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HAPPY HIPPIE

鶴鶯 鶯♀が発作起こしてるだけ





夜中に胃の中を全てぶちまけて目が覚めた。

身体は上を下への大わらわだが、頭の隅では妙に冷静で、ああまたかと感慨に似た何かが湧く。自分の中には壊れた部分があって、それが時たまヒビを大きくして、生きるための本能まで侵食する。今回は呼吸を忘れた。そして目が覚めて、驚いた身体はひきつけを起こした。そんなところだろう。
半分転げ落ちるようにベッドから抜け出て、回る視界で薬を探す。呼吸をしようと開いた口から泡だった液体が溢れ出した。本格的に危険を感じる。嫌な夢でも見たのだろうか、覚えていないが。ローテーブルに見えた薬瓶をひっくり返して、散らばった錠剤を手当たり次第に掻き集めて口に放り込む。水などない。貪り食うように腹に押し込めても次から次から泡が込み上げてちっとも飲み込めている気がしない。視界が明るい。というより白い。まだ夜ではなかったか?
あ、だめだ、もう保たん。
「ああ、鶯や」
ーーーうん、うん、聞こえている。俺は今でも、いつでも、お前に返事をする気でいるんだがなぁ。


「おはよ」
「……おはよう鶴。ここは?」
「びょおいん」
覚醒した鶯の目に飛び込んできたのは、どこもかしこも真っ白な味気のない部屋。そしてそこにいる自分、横たわったベッドのそばには、これまた真っ白な少女。椅子にさかしまに腰掛けて背もたれに顎を載せている。凝った意匠が頭のてっぺんからつま先まで施された、可愛らしいドレス姿で下品に開脚している姿さえ様になっているのだから驚きだ。鶯が起き上がろうとすると、体中を縛り付けているものに阻まれる。五体拘束を施されている身体では身動ぎもままならない。国永は、抗議の色を載せた鶯の視線をひらりと掌で払うそぶりを見せると、ナースコールで鶯の覚醒を伝えた。
発作で意識がオチたのは夜だと記憶していたが、カーテン越しでもわかる外の様相は、今も夜だった。しかし、身体の状態から考えても短時間のうちに回復したとは考えにくい。俺はどれくらい眠っていた?という鶯の問いに、国永は指を4本立てて見せた。4日。長い。保険が下りる。
「完全別棟で主任は俺のセンセイ。守秘義務バッチリ。ちなみに支払いは俺持ち」
「……すまなかったな。借りは追って、」
「金なんか要らん、……」
起きないかと思った。
ベッドに乗り上げた国永は、そのまま鶯の身体に覆いかぶさる。心音を聴くように、長い白い髪を絹糸のように散らばせて形のいい頭を鶯の胸に寄せる。しばらくすると鼻をすするような音が聞こえてきた。位置的に顔はうかがえない。もどかしかった。鶯はそんな国永を抱きしめてやりたいと思うのに、やはり無粋な拘束がそれを阻んで、寸分もかなわないのであった。



その電話が鳴ったのは、日付が変わって少ししたころだった。
国永はいつも通り、特に何の達成感もなく一日を無為に過ごしたあと、家に帰って速攻転寝をかまして、今しがた目を覚ましたところだった。こんな時間では、いくら身体や意識が食事や入浴を求めても、もう本能がうんともすんとも言わない。全部明日でいいか。とりあえずそれらの代わりと言わんばかりに手元の煙草に火をつけて、有害物質で肺を満たす。国永の携帯が悲鳴を上げたのは、そんな折であった。
現代っ子の例にもれず、基本的に国永の電話はならない。鳴らすとしても所定の相手かセールスか詐欺かと言ったところで、ディスプレイを見れば今回はそのうちの一番初めだとすぐに知れた。
「めずらし」
表示された名前はこの世で一番愛しい女の名前だ。睡眠にのみ向かっていた国永の意識が少しだけ冴える。
「よーす、どした?さびしくなったかぁ?」
自覚できるほど脂下がった声で応対する。つけたばかりの煙草を灰皿に押し付けて殺す。けれども待てど暮らせど、携帯が吐き出すのは耳ざわりな雑音ばかりだ。
「……おい?鶯?」
そこで異変に気付いた。ノイズだと思っていた音の正体は、向こうからひっきりなしに聞こえる音だ。何かが落ちたり、壊れたりするような。ついで聞こえる、泣き声と、悲鳴交じりの呼吸
と、派手に嘔吐く声、液体がこぼれおちる音。鶴、鶴、つる。苦しげな声が終わらない嘔吐の合間で自分の名前を呼んでいる。いつもの嫋やかで落ち着いた音とは似ても似つかないひっくり返った声で、それでも必死に、すがるように。彼女をそんな状態にしてしまう原因に、賢明なことに国永は直ぐに思い当たることができた。発作だ。
「くるしい」
「おい鶯、ああ、」
「つる、たすけ」
「まて、ああ助ける、助けるから」
「うええぇっ………」
そこでまた鶯がひどく嘔吐いた。倒れ込みでもしたのだろうか、一等大きな破壊音が聞こえる。国永は努めて冷静に、おそらく意識など蜘蛛の糸よりも細いであろう鶯に呼びかけ続ける。
「すぐに、すぐに行くからな。ああ、そう、俺が行くから、だから、鶯、鶯?おい、おい!」
上着を雑に羽織り、裸足のままローファーをつっかけて外に出る。鶯の家に走りながら、意識は片時もそらさず携帯の向こうに向けていた。だから、しっかりと聞こえた。
なんだ、むねちか。
それきり無音になった通話を切ると、国永は119をコールした。


散歩はしたいがまだ絶対安静、という医者と鶯の間にとられた手段は車いすだった。しかも今から外に出るという。頭痛が酷くなったような顔の主治医に許可をもらい、点滴つきの鶯をそれに座らせ、ひざ掛けをかける。その時鶯の左手が目に入ったが、包帯でぐるぐる巻きにされていた。眉をひそめた国永に、何故か鶯の方がこう尋ねた。
「感覚がないんだ。怪我してるんだろうな」
「きみんちに刃物の類はないはずだろ?むしろどうやってこんな怪我すんだ」
「そうだな?俺も不思議だ、酷くひっかきでもしたかな」
まあ、細かいことは気にするな。からりと笑った鶯に、国永もあいまいに笑い返して、車いすを押し始めた。
「さて、鶯。どこ行くんだ」
「今日は少し寒いなあ。もう春だというのに」
「そういや、早咲きのさくらはもうぼちぼち咲き始めていたな。ここの中庭とか」
「なら、それが見たい」
「了解」
キイキイと音のなるだけの静かな散歩道。夜半の時間、病院という場所柄外出もない。鶯への対応が破格なだけだ。夜の病院というと灯り少なに不気味な印象だが、ここは街灯もたくさんあって、無粋なほど明るい。案の定中庭までたどり着くと、無機質なLEDに照らされた咲き始めの夜桜が二人を出迎えた。闇に溶ける白色。風にあおられちらちらと散る花びらは正しく雨のようで、彼らは折り目正しく鶯の膝へと舞い落ちる。
「今年も、春が来たな」
「そうだな。まだ寒いけど」
「……鶴」
「ん?」
ぎゅってしてくれ。
桜に目をやったまま、鶯はそう、希う。国永は言われるまま、後ろから身を乗り出して、車いすの鶯を抱きしめた。前で交差した国永の腕に、鶯の吐息が触れる。そして、かさついた指先も。
「生きるって、難しいなあ」
国永は鶯の言葉には応えず、鶯がもういいというまで、その痩身を包み続けた。


処置室の外のソファで待っていた国永へ、鶯の応急処置が終わったらしい主治医が近づいてきた。顔見知りの彼は、出奔しても五条の娘である国永には首を垂れる勢いで深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。胃洗浄の途中で目を覚まされたので、酷く苦しませてしまいました」
「聞こえてたよ。人間の声かあれが、ってなあ」
彼女は朦朧とする意識の中で手あたりしだいに家に会った薬をかき込んでいたため、軽いODに陥っていた。国永が家にたどり着いたときには失禁までしていてすでに意識がなく、かろうじて呼吸はある状態で救急隊に運びだされた。胃の中の薬を出すために胃洗浄を執り行うことになったが、幸か不幸か、内臓を引っ掻き回されているときに意識を取り戻してしまったのである。
ああー鶯さん、起きちゃいましたねー。もうちょっとかかりますよー。我慢しないで吐いてくださいー。という場慣れし切った看護師たちの声の合間に挟まる、鶯の絶叫と断末魔。初めの内こそ耳をふさいでいたものの、しばらくすると慣れてきて、不謹慎だとは分かっているが興奮したのも事実だ。口にはしないが。
「容体は?」
「安定しています。発作自体はいつものものと変わりません。難儀ですね、彼女も……」
「まあ、クスリブチこまれてこれくらいで済んでんだ。まだマシなほうじゃないか」
どうせ入院になるだろう。国永は彼に自分もしばらくここにいる旨を伝え、くれぐれも三条には伝えおくなとくぎを刺す。ポケットから出した小切手は紙飛行機にしてとばしてやった。それをあわてて受け取った彼は、そうだ、と、彼もまた小さな袋を国永に差し出した。
「なんだこれ、……鍵?」
「はい。胃洗浄した際、彼女の胃から検出されたものです。誤飲でしょうか……」
「いくら朦朧としてたからって、鍵、食うか……?」
まあいいわ預かっとく。国永がそれをポケットに収めたタイミングで、奥の部屋からストレッチャーに載せられた鶯が運ばれてきた。身体は拘束され、汗と唾液と吐瀉物のせいで饐えた匂いを纏っているのに、そんな寝姿も国永にはひどく美しくしか映らない。顔を覗き込む国永に、台を押す看護師たちは止まる。
「なあ、キスしたらだめなのか」
「ダメですよ」


▼そのドアには取っ手がない
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GHOST

一鶯



愛して欲しいわけじゃなくて、世界中で私にだけ優しくして。

開架に返却する本を積んだワゴンの中に、書架の本が混ざっていた。帰る前に確認して、なんとなく違和感があったものを取り上げたらドンピシャだったので、すごいですね〜とかけられる声に謙遜を返して、鶯は書架へ向かったのだ。祭日前だしと、他のスタッフを先に返した上で。
閉館時間も過ぎた無人の図書館は不気味なようで、その実落ち着ける場所でもあった。人のいる静寂と、そうでない静寂。どちらが真なるものかはともかく、鶯は自分だけが手に入れられ得るこの場所が気に入っていた。
自分の縄張り。自分の空気。全てが鶯の機嫌と手腕に委ねられていたあの場所。屋敷の中では当たり前であったことが、手放した今思い出される。捨てるべきではなかったものも確かにあるに違いないのだが、鶯は鳥だ。立つ鳥は跡を濁さないし、転じて後悔もしない。
今の暮らしは、求めていたものの一部だ。満足している。楽しいし。たとえば、大人になったのに、なんだか胸躍る悪いこともできる。こんなふうに、居てはいけない場所に居たり。
鼻歌交じりに背表紙の番地にたどり着き、ラベルをもう一度見る。お前の隣人はどこだ?番地の端からラベルをなぞってゆく。
「……ゲーテ、の、第……、ーーッ」
瞬間、鶯は勢いよく振り返った。
これが鶴や獅子なら違っていたろう。彼女らは己に害なすものの気配は感じるより早く元の命を断つ。鶯はそうではなかった。自身に向けられたそれが、ひとよりよくわかるというだけの、ただの女であるからだ。
誰かが鶯の背後にいて、思い切り何かを振りかぶって、鶯の後頭部にぶつけた。待ち構えていたようなそれに、ワゴンのゲーテが罠だったと悟る。お笑い種だ、かの古備前の王がいまではこの体たらくとは。忘れていた。自分の命が元本より遥かに重んじられた時代に、鶯が有象無象に売ってきた数多の怨恨。捨てて惜しいものもあれば、捨てようとも捨てられぬものもある。時よ止まれ、お前は美しいーーー顔が見えていればの話だが。狭くて暗い書架でマウントを取られてはどうにもならず、うつ伏せに昏倒した鶯は、首を絞められてそのまま気絶した。

犯罪なんて思ったよりも後ろめたくも難しくもない。
人は一期が思うより自分のことなど見てはいないし、一期が思うより簡単に人は意識を手放す。誤算があったというのなら、すっかり意識を手放した彼女に手を焼いて、背負うだけのことに一番時間をかけてしまったことくらいだ。それでも、図書館の正面玄関から鶯を背負って出てきた一期のことをとがめる人間はいない。あの目障りな白い蝿もーーー。
大学の近くのビジネスホテルにとっておいた部屋に戻ってくる。ベッドに鶯を寝かせると、枕元に移動させておいたランプと彼女の細腕を手錠でつないだ。豆電球に落とした仄暗い部屋の中でも、彼女の顔は眩いばかりに白く美しい。一期はうっとりしながらその細顎に指を這わせて、なぞるようにして辿り着いた薄い唇に爪を沈める。わずかに口内に入り込んだ一期の指を、生理現象だろうか、彼女の舌先が掠めた瞬間、一期はその唇に自分のそれを重ねていた。
好きなのだ。好きで好きで仕方がない。あの雨の日、汚れた自分にそれでも手を差し伸べてくれたその手が。震える身体を抱きしめて、寝床に迎え入れてくれた胸が。何を聞いても否定せず、穏やかに聞き入れてくれるその目が。美しく気高く、奢ることはしなくとも誰もが認める美しさが。「いちご、」自分を呼ぶ、柔いその声が。気怠げに似合わない紫煙をくゆらせる唇も、煙草を絡める指先も、鶯を構成する何もかもが好きで、好きなのだ。彼女の想いが、興味が、自分以外の何かに向いているなどと、考えてしまうだけでどうにかなってしまいそうなのだ。鶯に夢中で口づけていると、不意に一期の頬を撫でる手がある。
硬直した。
この部屋で意識を持って動ける人間など、自分以外にいるわけがない。驚いて飛びのきそうになった一期の唇を、
「……どうした、一期。何か嫌なことでもあったのか」
彼女はーーー目を覚ました鶯は、この場において重要なことは何一つ口にせず、たったそれだけを聴いたあと、一期の唇を追いかけてそっと罪に震える上唇を食んだ。


一週間ほど、この狭い箱の中で、一期と鶯は二人ですごした。鶯がベッドに拘束されている以外は、ひどく穏やかな生活だ。食べたいものを買ってきて好きな時に食べて。身体は一期が隅々まで清めてくれるので風呂に入らずとも特段問題はない。夜は二人で寄り添って眠る。それのくりかえしだ。
数多いる人間のひとりやふたり、消えたところですぐには大ごとにはならない。世界は思った以上に独りよがりに寛容だ、そんなことを一期がこぼしたら、鶯はおかしそうに笑っていた。
「お前、見た目よりずいぶん力があるんだなあ。俺も、さすがにあの時はとうとう死んだと思ったぞ」
からりと笑う鶯に、買ってきたヨーグルトを差し出してやりながら、一期はか細い声でごめんなさい、と謝罪した。ヨーグルトをもぐもぐと気持ちばかり咀嚼して、嚥下したあと、鶯はその感想でも言うように、きわめて自然に尋ねた。
「俺はお前に、何か気に障ることをしてしまったか」
「……ッそんな、ことは、決して……!」
「ではどうして、お前は俺から自由を奪うんだ?」
ガチャリとなるのは、鶯とランプをつなぐ鎖。昏倒させられて拉致されて、軟禁されているとは到底思えない穏やかな声と笑顔。一期は自分の罪を悔いる気持ちの中に、彼女に対する薄ら冷たい恐れにもにた気持ちがあることに気付き始めていた。
彼女には底がない。注げば注いだだけ満ちて引いてゆく、足のつかない沼に手を突っ込んでいるような心地になる。でも、それでも、一期にはこの想いに、恋というほかにつける名前を知らない。黙り込んだ一期を急かしたりはせずに、鶯は酷薄に笑っている。
「……好きなんです、貴女が」
「ほう」
「だから、私だけ」
「お前だけを見ろ、と?」
「違います!」
今度は鶯の方が驚いた。一期の大きな目が、涙でいっぱいになっている。それがとうとう溢れておちる。
「そんな大それたわがままなんか言いません。わたしは、わたし、にだけ、いちばん、優しくしてほしいんです……!」
鶯は、頭のどこかで、パチリとパズルのピースがはまるような、空白が埋まる気配を感じた。愛することと否定することは矛盾しない、そうであるなら、傍にいることだけが手段ではない。自分はそれを、伝えられなかった。気付かなかっただけの、簡単なことだったのだ。鶯はおかしくなって嗤った。
「お前はすごいなあ、一期」
「……?どういう」
「わかった、それを聞こう。そうすればお前は満たされる。そういうことでいいのだろう?」
「……、」
一期は驚いて声もない。鶯はこともなげに言ってのけているが、それがたやすいことだとは思っていない。けれど、まさか彼女が言葉をたがえるなんてことはないと、一期の妄信的な部分が喚いているし、本能もそうだと思っている。なにか罠が、あるいは策か。一期が戸惑っている間にも、鶯は続けた。
「一期、鍵を出せ」
「……はい、」
鶯が解放を要求するのに準じる言葉を発したのは、実はこれが初めてだった。そう、今の今まで、鶯は解放をただの一度も望まなかったのだ。
これはやはり取引だろう。一期の望みを叶えるためには、彼女の望みを叶えなければならない。なんて姦計、なんて辣腕。乗らざるを得ないほど甘い蜜を目の前にたらし、悪事など知りもしないと言わんばかりの目で柔らかく笑う目が、どうしようもなく愛しくて、美しくて、それ以外に何も信じたくなくなる。鶯という女は、そういう女だ。一期は言われるままに鍵を取り出し、そして、手錠を開錠した。すると鶯は、自由になった手で一期の手を包んで。
「ありがとう、」
そこから、今しがた自分を解放した鍵を手に取る。一期は顔を上げる。真っ青な顔を。
「心配しないでも大丈夫」
一期は絶句している。言葉など紡げよう筈もない。息をするためか何か言うためか、どっちつかずな口がぱくぱくと無意味に開閉する。
「これを、証としよう。それほどの価値があるのか、俺には分からないが。きっとお前だけにーーー」
俺は一等、配慮をしよう。
鶯は笑ってそういうと、やすっぽいアルミの手錠の鍵をぺろりと、飲み込んでしまった。



▼通りゃんせ

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especial

髭鶯(R18) 昔日



昔から、あまり感情表現が豊かな方ではなかった。かといってそれが周りの気に障っていたかといえばそんなことはなく、友成はいつでもその顔に緩く微笑みをたたえ、反抗期がきて親に楯突くことも、姉弟喧嘩で弟に声を荒げたりすることも、終ぞなかった。

だからそのとき、古備前の屋敷に集められた顔見知りの親族のひとりが自ら腹を刀で捌いて、中から溢れる臓物と滝のような血を見ても、隣の大包平が真っ青な顔で昼食を戻しているのを波風一つ立たない目で眺めながら、友成は隣の母親に尋ねた。
「掃除、大変じゃないか。手伝おうか」



「おかえりー、鶯」
「ああ……、……」
日付の終わりも超えたころ、京都から帰ってきた友成を出迎えたのは、乳姉妹でなにかと世話を焼いてくれる髭切だった。古備前家の厳しい門構え。そこの敷居に不良然とした体で座り込む彼女がまとうのはフェミニンなパイル生地のパーカーと短パン。おまけに抱え込んだ日本刀という絵面の情報量の多さにも、友成は慣れきってしまっていたので特に応えは返さなかった。安達の家は関西と関東の間だが、そんな距離など虚像のように髭切はあちこち飛び回っている。門から本邸までの道のりで、髭切は友成から手荷物を剥ぎとる。ついでに首元に鼻を寄せてすん、と嗅ぐと、途端に飛びのいて嫌そうな顔をした。
「女狐の臭いだ」
大げさに首を振る髭切に、友成もわずかに笑みを漏らした。
聞けば髭切はこの度、友成ではなく古備前のもう少し古い世代の会合に護衛として呼ばれたとのことである。今は不寝番中だよ〜とのことであったが、気を利かせたらしい家長殿が髭切をその夜の仕事から外させた。元よりそのような有様で仕事もへったくれもないと思うが、髭切といえば狂気の獅子と名高いのにも分かる通り、その手腕は疑うべくもないのだろう。どんなに可愛い服を着ていようが、此奴は人を斬ったことがあるのだ。女の身空で伊達に安達の一員を名乗ってはいないというわけである。
人殺し。
人殺しか……。
「髭切」
「うん?」
「疲れた」
「……うん、お疲れ様。お風呂めんどくさいでしょ?朝にしなよ」
血濡れた手でそっと肩を抱かれると友成の足からはすとんと力が抜けて、ついでに言うならその先の言葉はまるで聞き取れない。己は抱え上げられでもしたのかふわりと身体が浮いて、暗転する意識の端で見たそれは消音映画のよう。笑顔の髭切の顔が眼裏に残るばかりであった。

宗近のことは好きだった。
日本において要を担う旧家と古家の女当主同士。気も合うし、話も面白い。。友人という定義が世間一般に差す意味よりも遥かに重いが、ふたりは確かに『そう』だった。だが業を治む者は業に塗れ、血のために自由は奪われる。宗近も友成もそれを是としてこれまでを歩んできたし、今後もそうだと誰も疑っていなかった。周りも、宗近も、友成自身でさえ。
だがことここに至り、友成は気づいた。己にはこの人生は『相応しくない』。自分の求めようとするところは、この先には無いと、天啓を得た。得てしまった。この天啓を気まぐれと断ずるには、友成の周りはあまりにも、彼女の辣腕に頼りすぎていた。状況を読む目、機を逃さぬ爪、生にも死にも容赦躊躇ない嘴。それらを遍く抱えてはばたく美しい翼。彼女以外に導けぬ定めが彼女をそう導いたのなら、彼女の足元に額付くだけの連中が、何か言えた道理もなかった。
「好きでいることと、否定することは、同列じゃあないと思うのだが、違うのか」
「鶯の言うことは難しいけど、簡単なんだよねぇほんとはね。ちょっと待って考える」
「……」
現在時刻は午前3時。帰り着いたのが1時ごろだったと思うから、友成がうたた寝していたのは2時間程度だろう。しかし1日を通して一睡もしていない髭切は当然その間も友成の番をしていたわけであろうから、底なしの体力には頭が下がる。
髭切は、友成が買ってきたチョコレートを箱から貪りながら思案した。友成は空になっていた二つのグラスに日本酒を注いで、自分は小指の爪ほどのボックスチーズをつまんで口に放りいれた。
「え、もう言っちゃったのあのこと?」
「いや、まだだ。話が終わるや寝所に引っ張り込まれてそれどころではなかった……」
「その様子じゃ今回はネコやらされたのか」
あっはっはと笑う髭切に友成が恨めしげにチーズを投げつけると、彼女は犬のように正確にそれを口で受け止めてみせた。
「悩んでいると見た」
「……悩んでる?俺がか?」
「そう。仇なす敵と見れば毛ほども躊躇しない、あの古備前友成が。……好きでいることと否定することは同列ではない、これには僕も賛同さ。ただしこれには注釈がついていてね……」
好きでいるものがこの世で唯一、あるいは世界にも等しいものであった場合。
「それは裏切りと同義になるのさ」
髭切が噛み砕いたチョコレートから、鮮やかな赤い果汁が滴る。血のようだった。

戯れにチョコレートとチーズを口移しで分け合っているうちに、あいだに何も挟まないまま貪るものはお互いの舌と唾液にとって代わっていた。髭切が座っていたソファの上で、裸に剥かれた友成は目の前の人斬りの女が自分の胸の頂をぱくりと咥えたのを見た。
「は……ぅ」
「ん〜、あいひゃわらるのはわりごごひらね」
「しゃ、べるなそこで、ぁ」
髭切が下で頂を転がすたびに、腰が甘くしびれて揺らめく。気をよくした髭切は触れられていない方の飾りも指で挟んだり沈めたりするから、快感は単純に倍増して友成は頭を振った。思考には靄がかかったようで、友成の頭の中には今この部屋に2人でいて、今から髭切に食べられてしまうこと以外の全てが切り離されてしまっていた。
「……友、友」
髭切の頭を抱き込んで、友成が舌足らずに呼ばうのは人斬りの真名だ。こうなるといよいよ、友成の頭には姦淫しかないことが明白で、髭切は知らず舌なめずりをした。
「うんうん、ちょっと待ってねぇ。お〜、ばっちり」
「あ、あ、あっ」
片膝裏を抱え上げて明るみに晒された友成の蜜壺は今にも溢れそうに潤っていて、髭切が指を沈めると簡単に決壊した。溢れた愛液を女陰の直ぐ上の、まだつつましく顔を見せない陰核を乱暴に露出させて塗りこめると、友成の肢体が面白いほどわなないた。
「あ、ああっ!や、いやだ、だめ、だめ、とも、だめぇ」
「まだ準備だからね〜。一回イっとこうか」
だらしなくひらいた友成の口へ舌を差し込み、膣へは長く嫋やかな指を3本ほど潜らせる。
腹の裏側の弱い所を責め立てられて、口をまさぐられる快感が作用して、身体を浸す絶頂感は友成の意識を離れて育っていく。悦んで浮き上がる腰はさらなる刺激を求めて浅ましく上下する。制止しようとした手は震えて、髭切の腕を弱くひっかくばかりで、子猫みたいだとおかしくなる。
「んっ、う、ふ、あ、ふあぁ」
「ふふ、ね、イク?中すごいよ」
「っん、い、いく、いく、いっちゃう」
「いいよ、うぐいす、かわいい、かわいい」
髭切は欲の熱に浮かされたような友成の様子をうかがいながら、女を辱めるのとは逆片側の手で、そろりそろりと蜜壺の下へと手を這わせる。もう一つの壺の入り口をそっと撫でると、友成の女の胎がかわいそうなほど縮み上がった。それが彼女自身にも分かったのだろう。
「とも、だめだそこは」
絶頂を間近に控えた期待を隠し切れない淫靡な瞳が、涙を散らして首を必死に振った。知っているからだろう、この先の快楽を。
「嘘はよくないね」
髭切がにっこり嗤ってそこに指を沈めた刹那、悦楽の果てを極めた友成の胎からは歓喜の洪水が滴る。がくりと仰け反る白い首に噛みつきながら、髭切は前から後ろから、友成の中を蹂躙する。普段は無能の猿を従える美しき猛禽の女王が、自分の前では憐れ艶やかに啼くだけの小鳥だ。それが自分の主人で、愛人で、乳姉妹で。おまけに友成に執着している女狐では終ぞ彼女をこんなに蕩かせることなどなかろう。髭切には確信があった。こんなに楽しいことがあるだろうか。
「あーーーーッ、ん、あ、あああーーーッ」
とける。恥も外聞も捨てた友成は悦すぎて頂上から降りてこられないようで、髭切の手が弱いところをかすめるたびに極めて泣き喚く。あしがなくなる。眉根を寄せて、涙で碌に見えてもいない目で髭切を探している。こわい。この地獄の快楽からの解放を希う。とけてないか?悦過ぎて怖いだなんてなんて可愛らしいのだろう。「大丈夫だよ、」そんなこと言われて止まれるわけがないのに!ばかになった蛇口でももう少し閉まりがあるだろう。指を銜え込んだまま、前は足りないと言わんばかりに蠕動して、隙間から絶え間なく涎を垂らしている。後ろは怠けるなと叱咤して、食い締めては自ら感じ入る。
「すごいすごい、まだ出るの?溜まってたのかい」
「っはぁ、はあ、っあぁ!やだ、友ッ……んああぁっ、こわ、こわれる」
「女狐はよっぽどヘタクソなのかな、それともーーー」
ここは僕とお前だけの秘密だったりするのかなぁ?
「お、お………ッ、」
一等大きな快感には、声すら忘れる。
「は、あ、あー……っ…………はー…………あー…………」
往なすための思考回路も壊されて、真に受けて行き場をなくして暴れる快さに言葉もない。
「きもちよさそうだねぇ」
「……い、い………はー………きもちぃ………いー、ひぃっ………」
「よしよし、」
満足した髭切が友成の中から引きあげても、、前も後ろも名残を惜しむように口を開けていた。多分トんじゃってるなあ、と思いながら、髭切は絶頂しきりの友成の髪をそっと撫でて、ほんのり腫れた眦に口づけた。
「僕とならいつでも飛べるのに。むずかしいねえ、鶯……」

母上。
俺は、家督を大包平に譲ろうと思う。
先々代の臓物を見た、幼き日のあのときと何も変わらない瞳でそう言った友成に、驚くものは誰もいなかった。父は何も言わず、母は笑って呆れ、一番五月蠅いと思っていた弟は何もかも知っていたようにただ、友成を見つめていた。
後ろに控えていた髭切は、予想通りの結果に忍び嗤う。友成は顔色こそ変えないが、内心僅かでなく動揺しているだろう。それが面白い。だが、少し考えれば誰にでもわかることである。

鳥は、空を飛んでこそだ。
その美しい羽根に牙を立てられる前にーーー自分らしくないけれど、そう、思わずにはいられなかったのだ。



▼どうか、
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BELOVED

鶯と三日月の確執(R18)※追記に続いています


府内某所。

観光地として暴かれつくしたこの古都には、歴史の長さに比例して今なお育ち続ける闇が多くある。
東山の裾野、六道の辻に至るまでの道すがら。地獄への道の名に違わず、この界隈には未だに裏社会で幅を利かせる古家・旧家の本拠地がひしめく。大概は民家や料亭に偽装されていて、この一角はほぼすべてがそういうものと言って過言でない。淡く石灯籠が照らす門の前、石畳に一台の高級車が止まった。中の伺えない仕様の後部座席のドアが開いて、中から出てきたのは、金髪の女だった。肩までの跳ね放題の髪を、黒い髪飾りで結いつけている。冬の夜道だというのに外套一つないその姿は、ノースリーブのリブセーターにホットパンツという見るからに寒々しい出で立ちである。だがそんなものよりももっと目を引くのは、彼女の腰に下げられたものだ。
刀。
彼女はその鯉口を切り、素早くあたりを見回す。異常がないことを認めると、再びドアを開いて中に呼び掛けた。
「うぐいす〜、いいよ〜」
「ご苦労、髭切」
「報告報告〜こちら55号車……あ、妹かい?こちら髭切、到着したよ。このまままっすぐ屋敷に向かうのでいいのかな。……は〜い了解」
耳に装着したインカムで先んじて到着していた片割れと連携を取りながら、髭切は降車する鶯の手を取ってリードする。
「いつも思うが、髭切は寒くないのか、そんな恰好で」
「ん〜?平気だよ。かさばってお仕事できないんじゃ、そっちのほうがコトだ」
朗らかに笑いながらグローブをはめ、アーミーブーツの踵を鳴らす姿は可憐だが、その目は間違いなく狩人のものだった。それも歴戦の。鶯の手を引いたまま、髭切は並んで門の前に立った。ついで、インターホンの数字を軽く操作する。
「この時間無駄だと思うんだよね、僕」
「同感だ」
和風な風体とは裏腹に、ここには科学技術の粋を極めた最新防犯システムがこれでもかと詰め込まれている。赤外線、金属探知、虹彩照合、エトセトラ。無作法者や招かれざる客を徹底的に排除する、物言わぬ門番というわけだ。髭切が先ほど操作したのもインターホンに偽装されたシステムロックで、そもそも門番に検閲を要請することさえ、限られた人間にしかできない。
「大体向こうが呼んでおいて失礼な話だよ。妹がいなきゃ絶対こない、こんな無礼なとこ」
「あっはは。あちらもお前のことをよく分かっているんだろうよ」
検閲の間、誰が聞いているかもわからないのに堂々とホストの文句を垂れてふくれる髭切に、鶯が甚だおかしそうに肩を揺らしたところで、『ALL CLEAR』、歓迎の許可が下りた。

家というより公共施設か何かかと思われるほど広い竹林の道。数回訪れる分かれ道を、髭切は鶯の手を引いて迷わず選び、進んでいく。曰く間違えると招かれざる客とみなされ、この世からお帰り願われるらしい。正解の道順は来るたびに変わる。毎度覚えているのか?という鶯の問いに、髭切は得意げに歯を見せた。
「そろそろじゃないかな」
髭切は再び、刀の柄に手をかけた。歩く速度が半歩、落ちる。見えてきたのはこれまた立派な門構えで、そこには二人、立っている人物がいた。髭切が警戒たっぷりに近づくこの人物こそ、今宵鶯を呼びつけたこの屋敷の主人である。
「久しいな、古備前。息災か」
後ろに髭切の片割れである膝丸を従え、三条三日月はその色の読めない顔で鶯に笑いかけた。髭切の手から、刀が離れることはない。それは向こうの彼女の妹も同じようだった。
「お前こそ、元気そうで何よりだよ」
鶯が笑って手を差し出す。三日月がそれに応えるまでに、不自然でない程度に見せた妙な間は、それぞれの従者だけが気が付いていたのだった。

通された応接間で、膝丸は三日月の後ろに控えているのに対して、髭切は堂々と鶯の隣に腰を下ろした。おまけに鶯に出されていた茶請けの菓子の封まで勝手に切る始末だ。
「おい姉者ッ……」
血相を変えた膝丸の胃痛などどこ吹く風の姉に、彼女らの主人たちも呆れたように肩をすくめた。髭切のこれはいつものことである。それこそいちいち目くじらを立てていては、痛まずともよいところまで痛めてしまう。三日月がぱんぱんと手拍子を打って、使用人を呼びつけた。
「やあ、よいよい。どれ、お前たちの分も茶を持ってこさせような、」
「お前も座っていいんだぞ、えーと」
「辻丸だよ、鶯」
「膝丸でございます姉者!」
ありゃ?口をもごもご言わせながら首をかしげた髭切の口元についている菓子を、鶯が懐紙で拭ってやる。戻ってきた使用人は本当に二人分の追加の茶を持ってきたし、髭切の前におかれた漆の器には菓子が山と積まれていた。背後の膝丸を振り返って、自分の隣をぽんぽんと叩いて示してくる三日月に、今にも眩暈がしそうで思わず天を仰いだ。だが主人の命は絶対である。膝丸はええいままよとばかりに、三日月の隣に腰を下ろした。もう知るものか。
「古備前よ」
三日月は、先ほど茶を強請ったのと同じ音で、口火を切った。
「家を捨てるそうだな」
「……、ああ。言い方はともかく、事実としてはそうなるな」
話題としては一等不穏だ。少なくとも、茶をすすりながらするような話では断じてない。事実三日月の視線は、不躾でない程度には穏やかさを欠いている。髭切が遠慮のかけらもなくばりばりとせんべいを砕く音と、相変わらず玉露に舌鼓を打つ鶯ばかりが、この部屋で唯一微動だにしない。
「理由を尋ねても障りないか」
「そんな大層なものはない。俺には向いてなかったというだけの話だよ。張り切っている弟もいることだし、女の俺はさっさと引退するのに都合がよかった、それだけだ」
膝丸は見逃さなかった。三日月の目が、温度を下げて眇められる。視線の刃は真っ直ぐ、恐ろしいほど直向きに、目の前の鶯に突きつけられている。
「お主の顔は誰もが買っていた。俺も含めてな。初めからそのつもりなら、何故一時でも家督を継いだ?あの日、俺もお主も、この呪われた縁に諦めを付けて、共に囚われることを許したのではなかったか」
常日頃から鷹揚に微笑んでばかりの三日月が、このように誰かを責め立てるのは珍しい。悪い意味でだ。いよいよ不穏な雲行きに、場の空気も張り詰める。だがそこは流石と言おうか、古備前友成はそんな中でも泰然自若として己を損なうことはない。もどかしいほどゆっくりと、まるで指し示すように湯呑を置いた。


古備前は、三条と同じ程度か、あるいはそれ以上に古い家である。
政治・経済・軍事と、歴史の要所節目には明暗分けずその名を刻み、今やこの国における地位は不動のものとなった。現在は中国地方に居を構え、三条が治める京都とは隣人として、千代にわたる長きにおいて交流を続けている。
旧家に於いて跡継ぎは基本的に男と決まっているが、鶯も三日月も女だてらに今は当代の一権力者である。三日月の家には三日月とその姉の姉妹が生まれたので、先に五条に嫁入りしていた姉に代わり、縁の少ない三日月が現在の当主となった。だが、古備前は少々事情が異なっていた。
鶯は当主として『相応しかった』。三日月のように、血のためだけの挿げ替えの当主ではない。鶯は血もさることながら、一族の満場一致でその手腕を長にと認められた、異例の女であった。
幼少の頃に大病をして、臥せっていた時期もあった鶯であったが、18で当主となってからの7年間、その辣腕は音に響くものとなっていった。そして今、この国に並び立つ家長のひとりとして三日月と膝を突き合わせてもいる。
それを何故、今になって、白紙に戻そうというのか。三日月が古備前の家を問い詰めても、『長の決定』だとの一点張りだった。
「お主も包平も10と離れてはいまい。仮の顔として立てるのに、お主では役者が過ぎている」
「随分買われていたようだなあ。お前そんなこと、面と向かって俺に言ったことあったか」
「照れるだろう」
「然もありなん。聞いたことがないのなら、可笑しいのも道理だ」
徐に鶯が煙草を咥えると、チョコレートをつまんだままの髭切が器用に片手でジッポを点した。煙を呑む鶯を見る三日月の目は剣呑だが、理由はそれではあるまい。露骨にはぐらかそうとしているのが分かる。三文芝居か高等な駆け引きか、腐っても西国の長である女の二枚舌など信用できない。
「俺は腹の探り合いは好かないぞ、古備前」
「三条の稀代の女狐の台詞ではないな、宗近」
元服以来の字を呼ばれた三日月の目はさらに温度を下げる。きわめて単純な扇動だと、膝丸は気付いていた。この二人、互いに性根は基本的には穏やかなのだ。この不自然さは、どちらかの策略か。性急すぎる敵意の応酬に、思わず膝の上の手に力を込めた。
「考えてもみろ。俺の爺様もお前の爺様もみな本家筋。家を保つのに、どう考えたって都合がいいのは男の血だ。ただでさえ俺のところは、血の濃さだけを数えれば3代のひよっこもいいところだしな。発展を考えるのなら、弟に家督を譲るのが筋だろう」
髭切が、用意されたポットで自分と主人の湯飲みに茶を注いでいる。すでに胃がねじ切れそうな膝丸とは違う、この姉の内臓は鋼鉄ででも出来ているのだろうか。
鶯の言い分は至極真っ当だと、膝丸は思った。歴代当主として務めを果たすのは大多数が男だし、たとえ女を据えたとて名代として名が残るのは男の名だ。それは事実。なんの不合理もない。
だが三日月は、なおも追いすがる。膝丸が横目でちらと覗き見た主人の顔は、まるで迷いの女童のようなありさまだった。
理を欠いたその感情の名は、執着だ。
「……何故、」
「俺は理由を話したんだ、お前の駄々を聴くわけではない」
三条家当主の御言葉を言うにこと欠いて駄々とは、越権行為も甚だしい。しかし膝丸が何か言うよりも早く、主人がーーあの三日月が、激昂した。
「お主、よもやあの世迷言を、誠に……!」
「三日月殿ッ!」
立ち上がり、今にも鶯につかみかかりそうな主人を膝丸は慌てて御した。正面へ視線を映せば、相変わらず何を考えているのかわからない笑みを浮かべる古備前当主の隣で、呑気に茶を啜りながらも、三日月と自分の挙動から一寸たりとも目を離さない自分の姉の目がある。よく見れば片手はすでに鯉口にかけられて居て、膝丸は頭の隅が冷えるのを自覚した。
「俺は実現しようとした。そうしたら叶った。それだけのこと」
「古備前友成、貴様、貴様……!」
美しい顔を憤怒に歪ませる三日月は、我が主人ながら、心の底から恐ろしかった。この怒りは、おそらくそのすべての権力をもって対象を灰も残さず燃やし尽くすだろう。謂れのない我が身でさえ竦むほどの熱量だというのに、それを一身に向けられたこの目の前の女は、どうしてこうも動じずにいられるのか。膝丸には鶯がこそ、化生のものででもあるかのように思われてならなかった。
「よく見ろ、三日月。鎖なんてどこにもない。見えないものに縛られるほど、俺もお前も愚鈍ではないはずだ。お前のことは友だと思っている。だが俺はーーー」


「すごいね、鶯。結局あの女狐怒らせるだけ怒らせて、ホントのこと1ミリも言ってなくない?」
帰りの車の中で、三日月の家からきっちりくすねてきた菓子を貪りながら訪ねてくる髭切に、煙草を吸っていた鶯はぱちぱちと目を瞬かせた。
「ちゃんと説明したろう。俺は自由になりたかったんだと」
鶯の願いは真実それだけで、いけなかったことはといえば周りを全然顧みなかったことと、それをちっとも明快に説明できなかったことだ。それを結局最後まで自覚できていないらしい鶯に、髭切は呆れ果てるほかない。
「あ〜、だ〜めだこりゃ。ま、君がいいならそれでもいいけど」
きゃらきゃらと笑う髭切に、鶯はなおも疑問符を飛ばすばかりである。
「僕らと一緒にいたせいかな、鶯は不思議な感じに育っちゃったよねぇ」
「俺はお前たちと乳姉妹でよかったと思っている。包平は男一人で肩身が狭いらしいが」
「なにそれ、ウケる〜。今度また4人で出かけようね」
深夜、京都から岡山までの帰路。高速道路からぼんやりと街灯が流れるのを眺める。家を捨てれば当然住処も変わる。齢25にして、また一からのやり直しだ。住む国を変えるのと大差ない環境の変化に、この先何が待ち受けているのかなど分かったものではない。考えていることの先行きの不透明さとは裏腹に、鶯の口には薄く笑みが敷かれている。
それもすべて織り込み済みで、鶯は、それでも手に入れたかったのだ。不安も恐れも、今は楽しみでしかない。そういうものが、欲しかったのだから。
「ああ、そうだな。……今までありがとう、髭切」
髭切が何も言わずに差し出した灰皿に煙草を押し付けて、そう言った鶯に、髭切はこともなげに応える。
「変なの。昔みたいにただの『鶯友成』に戻るだけじゃないか。何が変わるの?」
「お前みたいなやつばかりだったなら、俺ももう少し楽が出来たんだがなあ」
「あ、それより鶯、見てた?さっきの妹さ……」
「ふふ、ああ、見ていたぞ。悪いが……」
それから明け方に家につくまで、鶯と髭切は眠ることなく話に興じていた。これまでのこと、これからのこと。鶯とは違って外にも友人が多いという彼女らが、家探しを手伝ってくれるらしい。鶯は酷く満たされた気持ちで、朝日を拝んでから床に就いた。
細かいことは気にしない。後悔など、あるものか。

古備前友成の早すぎる退任と、その弟の家長への就任は、ほどなくして日本各地の要所へと知れ渡った。その内容は、表向きは勘当とされていたが、それが実害を伴わない名目上のものであることまでは明白であっても、真の理由と様相を、知るものはひとりもいなかった。

「みなグラスは持ったか」
「あるぞ」
「大丈夫〜」
「ああ」
それから半年ほどたって、鶯の新居にて、娑婆での暮らしの準備が整ったことを祝う会が開かれた。何とも奇妙なお題目だが、それまで、安達(髭切の家だ)の屋敷や古備前の屋敷で何不自由なく暮らしていた所謂「世間知らず」であるところの鶯が、独力で自分の生活環境を整えることは不可能に近かった。彼女よりも世間に出ることの多い髭切と膝丸、鶯に家長を譲られるまでは半分堅気として生きていた大包平が、鶯を大変、大いに、とてつもなくよく助け、彼女の新しい職、経歴、住処やその設備などを整えてやったのであった。その間当の本人はと言えば、母方の実家で呑気に山籠もりなんかしていたわけであるから、つくづく見上げた図太さである。
「みな、本当にありがとう。おかげで、俺一人にはもったいないほどの家を見つけてもらったり」
「7畳一間のごくごく一般的なひとり暮らし用アパートだがな。せ、狭い……」
「家具家電をそろえてもらったり」
「お前と姉者を買い物に行かせてはいけないということがよーくわかった。勧められたものを勧められたまま買おうとするな!」
「そのほかにも、まあいろいろと世話になったな」
雑だな!という下二人のつっこみが見事にかさなったところで、鶯と髭切がケタケタと笑った。
「この借りは、娑婆で稼いだ真っ当な金で地道に返していくつもりだから、どうか気長に待っていてくれ」
「うふふ、期待はしないで待っとくよ〜」
「ふん。せいぜい真面目に働くことだな」
「姉の世話だ。こんなの借りのうちに入らん」
三者三様の労いと激励に、鶯はより一層笑みを深くする。誰が言ったか乾杯の音頭で、安っぽいグラスを合わせた音を、鶯は一生忘れないだろうと思った。



頬を張られた感覚で、意識が現実に引き戻される。
鶯が目を開けると、今住んでいる安アパートとは似ても似つかない、豪奢な天蓋が目に入る。身動ぎしようとしても敵わない。見れば手足は拘束されている。
「おはよう、古備前や。ご機嫌はいかがかな」
動かせる視線だけを、その声が聞こえた方へやる。もっとも、今なおその名で自分を呼ばうものがもしも在るとしたら、それはひとりしかいないのだが。霞む視界ではよく見えない。それでも鶯は、弱弱しくも確信めいた声で、その名を呼んだ。
「……みか、づき……」
「おや、まだ自我を保っているのか。誠、強靭な志よ。……薄緑、あれをここに」
薄緑、と呼ばれた女が、酷く緩慢な仕草で、鶯と三日月のいる寝所へとやってくる。彼女は三日月に何かを手渡して、それから、鶯を見た。泣きそうな顔で。鶯は彼女に、唇の形だけで伝えた。
ひざまる。みたくないだろ、でていけ。
それは正しく伝わっただろう。膝丸は理解するや、勢いよく踵を返して礼もせずにこの部屋を辞した。鶯は微笑んだ。これでよいのだ、今更かもしれないがーーー優しい彼女に自分の不始末の一片を見る義務などこれっぽっちもない。たとえば、女狐が構える注射器の中身で、理性を捨てる鶯の姿など、醜悪過ぎて見るに堪えなかろう。
「……はずか、しい、しな」
「……何、今にその口、利けなくなるぞ」
受け入れるのが初めてではないであろうそれを、もはや拒む余力もない。鈍い痛みをともなって針が腕に沈む間、鶯はなんとなく、窓の外を眺めていた。
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5人の女の場合

鶴鶯←一+今




電子音の教会の鐘が聞こえた。
目を覚まして、慣れた手つきで音の発生源をベッドに引きずり込んで黙らせる。初春の折、肌寒さはあれど、布団と毛布に挟まれていては湿気の方が多い気もする。事実、シャツ一枚からのびる足にまとわりつく毛布の感触はすでに不快だ。五条国永は白く長い髪を乱雑にかき回すと大あくびをした。7畳1室、部屋にあるのはベッドとテーブルだけ。その上にはステッカーだらけのノートパソコンと昨日の夕飯だったカップラーメンの残骸、そして山となった灰皿。現実を端的に具現化したような風景を別に見なくてもよかったな、と思ったところではたと意識が、ここでようやく、完全に覚醒した。
「……今日何曜だ」
手の中で携帯が、またけたたましく鳴り出す。

この時期の大学は閑散としている。後期の試験を終えた学生なんて檻から放たれた野生動物も同じで、皆それぞれに資金を握り締めどこへなりと行って仕舞うのが常だ。まして昼時も微妙に過ぎた時間、人の姿は輪をかけてまばらだった。国永は律儀にボールを追いかけまわすサッカーサークルのいるグラウンドを尻目に、キャンパスの中央を目指した。大学付属の図書館。敷地の中の緑地も兼ねる、雑木林に抱かれるようにして立つこの箱が、国永の一番好きな檻だった。
春休みには何かシフトに変化はあるのかと聞いた際の「否」にたがわず、待ち人はかわらず、受付に座っていた。『司書 鶯友成』のネームプレートを下げるカラーグラスをかけた彼女は、相も変わらずお決まりのタンブラーと共に仕事をしていた。
「鶯」
「やあ、鶴か。はは、さっき起きた顔だな」
国永の顔を認めると、彼女はにやりと笑う。いつもなら手間と時間ばかりかかるゴシックロリータを身にまとう国永が、今日は髪も流しっぱなしで簡素なスカジャンにジーパンといういで立ちだからだろう。わかりやすすぎて嫌味にもならない。
「ご明察〜。昼まだか?」
「ああ」
「飯でも行こうぜ」
「いいぞ。ここまで片づけさせてくれ」
「了解、外で煙草吸ってる」
ひらりと手を振れば、ふっと返される温度のない笑み。わずかに端を釣り上げた鶯の唇を見て、国永はいますぐ口付けたい衝動を振り切って外に出た。

「煙草がない」
「は?職場に忘れてきたのか」
「いや……これは、」
キャンパスからは少し離れたところにある、喫煙者にもやさしい今時珍しく喫煙席の方が多いカフェで昼食を食べ終えて一服しよう、というときになり、鶯はポケットに手を突っ込んで眉根をひそめた。早々に火をつけて煙を呑んでいた国永が首をかしげるのに、どうしてか鶯もそれに続く。
「一期……」
「ああ〜。だから言ってるじゃねぇか、ストーカー家に上げるのやめろって。そのうち煙草だけじゃすまなくなるぜ」
ほれ。国永が煙草を差し出してやると、すまないな。国永の忠告には特に応えを返さずに鶯は曖昧に笑って毒を口に咥えた。ともすれば喫煙者にはとても見えない鶯が、常ではなくとも、だいぶクセの強い国永の愛飲物をこともなげに嚥下していくのを見るのは小気味がいい。不感症の彼女だが、これを呑んでいるときだけは、ベッドにいる時以上に酩酊した目で気持ちよさそうに息をしているから。国永は、鶯のこの目が好きだ。だから、べらぼうに高い自分の煙草だって喜んで差し出してしまう。
俺も大概だなあ、という言葉は、煙と共に換気扇に吸い上げられてゆく。話題に出されたあの女のことは嫌いだが、今はまだ、自分の方が鶯の中で優位にある自信がある。自覚すると楽しい気持ちは恋かといわれるとそんなにきれいなものかねと自分で自嘲したくなる程度には汚れているが、それでも。
「国永」
「なに、」
「夜は暇か?」
「うん。やることねぇし、書架にいるよ。仕事終わったら声かけてくれ」
「わかった」
2人して灰皿に吸い殻を放るのに、ふれあった指先に目配せをする。先に笑ったのは鶯の方だった。

「今。帰りか」
「はい」
今日もやってきた、いつもここに立ち寄る中学生に声をかける。心なしか元気がない。
「どうした、何か嫌なことでもあったのか」
「……鶯ねえさま、ごめんなさい」
「?なにが」
困惑していると、彼女はそっと、鶯にそれを差し出してきた。
見慣れたてのひら大の箱。中には、嗜好品とは名ばかりの猛毒の束がごまんと詰まっている。鶯は苦笑した。隠していたつもりだったのだが。
「助かったよ、ありがとう」
「……おこらないのですか?ぼくは、ねえさまからこれをぬすんだ、わるいこです」
罪を告白し見上げてくる赤い大きな瞳は揺れて、しかし、自分からの叱責を心から望んでいる。鶯は正しく今の心持ちを理解した。理解した上で致命的に残酷な答えしか、彼女には返せない。
「怒るものか。きっと俺を心配してくれたのだろう」
暫くは我慢するよう努める。そう言ったら、今は顔をくしゃりとゆがめて、踵を返してしまった。ああまた間違えたなと思ったが、昔からだ。もう慣れた。諦観を誤魔化すのにさっそく禁を破りそうになったので、手の中の煙草はそのままトイレでごみ箱に捨てた。


「きみは許すのが驚くほど上手いからな」
「許すのに上手いも下手も………く、」
胸の飾りを揉んでも弾いてもてんで無関心を貫いていた身体も、足を開いてその奥をのぞき込めば本能までは忘れていないようだった。しとどに濡れたそこに国永が指を突っ込むと、色気も何もない、刺激に対する反射で鶯が身を固める。
「う、あ」
「指冷たいか?ごめんなあ」
「いや、いい……」
異物感に眉根をひそめる、性感を忘れた悲しい女のうつくしい眦に、国永はそっとくちづける。無意識にわだかまっていた涙を吸いあげて、鶯色の髪が散らばる首元にすり寄りながらなかをそっとかき回す。
「ひ、」
「こんなに悦んでんのに、」
「ちょっと、」
「あたまとつながってねぇってのはどうにも不思議だ」
「待、」
鶯の呼吸が乱れて不規則になっていく。ああ、鶴。声のトーンはいたって通常営業、波打つ白い腹はそれでも、国永の与えるそれを刺激としか思わないらしく、頬に刺す赤みはどう見ても有酸素運動がもたらすだけのそれだ。内から滴る愛液だけが空しく、忘れ去られた彼女の性を嘆く。薄い唇は囀る代わりに、律儀に反応を返して息をみるみる上げていく。
「はっ、はぁっ、っあ、うっ、………」
ぎゅっと目をつむってがくりと頸をさらした。恥も嬌声もない、酷く殺風景な果てを見て後ろに倒れ込んだ鶯を追いかけて覆いかぶさると、国永はキスをした。舌を絡ませ口内をひっかきまわしていると、背中を叩かれて抗議を受ける。
「わりわり、苦しかったか」
「違う、下。膝で押すな、痛い」
乗っかった国永の膝がちょうど鶯の陰核を押しつぶしていたようだった。真っ赤に腫れ上がっててらてらと光るそこは間違いなく熟れ切っているのに、これは何も機能しない。股に生えたこれも、腹に埋まるそれも、鶯にとっては腐った果実なのだ。
一体、何に傷まされたのだろう。国永は哀れっぽく、その足の付け根に舌を這わせる。
「こら、鶴、ぅ」
「こっちなら温いだろ、……」
「そういう問題では……、」
粘液同士が触れ合う感触へ不満げな瞳が、生理的な涙で彩られている。揺れる瞳は間違いなく期待をしているのに、対象が虚数で答えが出ない。求めているのに、求めるものが欠けているのだ。数式は永遠に完成しない。この美しい鳥は酷く不完全で、そんな彼女のいびつさが、国永はたまらなく愛しい。
「鶯、きみはかわいいなあ」
だから赦してくれるだろう、きみはきっと、こんな俺も。
今夜は春の嵐。台風も斯くやといわんばかりの強風に煽られたものがぶつかりでもしたのか、深夜だというのに玄関先がひどく騒がしかったが、ふたりは露ほども気にしなかった。

あの目障りな小蝿は、居ないと思っていた。
だって、夕方に、そっくりな影が図書館から出ていったきり戻って来なかったから。一期のいるゼミは休暇に入ったってやることが山積みだが、こと彼女にとって、『女神』と共にいられるこの箱庭にいることになんの苦もない。あの人のお勤めが終わられたのは、講義中にセットしていたアラームのバイブが知らせてくれた。あの人はいつも喫茶店に寄って帰る。時間帯的にも時期的にもカウンターは混んでいるに違いないから、自分が講義を受け終わっても彼女が帰りつくより前にお家にお邪魔して、ご用意をして差し上げられる思っていた。
「いたい、鶴、おい、っくぅ」
ドアノブに手をかけようとして、中から聞こえてきた声に息を呑んだ。よせばいいのに、現実なんか見たくないのに、中の様子に惹かれる身体はドアに縋りつく。
切羽詰まったような声音に続いて、聞こえてくるのはあの耳障りな声。うぐいす、きみはかわいいなあ。調子のいいことを言って、彼女の声と混ざって溶けていく。衣擦れ「嘘だ」スプリングの軋み「やめて、」雨の夜、酒の匂い、身体をまさぐる知らない手と、声、声、声。
弾かれるようにドアから離れて、背後の廊下の鉄柵に背中をしたたかに打ち付けた拍子に、胃から逆流したものが溢れた。目の前の光景と、蓋をした記憶が明滅し合って、壊れた堰からあふれ出す絶望が姿を変えた涙と嘔吐が止まらない。震える足で立ち上がって、何とか転げるようにその場を後にした。


▼嗤えないわ
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