▼弟の思うところ BELOVEDの後とLEANONの後に入りそうな回想




鳴かない小鳥などいない。
涙などなくとも、きっとお前は泣いていたのだろう。



「友成」
「ああ、大包平。そちらは終わったか」
「…………、…………お前」
とある地方大学近くの学生街。
少し汗ばむような春の陽気の中、姉の引っ越しを手伝いに来ていた大包平は、自分の持ち場をすっかり片づけてしまったタイミングで、姉の様子をうかがう。声も態度もでかいのが玉に瑕ではあるが、実はこういう細々とした作業こそが彼の真骨頂であったりする。使いやすさを考慮してお手本のように片づけられた台所を満足げに眺めてから、いざやと姉の方へと目をやれば、そこには信じがたい光景が広がっていた。
おかしい、作業を開始した時から、様子が寸分もたがわないように見えるのは、果たして疲労がみせている幻覚なのだろうか。大包平が言葉を失っていると、たぶん荷物にはなかった、誰かからの引き出物だろう小さなサボテンの鉢植えを持った友成が気の抜けた声を漏らした。
「不思議だなあ。開けても開けてもちっとも片付かんのだ」
「ひとつの箱を空にしてから次を開けろ!ああ、もう、一体なんのためにダンボールに品目が書いてあると……!」
この姉に任せていては日が暮れる。
そう思った大包平は、特大の溜息を吐き出したのち、残りの荷物も引き受けてしまうことにする。
「片付けはもういい。茶でも淹れていろ」
「拝命した。お前は昔から、こういうの得意だよな」
「お前が下手過ぎるんだ。まったく、皆がこぞって甘やかすからこうなる」
憤慨しながら、友成が散らかすだけ散らかした荷物を片づけていく弟の背中を見て、こらえきれずに笑ってしまうと、しっかり聞こえていたのか「茶!」と怒号が飛んでくる。
これ以上機嫌を損ねてはたまらないと、はいはいと生返事をしながら友成は今しがた弟が美しく片づけてくれた台所へと立った。
茶を淹れてからは弟の邪魔にならぬよう、湯呑片手にベランダに出た。世間知らずな姉のために大包平が探してきた数多の物件の中で、彼女が選んだのはどうしてか、呆れるほどの九十九折りの坂の果てに立つ特別新しくもないアパートだ。二階建てのそれはオートロックなんてしゃれたものもなく、いろいろな意味で用心するに越したことはない友成が住むには聊か以上に不安が残るものだったが、この九十九折こそを防犯の一環と考えて提示した最低ラインの家だった。こうと決めたら意外と何も聞き入れない姉の性質をよく理解していた大包平はその場でこそ何も言わなかったが、時効だろう。
「どうして、ここにしたんだ」
「ん?」
家の中から、ダンボーからガムテープをはがす音に交じって、大包平が友成にそう尋ねた。
「家賃を考えても、交通を考慮すれば平地でもここくらいの家はあったろう。ここの何がそんなにいいんだ」
職場からも、繁華街からも外れているし、なにより自転車も受け付けないような坂ばかりだし。
「そうだなあ、」
友成は、ベランダからの景色に目をやった。このあたりの市街地では一等高い場所に位置する此処は、家からでもこの町を一望できる。見える空は高く、邪魔するものも何もない。今日は天気がいいからか、町一つ越えた先の海まで見える。九十九を駆けあがってきた風は、さあっと吹き抜け、花と緑のにおいをはこぶ。愈々春めくそれを感じた友成は緩く微笑みながら、答えた。
「やっと手に入れた気がしたから、かな」
「……髭切ではないが、姉上の言は簡素過ぎていっそ難解だ」
「そんなことはない。足りないときには足りないというし、満ちているときにはそういう。ああ、尤も……」
そういう気持ちも、ここに来てから、よくわかるようになったんだ。そう言って笑う姉の笑顔は、屋敷にいた頃と何も変わらないのに、なぜだか大包平は今の彼女のほうこそが、本当の姉なのだと、確証のない確信を得ていた。彼女が望み、誰もが願った彼女の自由。それを象徴するかのように開けたこの家が、彼女の住処となることへの疑問は、今では大包平には世紀の愚問に思えたのだった。



「鶯」
「……」
「妹を入れてもいい?」
件の出来事のあと、安達の屋敷に匿われていた初めの頃、姉は正しく籠の鳥だった。
姉が自由を手に入れ、檻から出ていくのうらやましがった女狐が立てた爪傷は、鳥の風切羽を著しく損なった。日がな一日寝床で過ごし、ともすればそれこそ羨望のまなざしで庭ばかり見ていた顔が、大包平がそのころの友成の記憶として覚えているものの大半だった。聴覚に異常はないし、言葉を発せないわけではないが、今はまだ会話とは程遠い。現に今、部屋をおとなった髭切の言葉に、反応こそ示せど応えはしない。姉にかわり、傍に控えていた大包平が、髭切へいらえを返した。
「構わない。入れ」
俺の声に許しを得て、獅子と蛇の姉妹が這入ってくる。
姉の方は、能面のような友成の様子を気にした風もなく、返事を待たずに話しかけたり土産のかんざしを適当に頭に挿したりしている。大包平は大包平で、増えた人数分の茶を用意していると、不意に聞こえる音がある。
「ひざまる、」
「っ、」
呼ばれた蛇は、入室こそしたものの引き戸の障子のそばで石像のように固まっていた身を跳ねさせた。彼女も例の一件で片目を失っており、包帯を巻いたままの顔は痛々しい。それが助長するように、彼女は友成に向ける目線にはこの世の負の感情を全て載せたような色がある。最も強いのは怯えで、とても蛇が小鳥に向ける視線には思えない。
友成は返事が聞こえないのが不思議だったのか、もう一度、はっきりと、膝丸を呼んだ。
「……はい、」
ほとんど空気のような声で、膝丸が返事をした。友成はそれを聞いて、嬉しそうに頸をかしげる。
「おいで」
声には剣も棘もない。身振りすらないそれは、けれども何よりも強い強制力をもって膝丸の身体に呪いのように染み渡る。近づくのが恐ろしくて、恐れ多いのに。逆らうことなど万に一つも赦されない。友成の傍にいた姉がそこを退くのがわかった。膝丸は意を決して、歩む。近くまで来ると、もう自分が呼吸をしているのかどうかも定かではない。顔を見ることなどできないのに、落とした視線の先にはおびただしい注射の跡と鬱血が蔓延る病的なほどに白く細い腕が目に入って、とうとう蛇の片目からは涙が溢れた。
その腕が持ち上がったと思うと、わずかに震えながら、膝丸の頬に触れた。
「痛かったろう。髭切は酷いことをするなあ」
それは昔、髭切にいたずらされて、それがもとで怪我をした幼い膝丸に彼女が言った言葉と全く同じ言葉だった。この屋敷で、三姉妹同然に育ったあの頃。昔日の想いが胸をかすめた瞬間、膝丸は友成のかたわらに崩れ落ちた。額を布団にこすりつける勢いで、頭を下げる。とても上げることなど出来ない。
「すまない、」
「膝丸、泣くな。傷にしみるだろう」
「平気だ、俺の傷など、貴女に比べたら……」
「ああいけない、ほら、」
「ーーーああ……ああ…………ッ!」
もう片方の腕も持ち上げられ、膝丸はゆっくり友成の胸に招かれる。優しく抱きしめられると、これまで耐えていたものがすべて足元から崩れ去って、ついでに涙腺がばかになって、膝丸は咆哮を上げて友成の胸に縋りついた。
「俺の力が及ばずに、お前にはつらい思いをさせた。お前だけではない、髭切にも、大包平にも……」
そしてあいつにも。
「もう、誰も傷つかないと思ったんだがなあ」
それでお前がそんなにも傷つき、奪われる必要がどこにあったんだ。それはこの場にいた3人すべての胸に飛来した思いでもあった。しかし誰もそれを口にすることはなく、嗚咽と謝罪を只管繰り返す膝丸の髪を、友成はずっと幽かな笑みのまま、ゆっくりゆっくり撫で続けていた。
弟にはその笑顔が、痛い、痛いと泣いているように見えた。


「何を考えているのだ?」
「……いや、別に何も」
東京の夜は明るい。岡山の山奥や群馬の辺境と違い、明るすぎて星が見えない。今やこの国を手中に収む姉はそれを無粋というだろうか。いやーーーあの鳥は、鳥のくせにもう空を見ていないのだったと、大包平は隣の妻に気付かれぬ程度に短く息を付き、問いには応えなかった。
「三日月、明日は」
「明日は北の竜と晩餐よ。あの女は良いなあ、友成と並ぶと頗る絵になる。せぎすの鶴ややかましいばかりの獅子などよりよほど良い……」
微睡み始めているらしい女の前髪をさらりと払って、その額に軽く口づけを落とす。
「姉上も都内だろう。来ないのか」
「先ほどまでいた。お前と入れ違いで帰って行った……朝には九州だと言っていたぞ」
「そうか、」
丁度、その蛇のことを思い出していたのだが、偶然だろう。
外様に配されたとはいえ、手から外すつもりはないということだろう。我が姉は、次は何もなくさないと言っていた。罪ごと抱え上げると言えば聞こえはいいが、それは罪人は罪人のまま、その業をいつまでも手放せないということになる。友成の傲慢は生来のものだ。あれは他者にはちっとも理解できない。他者はおろか、血を分けた弟である自分にさえも。
「忙しくなるな」
「ああ。だからもう寝よう」
電気を消すぞ、そう言って半身を起こした三日月のむき出しの鎖骨には、古備前の紋が刻まれ、さらにその上には真新しい噛み傷がある。姉が来て、何をしていったか。一目瞭然だった。
大包平は何もみなかったふりをして、明かりが落ちると同時に、三日月に背を向けて目を閉じた。



▼飛べぬ狐も泣けぬ小鳥も、等しく憐れには違いない