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タイトルなし


昨日久々に会ったぢりさんの破壊力がわりと半端じゃなかったのだけど一日経っても頭から離れないやりとりがこれだ。


尻「ウチらあのクソださいベスト(高校の制服)頑なに着なかったよね」

私「なにがあっても着なかった」

尻「他のクラスの調子乗ってる奴らが集会とかでベスト着てるの見て『お前らは所詮その程度か』って思ってたわ」

私「普段イキってるくせに着ちゃうあれなー、その点我々の頑なさ」

尻「あの頃のウチら最高にロックだったわ」



あ の 頃 の ウ チ ら 最 高 に ロ ッ ク だ っ た わ

タイトルなし


自分が一番苦しいとき辛いときにいつもそばに居てくれたのは自分だけなのにどうして自分のことを信用してあげられないのか。
頼りにはしてるよ。
いつも甘やかしてくれるからね。
ただ甘やかしてくれるいつでも私の味方でいてくれるところは評価できるけどそれだと信憑性がないというか。
やっぱり信用するに価しないよね。
私のことを評価してくれて適度に甘やかしてくれつつ優しさだけではなく時に厳しさもチラリと見え隠れする性格のそこそこ悪いお金持ちなら信用しちゃうのに。
私はいつか自分にぶっ殺されるんだろうなぁ。
自分の中に自分の逃げ場をつくれるところは我ながら高く評価してる。

タイトルなし


目標が明確じゃないと病んでしまうと思った。
例えば自分が音楽の道に進みたいとして、びーずの稲葉さんみたいになりたいと思っても具体的にどうなれば稲葉さんみたいになれたことになるのかというあれがはっきり決まっていないと成果すら見えてこないじゃないですか。
自分が今どのくらい目標に近づけているのか全くわからない状態で頑張り続けるのは不可能でしょう。
そんな危うげな目標よりも「○万枚CDを売る!」とか「年間テレビ出演○本!」とか明確な数字を決めたり、そうい目に見えるような目標の方がいいのではないかと。
ただ明確な目標は今現在の自分の状況を痛いほど目の当たりにするものだから挫折の引き金にはなるだろうな。
私はどうするかな。
とりあえずキョウリュウジャーが楽しみだから目標とかクソどうでもいいかな。

タイトルなし


自分の中になんとなくもう1人自分がいる。
普通に生きて生活をこなしている自分と脳内にひっそりと住んでいて普段は特に何もしないけど生活をこなしている自分の心が折れたときに慰めてくれる自分。
たぶん私だけじゃなくてわりとみんな脳内にもう1人住んでると思うんだけど。
そのもう1人が甘すぎるのも私の敗因の一つなんじゃないかと最近感じる。
私の心が折れるもしくは折れかけるとそいつは「お前は悪くないよ頑張ってるよ偉いよ」「よし、もう心折っちまえ!諦めようぜ!」と絶対に「もうちょっと頑張ろう!」みたいなことは言わないから。
甘やかしてくれるから図に乗って堕落する。
だから好きだよ。
鬱になってしまう人はたぶん脳内に住んでいる奴に「お前ならできる頑張れ!諦めるな!投げ出すな!」とか言われて弱りきった心をぶん殴られてしまったんだろうなあ。
厳しいですなぁ。

タイトルなし


幸せになるためにはそれなりの努力をしなければならないということは今までの人生でそれなりに理解してきた。
私は努力を怠りたい。
努力を怠って幸せになりたい。
だから各自今持ち合わせている努力値を持ち寄って寄せ集めてそれなりの幸せを手に入れませんか。
チンカス人生を歩んでいる人間でも数人分の今までの努力を全て持ち寄ってこうギュッてまとめたら幸せになることを許されるくらいにはなるんじゃないかな。
それを仲良く分け合おうよ。
頼むよ。
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