その昔、京で随一の美しさと詠われた
「吉野太夫」の伝説をご紹介します。








京都の花街、島原の前身にあたる六条三筋町に実在したとされ、江戸時代から現代まで歌舞伎や文学にも度々登場する、遊郭での最高位「太夫」と名乗る事を許された女性。






その美貌は遠く明国の皇帝にまで知れ渡り、
和歌、連歌、琴の演奏や茶道、華道、香道、
書道、双六、囲碁などあらゆる事に秀でた才女でもありました。





ある時、太夫たちが豪華絢爛に着飾って美しさを競う会での事。寝坊して寝間着のまま急いで現れた吉野太夫でしたが、化粧もしない無防備なその美しさに、皆が水を打ったように静まり返ったそうです。





また人柄も慎ましやかで慈悲深く「亡き跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、悪しきと申すべきところなし。」と悪く言う人がいなかったと記されています。






多くの大名や公家たちも彼女の馴染み客でしたが、やがて豪商・灰屋紹益に見初められ退廓。



当時、吉野太夫は26歳、紹益は22歳でした。
周囲の大反対を押し切って一緒になった二人は、太夫が38歳の若さで亡くなるまで仲睦まじく暮らしたとされています。





吉野太夫は遊郭に居たころから信仰心にも厚く、北区鷹峯にある常照寺に私財を投じて門を寄進しています。朱色に塗られた「吉野門」は参道に植えられた桜が咲く季節が一番美しく映え、
毎年4月の第二日曜日には太夫を偲んで「花供養」が行われます。同じく鷹ケ峰にある原光庵から吉野門までの参道には現存する島原太夫の一行がゆっくりと練り歩く道中を一目見ようと、毎年多くの見物客がつめかけます。






吉野太夫が亡くなった時、灰屋紹益は悲しみのあまり「都をば 花なき里になしにけり 吉野は死出の 山にうつして」という歌を詠み、太夫の遺灰をすべて飲み干してしまったそうです。



吉野と過ごした時間は人生の春のようだったと嘆く歌に、紹益の深い愛情を感じます。二人はこの世に無くなった今でも、きっと一緒に京都の桜を眺めているのではないでしょうか。