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古泉←キョン

「何度もお伝えしてますが」
溜息混じりに吐き出した。同時に彼の肩がびくりと震える。
「僕の気持ちは変わりませんよ」
空を仰いで、なんて残酷なことを伝えているんだろうな、と客観的に考える。けれど、これ以外の選択なんてあるはずもないし、用意できるはずもなかったから。仕方ないのだと言い聞かせる。
くっ、と喉の奥が鳴った音が聞こえた。高校生男児がこのようなことで嗚咽を漏らすなど理解不能だ。諦めてしまえばいいのに。諦めてくれよ。
僕だって、これ以上悪者になりたくない。
彼を見た。僕と同い年の彼を見た。いつもなら目線よりやや下の彼の後頭部が、もっともっと下に見えて、そんなに項垂れることかよと呆れる。ここまで固執されるほどの魅力が僕にあるなんて到底思えない。これもまた理解不能だ。
「そんなに」
空は青いな、と思った。秋晴れ。雲の輪郭がはっきりしていて、遠くて遠くて、泣き出してしまいそうだ。還る場所のような、そんな哀愁を胸にしまってから声を吐き出す。
「僕の気持ちが欲しいですか」
彼がぱっと顔をあげたのが視界の隅で見えた。そして間髪入れずに、
「欲しい」
少しだけ裏返った声が僕に向かって真っ直ぐ届く。希望を孕んだ瞳に僕が映って吐き気がした。理解不能。
「そしたら…そうですね、涼宮さんとお付き合いしてください」
「…は?」
「あなたが彼女にアイラブユーと伝えた回数分だけ、僕もあなたに同じ言葉を返しましょう」
肩を寄せてね、と付け加えると、死にそうな顔をした彼の泣き出しそうな瞳と目があった。夏を繰り返した夜に冗談めいた提案を思い出しているのだろうなと考えながら、僕は微笑む。
「安いものでしょう?」
「そん、な…」
「続けてみたら、案外その気になるかもしれませんし」
ね?と優しく問い掛けたら彼の瞳から一粒だけおおきな涙が転げ落ちた。なぜ泣くのか。僕の提案は、あなたが欲しいと必死になっていたそれを手に入れるチャンスなのに。…まあ、もちろん、僕の気持ちが傾ぐことはないと思っているし、あわよくばアイラブユーと囁き続けた彼が彼女に傾いてくれれば本望なのだけれど。
「そこまで」
「?」
「そこまでしないと、お前の気持ちは手に入らないのか」
胸を押さえてぐうううと唸るその姿を見ながら、やっと形になった声を聞き付ける。小さく小さく項垂れてゆく彼の姿が見えない。堪えられないと言ったように奥歯を噛み締めるような音まで聞こえて。
…僕は何か間違ったのだろうか。
世界は青い。眩しい。救いようがない。
届かないんだ。どんなに焦がれても。どう足掻いてもそこには辿り着けやしないのだ。
「頑張ってください」
小さく小さく小さくしゃがみこんだ彼の肩をぽんと叩き、その場をあとにする。
この感情があなたに揺さぶられて変化したとき、見える世界は変わるのだろうかなんてことを考えながら。そんな未来など要らないと自嘲して。瞬く間に形を変えていく白い雲を眺めていた。

古泉×キョン

では、バイトがありますのでこれで。
そう言った僕を、彼は「バイト?なんのだ?」とでも言いたそうな顔で見ていたけれど、そのまま静かに扉を閉じた。怒りでどうにかなってしまうかもしれない、と思ってから、そんな感情が残っていたのかと我ながら驚く。同時に無我夢中で廊下を駆け抜けた。
この廊下はこんなに長かっただろうかと自問しながら、同時に、連続で発生してる閉鎖空間の気配を察しながら向かうべき場所へ急いだ。
「古泉」
――そんな数時間前のことを思い起こしていると名指し。
顔を上げると、この中で一番偉そうな――実際に偉いのだが――同僚がこちらをじろりと睨んで、溜め息を吐いたところだった。
僕のような末端が『転校生』というだけで興味を持たれたことについて、お偉いさん方は納得いかないらしい。そんなの、僕だってそうだ。業務命令をきっかけに睡眠不足に繋がってるこっちの身を案じてほしい。
彼女が『謎の転校生』を欲していた事実を知っていればあのタイミングで投入していたのは僕ではなくもっと優秀な誰かだったであろうに、と思う。一仕事終えたあとの会議、連日続く出動で少し疲れが出てしまったことを許してほしいとも思う。欠伸を噛み殺して、笑顔を繕った。

今日の涼宮ハルヒについて報告して、閉鎖空間と精神状態の関係性についての考察や、今後の方向性等の検討を終えた頃にはとっくに日付が変わっていた。
よくもまあ、毎日毎日話す議題があるものだと感心する。お偉いさん方が羨ましい。僕は今から家に戻り、明日の準備をして、眠らないといけないのに。あくまで僕はアルバイト。身を粉にして働く意味など到底見つからない。
そんなことを思って三年。状況が悪化して一ヶ月。よく分からない不安に押し潰されそうになって十日。そろそろ限界だと悟って、三日。死んでしまいたいし、殺してしまいたいし、壊してしまいたいと思って、数時間。
だって、おかしいでしょう?僕の人生は、僕が主役だ。他の誰かに、ましてや僕を壊してゆくその女性に、奪われてるなんて。間違っているでしょう?
早く帰ればいいのに、と理性が叫ぶ。明日も学校だ。アルバイトも控えてるだろう。そして解散は日付が変わる頃で、完全にルーチン化している日々をまた繰り返すはずだろう。
だから、帰ればいいのに。
「古泉」
先程と同じように名前を呼ばれた。振り返った先には森さんが居た。心配そうな顔をして僕を見ていて、その視線に込められた意図を理解する。けれど、僕は敢えて何も言わず軽く会釈してその場を離れた。
――はやく、帰ればいいのに。
なのに僕は何かに取り憑かれたように向かう。タクシーに乗って暫く。住宅地に向かう。
無駄だと知っても、呪わずにはいられない。なにかあれば自分の身に降りかるはずだが、構っていられない。
タクシーのドアを閉める音が響く。こんな時間だ、当たり前だ。
去っていくタクシーを気配を背後で感じながら顔を上げる。バイト先で『鍵』と称される人の家は変わらずそこに在って、寝静まったであろう電気の点かない平和なそこを見ていたらふつふつと何かが沸いてきた。
――健やかに、眠っているのだろう。僕の気も知らないで。
死んでしまいたいし、殺してしまいたい。何もなかったことにしたい。僕が居なくなったあとの世界なんて、知るものか。
呪いを込めて睨み付ける。無意味な行動。もう限界だった。限界だった。
限界だった。
「……古泉?」
僕を知る人の居ない静かな静かな住宅地で、確かに聞こえたのは僕の名前。顔を上げたら、声の主が遠かった。無意識にしゃがみこんでいたことに気付き、相手を見上げる。
「……なにを、してるんです?」
「こっちのセリフだが」
自宅の門の向こう側に立ち、眠そうな顔でこちらを見ている彼が後頭部を掻きながら言い放つ。「夢じゃないよな?」と問うので、「さあ」と誤魔化した。
まるで閉鎖空間のような、静寂の中。彼の存在だけがそこに在った。
「何してんだ」
「アルバイトの帰り、ですよ」
「こんな時間にか?」
「人手不足で」
「高校生だろ」
「……」
笑えているだろうか。声が震えてないだろうか。人気のない暗い通りでよかった。きっと酷い顔をしている。独りの闇に現れた彼を救世主と思って安堵しているわけではない。憎くて憎くて、どうにかなりそうな心を必死に抑え込む僕は、きっと酷い顔をしている。
しゃがみこんだままだと気付き、慌てて腰を上げる。
「体調悪いのか?」「少しだけ」「今から帰るのか?」「ええ」
そんなやりとりをして、なんでここに居るんだろうと思った。早く帰ればよかったのにと後悔した。会いたくなかった。会うはずないと思った。心臓が痛い。
「なあ」
背を向けてまた明日と伝えるその前に、彼が小さく提案した。

さっきまで俺が寝てた布団で悪いけど、そう言った彼がベッドを簡単に整える。僕はそれをぼんやり眺めて、何が起こってるんだろうと冷静になれない頭を叱咤した。拭いきれなかった滴が視界に映る。
「あとは、明日はこれ着て……って、髪の毛まだ濡れてるぞ、ちゃんと拭けよ」
「……あなたはどこで寝るんです?」
「俺?……は、まあ、ソファだな」
僕の濡れた髪の毛をがしがしがしとタオルで力強く拭く。確かこの人には妹が居たっけなと調査書を思い出しながら、まるで兄弟のようなそれがこそばくて目を閉じた。
どうしてこうなったんだっけ、と先程のやりとりを思い出す。
――帰ろうと挨拶しようとしたのだが、彼のほうが声を発するのが早かった。
「なあ、うち泊まるか?」
その提案は素直に僕の鼓膜に届いてくれず、理解するまでにかなりの時間を要したと思う。泊まる?誰が?なんで?と自問自答を繰り返し、その問いが本当に僕に向けてのものなのか考え、そして。
「今から家に帰っても満足に休まらんだろ」
門が開かれる音がした。恐る恐るそちらを見ると彼が僕の腕を掴んだところだった。
「いや、僕は」
「正直に言うとお前のことなんて知らん。俺が、お前のことを気にかけて一夜を明かすのが嫌なだけだ。大人しく泊まっていけ」
――そうして、今に至る。
「ソファだなんて風邪ひきませんか?」
「濡れたまんまの頭のほうが風邪ひく気がするけどな」
ン、と満足そうな声がして彼が離れた。しっかりと水分が抜けた髪の毛が軽く感じる。
「んじゃ俺は下に居るから、なんかあったら起こせよ」
おやすみ、と背を向けた彼が扉の向こうに消えていく。
「あの!」
「なんだよ」
「なんで、……僕が居るって気付いたんですか」
絶望の縁に居た僕に降った声を辿ったあの瞬間。眠そうとは言え、意識が覚醒して暫く経ったような姿を思い出す。暗闇ではっきり見えたその姿は、どう考えても寝起きではなかった。
「最近……」
「最近?」
「いや、……タクシーが、停まったなって。音で、目が覚めたんだよ」
そう呟いた後、再び「おやすみ」と言って部屋から出ていく姿を見送ってから、僕も大人しくベッドに潜った。
もう少しで夜が明ける。明るくなる。そんな気配を全身で感じ、目を閉じる。
つい数時間前まで五感が死んだかのようだった。目が映すもの、聞こえるもの、匂いや触れるもの全てがくぐもっていた気がする。霞がかった世界の中ではっきりと聴こえた言葉は……なんとネガティブな思考回路だったことか。思い出してもぞっとする。
ベッドに沈む体。家で眠るとどこまでも落ちていきそうな錯覚になった。でも今日は違う。僕をしっかりと受け止めて眠りへと誘う。
『正直に言うとお前のことなんて知らん』
ぶっきらぼうなその言葉に隠された優しさを見つけてしまった。僕の腕をきつく掴んだ優しさを、知ってしまった。
憎くて、憎くて。憎くて憎くて憎くて、仕方なかったのに。僕の――正確には涼宮さんの――平穏を乱すあなたが、許せなかったのに。
彼に、伝えよう。僕がここに居る理由を。僕が、何をしているのか。何のために存在しているのか。――あなたに、何を求めているのか。
ベッドから僅かに香る彼の匂い。久しぶりに自分以外の存在を感じ、気が付いたら意識を手放していた。

その日は、とてもよく眠れたと記憶してる。

「ん……」
「起きたか?」
見慣れた天井を見つめてから声を主を見ると、こちらに背中を向けた姿を見付けた。不機嫌そうな彼の髪を撫でる。
「すみません、また眠ってましたね」
「うちに来るといつもそうだ」
「落ち着くんですよ、あなたの匂いが」
ふーんと興味の無さそうな返事。髪を撫でる手に少しだけ力を込めると諦めたように振り返ってくれた。
「じゃあ今度は古泉の家行く」
「是非いらしてください」
マーキングみたいだな、と笑う。僕も笑う。
忙しくて目まぐるしかった日々が落ち着くに比例して、僕の精神もなんと穏やかになったことかと思った。
「古泉」
「はい」
僕を呼ぶ声が甘く響く。触れるだけのキスをして、笑い合った。闇のなかに居た時は、僕の名前を口にする存在が疎ましくて仕方なかったのに。クラスメート、教師、アルバイト先の同僚、……SOS団のメンバーすらも。僕の何を知っているのかと、笑いたくなった。あの日々を今は懐かしく思う。
その変化を一番喜んでくれる森さんが、「よかった」と言ってくれたことを思い出した。あの夜、アルバイトが終わって無意識に彼の家に向かう僕の名を呼んでくれた彼女は「このまま帰ってこないのではないかと心配していた」と言った。「彼とこうなったのは《機関》として喜ばれることではないが、それでもよかったと思う」と、普段からは想像できないような声色で。
「あ、」
「なんだ」
「ひとつ、思い出したことを聞いてもいいですか?」
懐かしい夢を見た中で思い出したことがあった。
「あの日。僕が居るとなぜ気付いたのか、と聞いた時。何かを言いかけてましたよね」
「……あ、あー」
「何を言いかけたのかなぁ、と」
ベッドに横たわったままの僕を覗き込むようにしていた彼が目線を泳がす。上半身を起こして、今度は僕が彼を覗き込んだ。「いや、うん……」とまごつく彼の頬を撫でる。
「あの日、だけじゃないだろ」
「え」
「何日か前からお前がうちの前に居たのは気付いてたんだよ。夜中に車が停まる音で目が覚めて、それから毎日……、死にそうな顔してる古泉に気付いてた。何も言わないほうがいいと思って黙ってたけど」
彼を撫でていた手がぴくりと震える。
「……そ、うだったんですね……」
「でもさすがにあの日は、本当にしんどそうだなって思ってたら、しゃがみ込むもんだから。あー、これはやばいなって」
思ったら家に泊めてた。と彼は続けた。
黙々と世界を呪った日々を。彼は気付いてくれていたのか。森さんだけでなく、僕を案じてくれる存在が居たのか。それを気付かず、ただひたすらに全てを憎んでいた僕の、なんと愚かなことだろう。
「言うつもりなかったんだけど」
「いいえ、知ることができて嬉しいです。あなたが気にかけてくれたことが、物凄く嬉しいですよ」
僕の言葉を聞いた彼が優しく笑んで、「泣くなよ」と言った。「なんて幸福者なのだろう、と思ったんです」と返したら、僕の頭をがしがしがしと力強く撫でた彼は、
「お前が生きててくれて良かったよ」
耳元で囁いて、微笑んでくれたのだった。


【西風に寄する歌】
「If winter comes, can spring be far behind ?」
今は不幸であるけれど、それを耐え忍べば、やがて幸せは、きっとやってくる、 ということのたとえ

古泉×キョン

「どこか遠くへ行きたい」
と、右から聞こえた。
俺はちらりとそちらを見て、「どこへ」と聞いた。
肩にもたれる古泉が顔を伏せる。表情が見えなかったが、繋がれた手がきつく握られたことで、聞き間違いではないことや、彼なりの勇気であったり懺悔であったりといった複雑な気持ちを汲み取った。
「遠くか……」
点いていたテレビを消して、呟く。静かになった部屋で思いの外声が響いて驚いた。
ふと見た窓の外。陽が長くなったなと思った。先日までこの時間は真っ暗だったのだが。なんだか得をしたような。そうでもないような。
……遠く。遠くね。
財布の中の残金を思い描く。お世辞にも裕福とは言えない高校生だ。たかが知れてる。
大人なら、もっと簡単にこの世界から逃げ出せたのだろうか。明日を怖がるくらいなら、と逃げてしまえたのだろうか。
「よし、行こう。遠くへ」
それでも俺は、今、大人になりたい。
背伸びしている自覚はあったけれど、隣に居るこいつが漏らしたのだ。たかが知れてるとしても、どうにかしてやりたいと思うものだろ?
立ち上がり、古泉の手を取る。少し赤い眼が「どこへ?」と問うていたが、笑って誤魔化す俺にそれ以上は何も言わなかった。
まだ肌寒いはずだと上着を羽織り、手を繋いで部屋を出る。
いつもなら外で手を繋ぐなんてこと絶対にしなかったが、構わなかった。
じわじわと暗くなる世界に溶け込むように、息を潜めて駅への道を進んでいく。少し遅れてとぼとぼと歩く古泉の歩幅に合わせて、進んでいく。
桜が咲いていた。数時間前に降っていた雨のせいでほぼ散っていたが、それでもしがみついて花を開く姿を目に焼き付ける。足下のピンク色は、ぎゅっと踏むと茶色く滲んでしまった。
駅のホームに着くと見計らったかのように小豆色の電車が滑り込んだ。時間帯のせいか人は疎らで、ふたり分空いた席に並んで座る。手は、繋いだままだ。
慣れ親しんだ音が体を揺らす。家を出る頃はまだ明るかった空が、いつの間にか夜を告げていた。電車から見た景色の中に煌々と光る病院を見付けた。冬の日を思い出した。
振り返る。真っ暗な海が口を開けているかのように広がっていて、俺たちの未来のような気がして怖くなった。
電車に揺られて暫く。目的地に向かうために乗り換える。
街に近付くにつれて人が増えた。人混みではぐれないように突き進む。この間、ふたりの間に会話など一切無かったが、何も思わなかった。繋いだ手から伝わる温度が俺に委ねてくれているのだと分かる程度には、一緒に過ごしてきた。
――こんなに人が居るのに、どうして俺なんだろうか。などと馬鹿馬鹿しい疑問を己に投げ掛ける。どうして古泉なんだろうか。どうして、他の人じゃ駄目だったんだ。
「着いた」
遠くへ、連れていけたらよかった。俺がお前を知っていて、お前が俺を知っているだけの、そんな所へ行けたらよかった。無力だと思った。悔しくて、悔しくて。でも、どうにもならないと思った。
「……はは、……綺麗、ですね」
目の前に広がる光の粒。雨が降った後の澄んだ空気に反射して、いつも以上の煌めきがあった。春の風が俺と古泉の間を抜けていく。
「すまんな、こんなとこくらいしか思い浮かばなくて」
「嬉しいですよ、とても」
着いたのは、少しだけ遠出しただけの、夜景が綺麗だと有名な海辺。
ゆらゆらと揺れる光を見つめる古泉の横顔が優しく笑んでいた。瞳の中にキラキラと光る粒を閉じ込めて、静かに。
握ったままの手に力を込める。古泉がこちらを見て、今度は意地悪く笑った。
「いいんですか?外ですよ?」
「少しだけな」
周りにはカップルが居て、幸せそうに夜景を眺めていた。俺たちと何ら変わらない、想い合う二人組。
ずるいなと悲しくなった。何も悩まず与え合えるのが、ずるい。
こつん、右肩に重みがあった。家でそうしていたように、古泉がもたれていた。
「明日から、頑張りますよ」
「……ン」
「大丈夫です。笑えます」
自分に言い聞かせるような声。「ああ」と一言だけ返す。周りの気配を感じなくなって、ふたりだけのような錯覚。ただ感じるのは、俺の右側にある存在だけ。
このまま続けばいいのになんてことを思ったし、祈った。
「あ、あそこで何かしてますね。大道芸でしょうか?」
「……ほんとだ」
「行ってみませんか?せっかくのデートですし」
手を引いて、「ね、いいでしょう?」と言いながらまるで子どものようにはしゃぐ。デートね、デートか。たまには悪くないかもしれない。
「仕方ないな」
どこからか、桜が舞った。それが俺の足元にふわりと落ちる。
踏まないように避けて、古泉の隣に並んだ。
――明日、俺たちは二年生になる。






【花冷え】桜が咲くころに寒さがもどること。その寒さ。

古泉←キョン

 5人の団員内訳。女子3人、男子2人。性別が違えば話題も違う。趣味も違う。部活動の中で特に不具合はないが、必然的に同性での絡みが増えるものだろうと思う。
 雨の気配を感じた夕方。部室前の廊下でぼんやりと外を眺めていた。じわじわと迫る梅雨の気配にげんなりする。
「何を見ているんです?」
 声が聞こえた。俺は振り返らずに「べつに」と一言。奴が隣に並んだ。俺の視線の先を探ろうと窓の外を見ているようだった。
 団員のうちの、男子2人。こうやって隣に並ぶことが多々ある。それに比例して、少しずつ会話が増えてゆく。
 ハルヒと並ぶことはあまりないな、と考えた。何故なら、彼女は我が道を突き進む。俺はそれについていく。そんな関係だからだ。
 長門とはどうだろうか。どちらかと言うと、俺が一歩前を歩くことが多い気がする。黙々とついてくる長門がはぐれていないかと振り返るような、そんな。
 朝比奈さんとは? 小さな歩幅に合わせて並んで歩く。背の小さい朝比奈さんの隣で歩く。目が合うとにこりと笑ってくれる朝比奈さんは可愛らしい。
 ……閑話休題。
 ちらりと隣を見る。俺の視線に気づいた古泉がこちらを見た。8センチ差の身長が忌々しくて眉を寄せたら、「あの?」と心配そうな声を漏らした。
 隣に立つと目線は少し上。一緒に歩くと歩幅がほぼ同じ。とくに合わせる必要のない、同性は気が楽だ。
 じ、と見つめていたら古泉の眉がハの字に下がった。顔が整っているとそれすらも様になるのだな、と納得したところで、
「もういいわよ!」
朝比奈さんの着替えが終わったようで、ハルヒの合図が廊下に響いた。

 

 足元がぬかるんで歩き辛いったらありゃしない。そんな時期がやってきた。
 通学路の坂道が更なる試練を設けてきたのかと谷口が悪態をついていたことを思い出した。傘を持ち続けた右腕がしんどい。これがいつまで続くんだ。梅雨明けはまだだろうか。見晴らしがよい高台に位置する北高から景色のよさを取ったら魅力も半減するというものだ。
 そんなことを考えていたら見慣れた姿を見付けた。
「古泉」
 呼ばれて振り返る古泉に挨拶をしてから、気付く。
「寝癖か?」
 右後頭部。いつもしっかりと身なりを整える副団長にしては珍しい、ぴょこんと跳ねた髪の毛を指して俺は問うた。え? と驚いた声を漏らす古泉に、ここだよと触れてみせる。
「ああ……本当ですね。お恥ずかしい……」
 右手で押さえつけるようにして寝癖を隠す仕草が意外で、胸中で少しだけ笑ってしまう。傘を差しながら、鞄を邪魔そうに持ちながら、不器用に直そうとする。梅雨だからな、と言うと古泉は苦笑した。
 昇降口に着くと生徒が各々に自分のクラスの下駄箱へと向かう。俺たちもそれに倣って、「また放課後」と声を掛けた。
 離れていく背中を何となく見送っていると、傘を閉じた分自由になった右手で寝癖に触れたのを見た。さっきは胸中でこっそりと笑っていたのに、今回は声を出して笑ってしまう。授業が始まるまでに直すのだろうかと考えるとなんだか楽しくなった。
「なに笑ってるの?」
「不気味だぞキョン……」
 振り返れば国木田と谷口がいて、俺は慌てて誤魔化す。何か楽しいことでもあったのかと質問をくらいながら、視界の端で古泉の姿を探した。けれど、もう見えなかった。

 

 ふとした瞬間に思い出す。見晴らしなんてないのと同じ、梅雨の最中のような黒い世界で。青くて、馬鹿みたいに大きいそれから逃げた日のこと。
 ――アダムとイブですよ。
 ――産めや増やせやでいいじゃないですか。
 名案だとでも言うような溌剌とした声を思い出す。創世神話に出てくる、赤いリンゴを持った蛇が実際に居たらこんな感じなのではなかろうかと考えてしまった。その道が正しいのだと唆すような台詞が腹立たしかった。
 球体になった彼が赤い残像を俺の網膜に焼き付けて消えてから。青い奴の悪意を持った破壊から逃げながら。後ろの席の、我が儘な団長の肩を寄せながら。
 望む世界の在り方を、考えていた。
 知恵をつけた男女は追放された。気付いてしまった俺は、どこへ行けば赦されるのだろうか。
 一つだけ分かることは、無力なうちは選択肢など無いに等しいということ。
 世界は、彼女を中心にして回っているということ。

 

 夏になり、七夕を迎え。
 学校が休みになると、旅行して。終わらない夏休みを駆け抜けた。
 二学期が始まり、相も変わらず団長の無茶な要望に応える日々。
 たった数ヶ月――合間の638年と110日は抜きにして――で自分の感情などとっくに認めた俺だったが、月日が経つのに比例して偽りを演じ続ける恐怖に負けそうになっていた。
 旅行の時に同じ部屋で眠ったり、夏の催しに――団員全員居たとはいえ――参加し、SOS団の活動の度に会って、小さなことを積み重ねてゆく。些細なそれらは俺の決意を鈍らせてく。
 そして、今日。
「涼宮さん、お上手でしたね」
 周りは五月蝿いのに、こいつの声だけはよく聞こえる。
 顔をあげて声の主を見ると、人混みを掻き分けて一歩前を進む古泉もこちらを見ていた。その仕草にどきりとする。
 見慣れない格好のせいで一瞬誰だか分からない。
 体育館で隣に並んでいた時からどうしても意識してしまう。衣装だけでなく、雨で濡れた髪の毛までも貧血のような眩暈を起こすには充分だった。
 堂々としているから舞台に映えるんでしょうね、とか。多才な女性ですよね、とか。なんとか。言っていたけれど、どこか遠くで響いているようで、頭に入ってこない。
 前を歩く古泉と一定の距離を保って歩くのに精一杯でいたら、返事をしない俺に不思議に思ったのか奴が俺の前に立って顔を覗き込んできた。喉の奥が鳴って一歩後ずさる。
 どうかしましたか? そう苦笑する古泉から逃れるように、俯く俺。
 体育館から出て行く人の波が少なくなって、遠くから聞こえる文化祭のざわめき。そこに混じって雨の音が鼓膜に響く。すぐ近くに人の気配があるのに、現実味のない古泉の衣装が平衡感覚を狂わせた。
「お前も、」
「え」
「堂々としてたから、よかったよ」
 先ほど見た舞台の感想を素直にくちにした。見慣れないその姿に心臓が五月蝿いなどとは言えなかったが、精一杯の気持ちのカケラを声に出してみた。
 文化祭のこの空気がいけない。仲睦まじく歩く男女の雰囲気に充てられたことを認めよう。
 古泉は、俺の言葉に驚いたような表情を見せたあと、
「ありがとうございます」
そう言った。
 視線の先には笑顔。胡散臭い、いつものそれではない、ただの笑顔。
 気付いている。無力なうちは、選択肢など無いに等しい。気付いている。
 なのに、どうしよう。
「こ、いずみ」
 くちの中が渇く。絞り出した声は掠れていて、酷く滑稽だ。
 足を前へ、手を、伸ばす。びくり、と跳ねた古泉の腕を取ろうとしたところで。
「教室、戻るわ」
 頭の中で過った台詞が、理性を繋ぎ止めてくれた。いつの日か、世界は崩壊するのだと言った言葉の重み。望む世界の在り方を。
 大丈夫だろうか。いつも通りだろうか。
 こんなにも心が叫んでいる。ぼんやりと立っている古泉の横を通る今のこの瞬間にも、早鐘は止まらないというのに。
 忌々しいと思う。無力な自分が、忌々しい。
 崩れる音だけが聞こえてくる。

 

 寒い朝。布団から這い出て、白い息にげんなりした。
 指折り数えて、もう半年。梅雨を間近に感じたあの廊下の気配をまだ覚えている。
 俺の世界は変わらない。無力な日々も変わらない。振り回される毎日は続いてる。
 ただひとつを除いて。
 凍てつく風が頬を刺す。俺はハルヒに会いたかった。ハルヒに会いたくて、息ができなかった。
 エンターを押して、選んだ未来を後悔なんてしていない。アダムとイブだと喩えたこの世界に戻ることを後悔なんてしていない。俺が求めた世界は、皆が求めるそれだったけれど、知ったことか。
 ハルヒ特製の鍋を囲んでクリスマスを終えると、少しずつ決心が固まってくるというものだ。
 古泉が剥いてくれたリンゴを食べたあの日。この世界の中心である彼女を、俺の世界の中心に配置することはできないと思った。痛感した。目が覚めて一番に視界に映ったのが、古泉でよかったと思った。
 ――5人の団員内訳。女子3人、男子2人。1/4の確率を選ぶなら、ハルヒでもよかった筈なのにな。どうして、同性の古泉だったのだろうか。どうしてだろうか。彼が命を懸けて護ろうとしているものを、壊そうとしているのは分かっているのに。
 どんなに繕っても、どこからか綻んでゆく。そんな未来しか見えない。学ランに身を包んだ他人行儀な古泉を見て崩れそうになったことを、知らないふりしたくないと思った。
 改変後の世界。ハルヒの機嫌取りをしなくて済む世界。古泉とも関わらず生きていく世界。……無意味だ。
「どう足掻いても、世界の崩壊の危機を迎えるな」
 自嘲気味に呟く。寒い部屋にこだました俺の声が、白い息とともに消えてゆく。
 ……それならいっそ、終わりにしてくれたほうがいい。人知れず世界を護るお前のくちで、罵ってくれたほうがいい。受け入れてくれなくてもいい。
 この気持ちを持ち続けたまま、平然な顔して隣に並ぶのは嫌だ。
 携帯電話を手にした。着信履歴に名前を見つけて、この時は何を話したっけと思い出しながら、発信する。呼び出し音が鳴って、まるで終わりに向けてのカウントダウンのようだ。積み上げてきたものが崩れていく音がする。
 少し高い目線。とくに合わせる必要のない歩調。ぴょこんと跳ねた寝癖。几帳面なように見えて、どこか隠せてない本性。動揺してリンゴを剥きすぎてしまうところ。
「あー、休みのところすまん。俺だが……いや、まあ……たまにはいいだろ」
 声が震えてないだろうか。終わりに向けて全力疾走している自覚はあるが、止まらないから、仕方ない。
 赦してくれよ、この世界の神様よ。今だけ、崩壊がどうだとかを忘れさせてくれ。気が遠くなる時間を覚えていた長門がああなってしまったんだ。ただの人間の俺はそんなに強くない。
 窓の外は曇天。及ばぬ恋を聴いてくれないか。そしたら後は、俺の役目を全うすると誓うからさ。

スマイル

おたんじょうびおめでとう!


2014
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