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春にアオカン

そろそろ桜の季節ですね、なんていうとロマンティックだから、アオカンできる季節になりましたとでも言ったほうが良いかな?(まったく関係ないけど、小学生のころ立川記念公園でお花見してたら茂みの中でアオカンしてるカップルがいて、覗いたわけではないけど覗いた格好になってしまってなぜか怒られた経験がある)
ぼくの実家の部屋からは道なりに植わった桜並木が見える。引きこもっていたころは日がな一日中、冷酒をやりながら花見をしたものだった。千葉に来てからは花見をすることもなくなった。この街にとって桜は遠くに見に行くもので、身近なものではないらしい。都市計画がアホなのか住人に美意識がないのかしらないが、とにかく街路樹が存在せず、天に向かって高く生えているものといえば電柱と小汚いビルしかない。
電柱や電線の無機質な感じは好きだったりする。「庵野みたいだ」と某氏に笑われたけど、好きなものは仕方ない。人間を主題にして詩をかけないぶん、身近な風景に感情移入をする。ここではまだ詩を書いていない、とさいきん気付いた。歩けどもなにもない街だからと諦念しているからかもしれない。それとも季節や風景に思いを馳せる余裕がなくなったせいなのか。ただ、季節や街の匂いがわからない今のおれは歯がゆい、と感じる。
「日々を無為に消化してる」と誰かが話した。身の周りの些細なことにさえ気付かぬようになるくらい、感覚に無頓着になってしまったのだとしたら、おれはおれでなくても良いのだとおもう。桜の花の色に目をうばわれたり、雨上がりのアスファルトの匂いになつかしさを感じられないおれになったら、生きている意味などなかば以上ないのだ、と。おれが、働くということを果てしなく下位に位置付けているのもそういうことにつながっているのかもしれない。
この街からの引越しは考えていないけど、とりあえず電柱によじ登って灰を降らせてから考えるかな

東京・ハルマゲドン

元オウム麻原代表が逮捕されたとき、ちょうど京都で修学旅行中だった。観光バスから見えた何台ものパトカーは教団支部の家宅捜索なのだと、俺たちは騒いだ。
修学旅行の最終日、チェリーボーイたちは(俺は保育園で卒業済)東京行きの新幹線でおかしな興奮の渦にあった。数ヶ月前のサリン事件が記憶に新しかったし、それよりも、おれらすげえもん見ちゃったんじゃね?みたいな、時代のさなかにいる稚拙な喜びもあったと思う。
「もう撒かれないんだな、サリンは」
俺と気のあったM君はこんなことをつぶやいた。たぶん、俺もそう思った。
あのころ、ブラウン管から流れるベルリンの壁崩壊、ソ連解体、湾岸戦争の生中継…ただ事でない熱狂を子供ながらに覚えている。日本では天皇崩御やバブル崩壊、北朝鮮からノドン1号の試射…枚挙に暇がないほどの(俺たちにとって)熱いニュースが報道されていた。
阪神・淡路大震災と直後の地下鉄サリン事件が起こった95年前半は日本終了のEDテーマが流れていたように感じた。俺と前述したM君は、関西の次は関東大震災だね、なんてハルマゲドンを夢想していた。(注:説明するのも面倒だから書かないけど、不謹慎とか言わないでNE!)
だから俺は、「もう撒かれないんだね」というM君の気持ちが痛いほどわかったし、麻原が惨めに逮捕されたことを東京で知ったときは、なんとなく祭りの空気が引いたような感じがして寂しくなった。きっと俺たちの頭上にハルマゲドンは降ってこないと、現実はぬるく厳しい生なんだと、なんとなく醒めさせられた。
まさに「終わりなき日常」(by宮D)を生きることになった俺とM君はそれから受験勉強に励み、翌年には離れ離れになってしまった。卒業以来M君と会うことはなくなってしまったが、あのころのことを覚えているだろうか。最近ふと思う。俺は高校に上がってからノストラダムスに祈るようになったが、M君はJKとちゅっちゅして忘れちゃっただろうな。
90年代を語る言葉はたくさんあったし、今となっては嫌になるほど語りつくされた。
「東京・ハルマゲドン」は、俺があの時代を語ることのできる数少ない言葉だった。つまらない日常(古臭いね)が嫌だったし、それを面白く変えるほとやる気がなかった。観念的に生きようとしていたのは今も同じで、まあ、俺はなかなか変わらない。

あのとき、落ちなかったハルマゲドンは、きっと望まぬ誰かの頭上で炸裂して、俺の元にはやってこなかった。気まぐれなハルマゲドンは気まぐれな誰かの指先からはじまることを知っているし、たぶん、俺はまだハルマゲドンを待っている愚かな俺のままなのだ。
来たれ、東京・ハルマゲドン。俺の、俺だけの頭上で爆裂してみせろ

なんとなく性格診断

www.egogram-f.jp

>貴方に向いていそうな職業は、落語家、漫才師、コメディアン、漫画家、エロ文学作家などに代表される、軟派の芸能、芸術、文芸家とか、

エロ文学作家て。エロをつけなきゃならんのかね、エロを。
ここまで書かれるとはおもわなかったよ。
記念に残しときます

立川駅

立川駅はいいヤツだった。
99年にモノレールが開通して、駅前開発が始まった。
何年か経って駅に降りたら知らない街になった。
立川駅は他人になった。
9時半開店のゲーセンとか安い飲み屋とか酒焼けしたおっさんとか電信柱下のゲロとかがさっぱりなくなった。
綺麗になった。
こざっぱりした、いけ好かないヤツラの街になった。
立川場外馬券場まわりのモツ煮のにおいがしなくなった。
ガソリンみたいな焼酎を飲んだくれたおいちゃんは消えた。
ハズレ馬券を集めてた爺は死んだのだろうか。
南口で、拾ったジャンプ売ってた乞食は死んだのかもしれない。
学生のころ、おれたちが昼飯削ったカネで遊んだゲーセンはさら地になってた。
7枚交換のパチスロ屋もなくなった。
駅前にたまってたスペクターも立ちんぼしてた女子高生も酔っ払いを小突いてたおまわりさんもさっぱり消えた。

眺めてたおれも消えた。
たぶん、みんな、死んだんだな。
死んで、いなくなって、違うヤツラの街になったんだな。
二度といかねーよクソッタレ

中央線

夕方5時過ぎ、上りの中央線には語りつくせないほど思い出があったりする。日野駅を過ぎて多摩川にかかると夕日にあてられて車内が真っ赤になる。薄汚れたサラリーマンも地べたに腰を下ろした女子高生も一枚の絵になって、ブレザーのおれたちはいつも無言になった。八王子の山の向こうに陽が落ちる光、刺すような赤、まぶたの裏に焼きつくオレンジ。話し声もウォークマンから漏れる雑音も、鉄橋に揺れる−ガタンゴトンガタンゴトン−線路がカーブするたびに影が躍る。
たびたび人が死んだ。
八王子−三鷹間は線路がほぼ直線で、スピードも出るため飛び込み自殺はしょっちゅうだった。人は朝より夕方に死んだ。月に一度は本格的に車両が止まって何時間も動かなかった。死体は何度か見かけた。乗っていた列車が人を轢いたこともあった。ホームまで飛んだ腕をみたことがある。なんとなくうそ臭い光景だった。
有名なオレンジ色の中央線は201系というらしい。今は銀色の233系なんだってね。新宿から出ていた青い中央線はもう廃車になったかもしれない。三鷹−立川間の高架工事もあってあの日みたいな落陽はもう見れないのだろうか。

あの日、きたないベッドタウンをはしる、仕方ないおれたちを運ぶ、たまに人を殺す中央線が好きだった
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