2012/2/26 Sun 10:37
おつかれさま(高佐)


「…渉くんだ」
 美和子さんが僕の頬に手を当てて、そう呟くように言った。
「はい、僕ですよ…?」
 その仕草にほんの少し戸惑いながらも、細い彼女の指先に自分の指を絡ませて応えた。
 いつもは冷たく感じるその指も今はとても温かい。
「―ちゃんと、いるのよね」
 問いかけというよりは、美和子さんが美和子さん自身に言い聞かせているような声色だった。その表情はどこか辛そうで、寂しそうで。
「えっと…すみません」
「なに謝ってるのよ。悪いことでもしたの?」
 訝しげに寄せられた眉に、僕はまた謝りそうになる。飲み込んだけど。
「…冷たかったでしょう」
 普段より幾分か柔らかい美和子さんの声に、ふいに泣きそうになった。花の奥がつんとして、瞼の裏が熱い。
「はい。寒かったです」
 震えてしまった語尾は気付かれなかっただろうか。
 ゆっくりと、ゆっくりと息を吐く。
「………僕は、誰も止められませんでした」
 美和子さんの顔を見てそれを語るのはまだ怖くて。苦しくて。泣きそうな顔なんて見せたくなくて。それが視界に入らないように俯いた。
「あの、手帳を任されたのは僕だったのに、なにもすることができませんでした。…いえ、なにも気づけませんでした」
 あの日、あのとき、息も絶え絶えに伊達さんが伝えたかったこと…憧れの先輩が遺した、最後の課題。
 伊達さんのようになりたくて、その背を追ってきた。彼が生きていたときも、故人となってしまった今でも。そんな人が最後に自分に託したことを、僕はなに一つ果たせなかった。
「笛本さんだけでも…って、思ったんですけどね」
 案の定、このザマだ。
 美和子さんが助けに来てくれなかったら、僕は誰も助けられなかったどころか、大嘘吐き野郎になるところだった。
 美和子さんに―もう、会えなくなってしまうような。
「僕、なにしてんでしょうね」
 自分の恋愛で一喜一憂している間に、伊達さんの大切な人が亡くなっていってしまっていたなんて。
 そこまで言って、やっと顔を上げた。
 自分でも分かるくらいに無理して笑ってみたけど、美和子さんはなにも言わなかった。
「…美和子さ」
 美和子さんの目に涙が溜まったのを見て、自分の声が不自然なところで切れた。
 そこまできて、やっと理解した。美和子さんはなにも言わなかったんじゃない。言えなかったんだと。…必死に、こんな僕のために泣きそうになるのをこらえてくれていたんだと。
「―っごめんなさい。…ごめんなさい、泣きたいのは、あなたの方なのに」
 大きな丸い瞳から、涙が零れ出した。僕の頬から手を離すと、美和子さんは慌てて涙を拭った。
「ちゃんと、聞くから。私が。―ね? 私が、渉くんの辛いこと、聞くから」
 そう言って悲痛そうに笑う美和子さんを見て、自分はなにをしていたんだと、数秒前の自分を殴りたくなった。
 いなくならないと約束しといて、勝手に消えて、また死にかけて。…僕は何度、同じ失敗をおかしてきただろう。何度この人を泣かせてしまっただろう。
 それに美和子さんだって辛かったはずだ。笛本さんに目の前で死なれて。人一倍責任感の強い彼女が自分を責めないはずがない。それなのに―それなのに、僕は。
 ぐっと奥からなにかが込み上げてきた。唇を噛んでも、止まらなかった。
「………っ」
 目の前にいた美和子さんの顔がぐにゃりと歪む。たまらなくなって、その震える肩を少し乱暴に引き寄せた。
 一瞬怯えたように固まった彼女の体を力いっぱい抱き締めた。とても、とても温かかった。生きた心地がした。
 ふわりと鼻を掠めるシャンプーの香りさえ愛しく思えた。
「………みわこ、さん」
 涙声になった自分の声が情けない。…―悔しかった。悲しかった。辛かった。
「うん」
「みわこさん」
「…………うん」
 僕の背に回された彼女の腕が嬉しくて、心地よくて、それなのにどうしてひどく悲しくて。この温かさがなくなったら、もう自分は立てない気がした。
「大丈夫よ、大丈夫。あなたはとても優しい人だもの。みんな、分かってるから。誰もあなたをきっと―責めたりしない」
 宥めるように言われた言葉に更に涙が溢れた。泣くまいと思っているはずなのに止まらなかった。母親の胸で泣く子供よろしく、声に出して泣いてしまう。


 そんな僕を、美和子さんはただずっと、励ましてくれていたような気がする。



***



「少しは落ち着いた?」
 どれくらいそうしていただろうか。やっと僕の目にはっきりとものが映り始めたころ、美和子さんがそう訊いてきた。
 僕はゆったりとした動作で美和子さんを解放し、向き合うかたちに戻した。
「はい…」 よくよく考えて見れば、大胆にも情けないことをしたもんだ。男らしいとは程遠い。 「すみませんでした。その…急に泣き出したりして」
「―もっと泣いてくれてもいいのよ?」
 くすり、冗談半分といったように美和子さんが笑って言った。そして、そんな風に言った美和子さんの目も泣きはらしたことがありありと分かるほど赤い。
「…ありがとうございました。少しは、落ちついたみたいです」
 深々と頭を下げた。こうせずにはいられなかったのだ。 
「やーね。礼なんていらないわよ。私こそ渉くんにみたいに大したこと言えなくてごめんさいね」
 はて、自分はなにか言っただろうかと思い当たる節を探してみる。見当たらない。
 なんだろうと首を捻っていると、もう忘れちゃったの、と美和子さんに軽く額を突かれた。
「人は死んだら、思い出の中でしか生きられないって言ったのは渉くんでしょ」
 ああ、それのことか。ようやく合点がいった。
「…私はね、背負わなくていいと思うの」 少し間をあけてから、美和子さんがそう言い始めた。 「渉くんのその考え方、私はすごくあなたらしいって思う。だけどね、なにも伊達さんたちみんなの責任をね、あなた一人で抱えようとはしないで欲しい―――そうも思うわ」
 息が、出来なかった。瞬きすら、忘れる。
「思い出でいいの――渉くんに覚えてもらえてるだけで、それでみんな幸せだと思うわ。私も…私も覚えててあげるから。伊達さんもナタリーさんも、きっとその思い出の中で生き続けてくれるはずよ?」
 また涙が出そうになった。今度こそ唇をめいいっぱい噛んで、涙を引っ込める。



 悲しくて、切なくて、苦しくて、悔しくて。だけど、美和子さんの言葉が、温かくて、嬉しくて、言葉にできないほど優しくて。
 僕はただ、頷くことしかできなかった。


続きを読む

コメント(0)




back next

[このブログを購読する]



このページのURL

[Topに戻る]

-エムブロ-