように彼女の口を塞ぐ。甘いと思ったのは恐らく錯覚だろうけれど。

「一番よかったセックス、教えてよ」

螺子をしめるようにゆっくりと抜き差しすると彼女は眼を開けて僕を見た。ええと、

「高校の、頃かな」

鏡の前でね。身体中縛られて。後ろからされたんだけど。写真に撮られててさァ。あはは。
セックスをするときの彼女の顔は無邪気で愛しい。ほつれるように笑うから追いかけなくてはいけないと思う。他の男を思い出している彼女の顔が愛しい。僕を見ていない、僕を感じていない、僕だけが彼女を享受できる瞬間。生温かい膣内は羊水のように落ち着いてしまう。安堵を求めて奥へ逃げ込むと彼女は妙に顔をしかめた。血。じわり。下腹部に広がる安堵と時間差で届く鉄の香り。

「中で出したい?」

僕の白と彼女の赤が混じり合うとどれほど鮮やかになるのか見てみたかったんだ。水音はいつもより大きく鳴る。ドロドロとして気持ち悪い。僕は、彼女の瞳の奥にいる僕を見つめて果てた。

「私のことを嫌いなあなたがすきだよ」

これ、この言葉、初めて言った。君だけ。

こういう風に感情を爆発させてみたって結局は自分、誰も見ていない、だからかも知れないけど。嫌だし私は幸せだよ、そうやって自分を騙している、のかもしれない。見えないふりをしてきた。何も感じないふりをしてきた。私は私でないふりをしてきた。声を出さないと泣けないのはもう大人だからかもしれない。彼女が聴いていた音楽を聴いて泣いているのは自分が可哀想だから、という理由だけなのかもしれない。私は本当はとても薄情なのかもしれない。アルコールの力を借りたって稚拙な言葉しか私は生み出せなくてきっと両目からこぼれているこれらが感情というもので私は。見たくないものをしっかり見たの。怖くてでも私は笑わなくちゃいけないと思ったから笑っていた。彼女はずっと叫んでいて泣いていて私の名前を呼びながら笑っていて愛していると言った。私はもう大人なのかなあ。泣いちゃいけないのかもしれない。自分に嘘をつかないといけないのかもしれない?自立しなきゃいけないのかもしれない。好きな人から離れて行かなくちゃいけないのかもしれない。それが正解なのかなあ。大人ってきっと哀しい生き物なんだって最近はよく思うの、だってきっとつらい、みんなみんな辛くてでも我慢してるでしょう、私は彼らの笑顔に生かされてきたから。人の優しさに触れて残酷だと思ったの。優しすぎると思ったの。嘘ばかりと触れ合ってきたの。愛情ってなんだろうと思っていたの。私はひどいよ。つらくてつらくて。ずっと自分ばかりをきっとずっと見ていて。傷つけて。世界が私のために哀しむなんて思っても見なかった、それは、でも、今もそうなのかなあわからない、私が死んで哀しむ人はきっといるだろうと思う、だってそうじゃないと哀しいなあ。ね。それでも私は私の苦しみを他人と共有することを苦手としていてそれはただ嫌われるのが怖いからで。昔の恋人に、「お前が19歳になったら読ませたい本があるんだ」って言っていた、原田宗典の本だけれど今日それを見つけて、ああ、彼は私に何を伝えたかった?それだけを知りたい。私が19歳になる前に私は彼から離れた。やっぱり永遠なんてないんだと思った。それでもまだ永遠を信じているから私はとても頭が悪くて哀しいね。ここまででロングのビールを一本開けた。あと二本、お母さんが家に残していった分、彼女はいつ帰ってくるんだろうね、私のせいかもしれないって最近はとてもとても、それでも面倒だなんて思われたくないの。私はずっと元気でいたいのにどうしてかな、どうして泣いているんだろうって不思議だったり。辛い?辛いだなんて感情は他人と共有すべきではないのに音楽も頭に入らない。頬がぱりぱりとする。私がいなければよかったと思ったんだった。あのとき。だから私は死のうと思った。でも死ぬのはとても怖かった。痛かったし哀しかった、私が必要ないものだとあのときはっきりわかった、愛しているという言葉なんか信じてはいけないと思った、人を信用することなんか自分を傷つけることだと同義だと思った、それを信じていたのにまた私はどうしてかなあもう、無理なのかなあ。どうすればいいかなあ。死にたくなかった。だって痛いから。あなたと会えなくなるから。私が消えてしまうなんてとても哀しかった、だから私は自分のことを愛しているんだと思ったよ。階段を降りる、少し怖い。ここ二三日胃が痛い。心臓が痛い。こころ?痛む余裕なんてあるのか。私は自分で思っているよりも繊細だった。ダメだもう。自立なんて遠いよ。私が一人だなんてわかっていたし覚悟もしていたし信用も信頼もしてはいけないと思っていて、でも揺らいで、近づいたり離れたり、もういやだったよ。感情なんかはいらなかったのに。好かれたかったよ。ごめんねって言いたかったよ。酷いことばかりしてごめんねって言いたかったよ。文章にしたって稚拙でもうどうしようもない、ダメなのかもしれないもう。おそらくは全人類が一人なんだよあなたも。なのにどうして孤独を愛せないんだろうってとてもおもしろいね。大人になってしまったのかなあ。大人にならないといけなかったのかなあって。ずっと思う。彼女は。私たちが。難しかったの?いらなかったの?めんどうだったの?そんなはずはないって思って、いるけどやっぱり、泣いていたから、もっと、包み込んであげられればよかったのかな、とかって。ダメだねえもう。感情がうまく規制できなくて。色々な穴からいろいろなものがどっと出ていて
。痛かったり染みたり。弱いなあ。みんなそうではないんだろうと思う。羨ましいなあとかって思ってしまうの。ごめんね。ぼやけた頭でひどい思考で。他人の苦しみを共有したいのに。もう立てないから。頭だけは冴えているよ。好きな人はたくさんいたのに。どちらから嫌いになったんだろうね。笑って良いよ。楽しいから、もう、全てを楽しいとする、ことにしました。無理だわ。うん。みんなありがとうと言う事だけ。素敵な人々に関われてとても幸せだった。みんなみんな愛している。めんどうだと思ったならもうさよならでいいから辛辣な言葉はいらないよ。ケロイドはもういらないんだ。それでも私は君と話したい。ありがとう。

頭上から降ってくる声は苺の匂いがした。甘ったるくて爽やかで、甘いものが嫌いな私は軽い胸焼けを起こしながら突っ伏した机の底から深い溜め息を吐き捨てた。

「だから私と付き合えばよかったのに」
「黙れ。死ね」

甘い言葉には辛辣な言葉がよく似合う。冷えた手が頭を撫でたので溜め息とは対照的なほどに素早い動作でそこから逃げ出した。夕日とカラスの泣き声が満ちている二人きりの教室に金木犀の風が吹き込んでカーテンが緩慢に呼吸をする。夕日は眩しかったし枯れたカラスの声は耳障りだった。金木犀の香りは眉間に皺を刻んだ。文学的には素敵なシチュエーションも実際はそんなもので、だから実用的ではないものを私は常に憎んだ。はずだったのに。

「『ごめん、俺、好きな人いるんだ』だっけ」
「ねえ、お前いつ帰んの」

マジ殺しそう、そう言うと苺の君は不釣り合いな茶髪の三つ編みを揺らしながら私の正面に立ってふわりとした笑顔を作った。ああ、これ。この笑顔が、甘ったるくて、大嫌いなんだ。教室の角に追い込まれ嫌悪の刻まれた眉間を楽しそうに眺めて愛しそうに手を触れようとするから全ての感情を込めて彼女の手を振り払った。左手の甲が赤くなった。

「それで、何だっけ?『でも、君のことが嫌いな訳じゃないから、これからも友達でいよう』だっけ」

目の前の顔に唾を吐きかけたらマシュマロのような肌が汚れてそれでも嬉しそうに苺の香りを振りまきながら、そんなんだから男の子からふられちゃうんだよ、と彼女は小さな口で言った。これほどまでに純粋な憎しみを抱く午後4時57分の夕暮れを私はきっと忘れないだろう。

「お前さ、いつからいたの」
「全部聞いてたよ。あんなに可愛い声、初めて聞いた。不安で不安でたまらないって声。返事を聞いて小さく息を飲んだでしょう、泣いてしまいそうだったの?」

かわいいね。教室に響く声。私の好きな人が苺の香りに惹かれていたのは知っていた。彼の目線の先にはいつもこの女がいた。私が彼に出会う前から私はこの女が嫌いだった。私がこの女を嫌う前からこの女は私を愛していた。

「もういいから。早く帰れ、死ね」
「一人で、泣かせないよ」

半径50cmに侵入するあまいかおり。掴まれた手首は温かかった。頬に触れた手は冷たかった。二人の距離などは既に存在しない。スカートの中に侵入する手を拒む代わりに、私は嗚咽を漏らして彼女の手を濡らす。5時を知らせるチャイムがやけに長く感じた。明日は、卒業式だ。

放物線の計算式などもはや覚えてはいないから体現してしまうのが手っ取り早いと思ったのです。上履きは週末に洗いました。つま先の汚れがなかなか落ちなかったので二時間ほど風呂場に籠っていたら塩素に身体が痺れました。気持ちよかった。教科書126p側頭葉連合野の構造を思い出しました。私の身体をスキャンして断面図にしてジャックしてバラバラにして顕微鏡で観察してください。先生へ。放物線の方程式を教えてください。このフェンスを超えたら、計算上、あそこのコンクリートに頭を打ち付けるでしょう。丸付けをお願いします。ふわり。私は生物の成績が悪いから人間がどうして生きているのかわからないという女子生徒の言葉は最後まで紡がれることなく赤錆びた鈍い水音に潰されて消えました。正解。

ガチャ、パチ、ポチ、ポチ、プルルルル………………「……ああ、俺だけど、うん」

くすんだガラス越しに見える湿った夜は肌に密着するようで不快だ。受話器を持つ手がべたつくのは日本特有の気候のせいかはたまた俺の心理状態のせいか。電気信号に変換された懐かしい声は俺の記憶にあるそれよりも少し慌てていて、数年前よりも皺の増えた母の顔を思い出しながら出した声は自分でも驚くほど優しかった。

二個下の弟が東大に受かった頃俺は大学へも行かずに増え続ける借金から逃げるように家を出た。逃げた先で手を出した女がいわゆる暴力団の頭の女で、その時に左の指を二本無くした。麻薬を売った金で飲み続けたアルコールに身体がイカれたのがつい三ヶ月前の話で、手の震えを抑えるために売るはずの薬を投与した。髪が抜けて物覚えが悪くなった。机の下から手や顔が覗くようになった。瞼の裏に強姦した女の泣き顔が張り付いていた。その女にエイズを宣告された。だからここへ来た。こんなに優しい気持ちになったのは生まれて初めてだった。

「ねえ、今どこにおるの?お父さんもね、裕也も心配してるんよ、はよう帰っといで。帰りづらいのはわかるけど大丈夫だから、みんなおまえの顔が見たいだけなんだよ。いつ帰ってくる?お母さん美味しいご飯作って待ってるから。部屋もそのままにしてあるからね、裕人、裕人、」

俺の家族は今でも変わらず甘くて、そんなんだから他人につけ込まれるんだと怒鳴ってやりたかった。つけ込んだのは主に俺だ。最後に親孝行をしようと思うよ。「俺、今から死ぬね。バイバイ。」

まるで重大な決断を下すようにレバーに手をかけた。ガコン。ツーツーツー。使いかけのテレホンカードはもう必要ない。静寂を切るように鳴り続ける断続的な電子音は刺さったままのテレホンカードに喘がされている。粘つく空気に流されるようにガラス戸を開く。縄を片手に死に場所を探そうとして、背後の物音に気付いた。腐葉土を踏みしめる独特の音。振り向いた先には真っ黒なフードを被り長いナイフを持った男が待っていた。ああ、もう、遅いと思った。



503 :週末都民(名東区) :2007/03/08(木) 02:04:30
樹海をいろんな目的で定期的に出入りしている人達がいる

自殺志願者が死ぬ前に説得しようと思ってうろうろ……
死体やゴミを発見して少しでも早く通報したり片付けたりするためうろうろ……
死にたくても死ぬ勇気がなくてうろうろ……
おもしろ半分や肝試しのためにうろうろ……

あと、もう1種類ちゃんと目的を持ってうろうろしてるのがいるのだが絶対報道はされない。

522 :相場師(小倉) :2007/03/08(木) 02:14:46
»503ぞっとした。

人を殺す目的、だろ?
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