クリスマス・イブに残業なんて、うちの部署は呪われている。総務部の奴らは定時のチャイムと同時に席を立っているのに、企画開発部の人間は俺も含めて、全員がパソコンと向き合ったままだ。

最低でもあと2時間はかかりそうだと諦め半分に察し、私用の携帯でLINEのアプリを立ち上げる。牧さん宛てに一言「お疲れさまです」と入力した後で、「すみません、まだあと2時間ぐらいかかるかも…」と続ける。程なく返信が届き、「お疲れ。俺の事は気にすんな、残業頑張れ」という、いかにも男気のある言葉に思わず口角が上がってしまう。すぐに「終わり次第連絡します」と返し、携帯の画面を伏せた。向かいの席では梶山さんという後輩の女の子が、やはり深々とため息をつきながらウサギの耳のついたiPhoneをいじくっている。梶山さんも彼氏と、俺と同様のやり取りしているであろう事は容易に想像がついた。

「梶山さん、まだだいぶかかりそう?」

タイミングを見計らって声を掛ける。梶山さんは驚いたように顔を上げ、二度三度と瞬きを繰り返したが「そうですね、あと一時間ぐらい…」と重苦しげに吐き出した。何でよりによってイブに残業なの、そんなうんざりした表情がありありと浮かんでいる。

「手伝おうか?」
「えっ?…あ、大丈夫です。これさえ終わっちゃえば…」
「でも、急いでるんでしょ?」
「それは神さんも同じじゃないですか」

今度は俺が驚く番だった。向かいの席だからやり取りの内容までは見えないものの、焦っている様子は何となく把握できたのだろう。しかし梶山さんの頭の中では、あくまで俺が「彼女」と約束があると考えているに違いない。もちろん不要なカミングアウトをする気もないので、「まあね」とだけ肯定しておいた。そして俺は数時間後、ベッドの上で最愛の男に組み敷かれる事が確定している。

「ま、お互い早く帰れるように努力しよっか…」

とにかく今は、目の前の仕事を黙々と片付けるのが得策のようだ。梶山さんが小さく頭を下げたのを機に背筋を正し、ディスプレイに向き直る。少しでも早く帰って、一分でも長く牧さんと聖夜を過ごしたい…我ながらいじらしい発想に、引き結んだ唇から不自然な呼気が漏れ出た。





「神さんすみません、お先に失礼します」

―――ガタン、と椅子を引いて立ち上がる音に思考が途切れる。つい数秒前まで、鬼の形相でキーボードを叩いていた梶山さんだった。今はすっきりと、憑き物が落ちたような眼差しを俺に向けている。「お疲れさま、早く終わって良かったね」と素直に労をねぎらうと、梶山さんの瞼に済まなそうな陰りが滲んだ。

「神さん、まだ終わらないんですか?」
「んー、俺もあと30分ぐらいかな?思ったより早く上がれるかも…」

その答えに偽りはなかった。やはり一度も席を立たず、全身全霊で仕事に打ち込んでいたのが功を奏したらしい。梶山さんはホッとしたように「そうですか」と頬を緩め、「神さん、絶対あと30分以内で帰って下さいね」と微笑んだ。

「うん、ありがとう」
「お疲れさまです」

小走りに更衣室へ向かう彼女を静かに見送る。ここはやはり彼女の期待に応えて、絶対に30分以内で仕事を片付けなければならないだろう。空咳をしながら天井を仰ぎ、引き出しから取り出した目薬を差す。清涼感の強い滴が、乾き切った瞳に染み渡って俺の頭を切り替えた。

「終わった…」

添付ファイル付きのメールを送りつけ、パソコンの電源を落とす。俺が業務をこなしている間にも数人の社員が退社し、フロアにはだいぶ人気が少なくなっていた。挨拶もそこそこに、コートとマフラーを引っ掴んで廊下へ飛び出す。エレベーターに滑り込みながら携帯の画面をタップし、「お待たせしてすみません、今終わりました」とメッセージを打ち込む。

『お疲れ、大変だったな』

ほどなくそんな返事が表示され、俺の疲労はたちまちどこかへ吹き飛んでいく。今ほど「ドラえもんのどこでもドア」を激しく切望した事はなかったが、ただの人間である俺は地道に交通機関を利用する。

「今から帰ります!」

そうこうしているうちに一階に到着したので、急いで一言だけを打ち終えた携帯をそのまま握り込んだ。
ロビーの真ん中に鎮座する、華やかに飾りつけられたクリスマスツリーの脇を走り抜けて外へ出る。冴え冴えとした夜気が頬に触れ、背筋をぶるりと震わせると共に首に巻いたマフラーを顎先まで引き上げた。今なら、現役時代に死ぬほど練習させられたダッシュで信長より速く走れるかも知れない。それぐらいの勢いで、地下道への階段を駆け下りる。しかし今日がクリスマス・イブというだけで、こんなにも人が溢れかえってしまうものだろうか。かく言う俺も、クリスマスの夜を楽しもうという仲間の一人には違いなかった。

どうにか京王線のホームにたどり着き、ようやく安堵の息を漏らしながら携帯の画面に目を落とす。通常通り定時で帰ったらしい牧さんからの、「駅まで迎えに行く」という申し出が読み取れた。あと三分後に各停の橋本行きが来る事を電光掲示板で確かめ、「14分発の橋本行きに乗ります」と打ち返す。

実は今日は、「どこかで飯食ってホテル泊まるか」という数ヶ月ほど前の牧さんの提案を断り、家で静かにクリスマスを迎えたいと俺の方から希望していたのだった。その理由とは―――。





『今から帰ります!』

画面に映し出された、非常に端的な一言に目を細める。クリスマスムード溢れる街を疾走してくる神を思い浮かべ、自然と唇が緩んでしまうのを抑えられない。誰にともなく空咳をし、つけていたテレビを消して立ち上がる。手早くコートを羽織り、テーブルに放り出していたキーケースを掴んで玄関へと向かった。

神から残業で遅くなると連絡があった時、普通に定時で上がっていた俺はあと二駅ほどで最寄り駅に到着するという状況だった。とりあえず「お疲れ。俺の事は気にすんな、残業頑張れ」と返事を打ち、窓の外を眺める。今日みたいに、クリスマスイブの夜を自宅で過ごすというのは何年ぶりだろうか。下手したら十何年ぶりとか、そういうレベルの話かも知れない。

「今年のクリスマスなんですけど」

まだ残暑厳しい9月、クリスマスイブの宿はセルリアンタワーかウェスティンか、それとも思い切って帝国ホテルにでもするか―――といった事をリビングのソファーでつらつら考えていた時だった。不意に手元が暗くなって目線を上向けると、俺の前に立ち尽くした神が如何にも呆れたような、「またろくでもない事考えてるな…」と言わんばかりの顔つきで俺を見下ろしている。

「何だ?」

手元のiPadにはホテルのクリスマスプランが映し出されており、俺が片っ端から検索していたのを背後から確認したのだろう。ちょうどいい、今お前の意見を…そう尋ねようと口を開きかけた所で、純度の高い神の視線に射抜かれる。

「牧さんさえ良ければなんですけど、ここで…家で過ごしませんか。どっか泊まったりしないで」
「家?」

軽く思考が停止する。これまでクリスマスと言えば、たいてい自宅以外に泊まり続けていた俺には新鮮な提案だった。俺が無言で先を促すと、神は頬を赤く染め、実に言いにくそうに唇をすぼめてみせる。

「だって、俺…見られたくないから」
「何を?」
「牧さんを。他の誰にも」
「……っ」

一瞬、息が吸い込まれる。何だこいつ、今すっげー可愛い事言いやがった―――そんな感情がたちまち駆け上がってきて俺の胸でスパークする。俺は他人の目など気にした事はないから、誰がどんな風に俺たちを見ていようが関係ないと思っていた。だが、神はそうではないらしいという事がとにかく目から鱗だった。神が俺を誰にも見られたくないと感じている、それがどれほどの優越感に値するだろうか。

「…もう、そんなニヤけないで下さいよ」
「何で?俺、今めっちゃくちゃ嬉しいんだけど」
「で、どうなんですか牧さん的には、今年のクリスマスは」

むろん、そういう理由であれば俺の方では異存はない。俺は無言で手招きし、何の疑いもなく上体を屈めてきた神を力を込めて引き寄せた。

「わっ…!ちょっ、牧さん!」
「好きだ、神。すげえ好き」
「急に何言って…」

俺の腕の中でバランスを崩し、身をよじらせている神を思うさま締め付ける。耳まで赤く染まった神が小さく息を繰り出したかと思ったら、途端に大人しくなって俺の肩口に額を擦り付けてきた。俺の方でスイッチが入ると、簡単には腕から抜け出せない事を身に染みて理解しているらしい。もっとも俺も、抱き締めた細身の体を解放する気は毛頭ないというやつだった。

「あー、もう何だろ。すげえ幸せ…」

そんなセリフが、自然と口をついて出る。改めて、神が好きだという事実に気づけて良かったと安堵した次第だった。神はよく「抱き心地悪いでしょ、女じゃないから」などと恐縮気味に言うけれど、そんな事は俺にとって全くどうでもいい事だ。ずっと欠けていたパーツが、隙間なくぴたりと嵌まる瞬間にたまらなく俺は酔い痴れた。

「…俺、ローストチキンとシーザーサラダ作りますから。さすがにケーキまでは無理だけど」

頭をもたげ、俺の様子を窺っていた神がおもむろに唇を開く。密やかな返事を囁いた後、俺の肩甲骨に這わせた指をぐっと内側に折り曲げるのだった。

―――足早に部屋を出てエレベーターに飛び乗り、地下の駐車場に降り立つ。あと15分かそこらで、残業上がりの神に出会えるだろう。お帰り、お疲れ、大変だったな…いたわりの言葉がおのずと脳裏に思い浮かぶ。その次はやはり「メリー・クリスマス」と言うべきか、それはまだ後のお楽しみに取って置くべきか。まあ後者だろうなと納得し、手の内に握り込んだ鍵で車のロックを解除した。