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10年前の記録


あの時、私は柏崎に住んでいて被災した。

はじめての土地、はじめてのひとり暮らし、はじめての仕事。
不安ばかりで過ごした3ヶ月を終え、ようやく落ち着いてきた、そんな頃だったと思う。

あの日は、よく晴れていて、起きたばかりの頭で、今日は何をしようかとベッドで考えている時だった。
学生時代の友達から久しぶりにメールが来ていて、お互いの就職先の話になって、冗談半分で「原発に何事もなければ会えるね」なんて笑ったあとだった。
遠くで赤ちゃんの泣く声が聞こえた。
犬も鳴いていた。
地鳴りの直後、世界が揺れた。
ただただ衣装ケースが倒れないように抑えていることしかできなかった。
長い揺れだった。
死ぬかと思った。
心臓が早鐘のように、とはあのことだ。
浅い呼吸を繰り返し、見渡す。
蛍光灯は落ちているし、テレビも転がっている。
別の衣装ケースは引出しが落ちてひび割れている。
キッチンでは倒れた冷蔵庫の上に電子レンジが乗っていた。
ガスコンロはホースを支えに台からぶら下がっていた。

車は、車庫に置いてあったサッシが倒れていて、後ろにちょっと傷が付いたけど、それだけで済んだ。
車を出してアパートの前の空き地に座って、冷凍庫から引っ張り出したモナカのアイスを食べる。
しばらくアパートを眺めていたけど、どうにもならないので、近くの集会所に行った。
避難所の受付名簿に名前を書いて、ホールに入る。近くにいた年配の女性から手作りのおにぎりをもらった。一人でいる若い女を心配してくれたのだろう。
しばらくすると同僚から電話が来た。大丈夫なのか。どこにいるのか。現状を伝えると、ひとまず会社に来いとのこと。
通勤経路は道路が隆起していたけど、通れないほどではなかった。
会社でどう過ごしたのかは覚えていない。

夜になって、一人でいるのも怖いし、あの部屋に帰っても休めないから、小学校に泊まった。電気も水も使えたので、大して不自由はなかった。校舎は綺麗で、それだけで安心感があった。

翌日の朝には救援物資が届いていたと思う。
ただ、ツナマヨのおにぎりしかなかった。以後何食かはツナマヨだった気がする。またかよ、と同僚と笑いあった記憶がある。有難さに変わりはない。
昼過ぎに両親が何時間もかけて、水と食料を持って来てくれた。
母親の肩に触れて、ふた粒だけ泣いた。上司に見られたのは恥ずかしかった。

小学校での避難生活は快適だった。
両手で数えられるくらいの世帯しか避難していなかったからか、みんな協力的で優しかった。
給水車も来るし、食事も決められた時間に届く。自衛隊のハンバーグの缶詰は美味しかった。三食しっかり食べるから、ひとり暮らしで落ちた体重が余裕で戻った。
お風呂は近くの温泉施設が無料で開放していた。自衛隊のテント風呂に入れなかったのは今でもちょっと残念に思う。贅沢で傲慢だ。

アパートは黄色い紙が貼ってあったので、何度か物を取りに行った程度だ。
小学校には2週間くらいいた。その後は職場近くの集会所に10日ほど。

働き始めの小娘は、この間、見知らぬ人とのコミュニケーションを学んだ。
自分から行動しなければ何も得られないことを学んだ。
明るくなった、と他部署の先輩に言われた。
最初会ったとき大丈夫かコイツ、と思ったらしい。

上司にさっさと住むとこ決めろと言われたので、お盆休みを期に引っ越した。
市内はどこもいっぱいで、同僚に紹介してもらった郊外のアパートだ。
自分で何もかもやらなければいけないのに、一人では生きていけないのだと何度も思った。

震災は大変な被害だったし、実際私も被災したけど、あの経験があったから今の自分がいると思う。
不幸自慢はキリがないし、比べるものでもないけれど、私は恵まれていたと思う。
本当に恵まれていた。
だって、今、こうして書き出すことができるくらいになったもの。
すごく拙い文だけど。

忘れていることも多くあると思う。
思い違いももちろんあるだろう。
でも、私はあの時の、揺れた直後の息苦しさを忘れないし、避難所の朝、小学生の女の子があいさつと共に渡してくれたお味噌汁を忘れない。

恐怖と絶望と感謝と喜びを忘れない。絶対に。
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