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「何度もお伝えしてますが」
では、バイトがありますのでこれで。
「どこか遠くへ行きたい」
5人の団員内訳。女子3人、男子2人。性別が違えば話題も違う。趣味も違う。部活動の中で特に不具合はないが、必然的に同性での絡みが増えるものだろうと思う。
雨の気配を感じた夕方。部室前の廊下でぼんやりと外を眺めていた。じわじわと迫る梅雨の気配にげんなりする。
「何を見ているんです?」
声が聞こえた。俺は振り返らずに「べつに」と一言。奴が隣に並んだ。俺の視線の先を探ろうと窓の外を見ているようだった。
団員のうちの、男子2人。こうやって隣に並ぶことが多々ある。それに比例して、少しずつ会話が増えてゆく。
ハルヒと並ぶことはあまりないな、と考えた。何故なら、彼女は我が道を突き進む。俺はそれについていく。そんな関係だからだ。
長門とはどうだろうか。どちらかと言うと、俺が一歩前を歩くことが多い気がする。黙々とついてくる長門がはぐれていないかと振り返るような、そんな。
朝比奈さんとは? 小さな歩幅に合わせて並んで歩く。背の小さい朝比奈さんの隣で歩く。目が合うとにこりと笑ってくれる朝比奈さんは可愛らしい。
……閑話休題。
ちらりと隣を見る。俺の視線に気づいた古泉がこちらを見た。8センチ差の身長が忌々しくて眉を寄せたら、「あの?」と心配そうな声を漏らした。
隣に立つと目線は少し上。一緒に歩くと歩幅がほぼ同じ。とくに合わせる必要のない、同性は気が楽だ。
じ、と見つめていたら古泉の眉がハの字に下がった。顔が整っているとそれすらも様になるのだな、と納得したところで、
「もういいわよ!」
朝比奈さんの着替えが終わったようで、ハルヒの合図が廊下に響いた。
足元がぬかるんで歩き辛いったらありゃしない。そんな時期がやってきた。
通学路の坂道が更なる試練を設けてきたのかと谷口が悪態をついていたことを思い出した。傘を持ち続けた右腕がしんどい。これがいつまで続くんだ。梅雨明けはまだだろうか。見晴らしがよい高台に位置する北高から景色のよさを取ったら魅力も半減するというものだ。
そんなことを考えていたら見慣れた姿を見付けた。
「古泉」
呼ばれて振り返る古泉に挨拶をしてから、気付く。
「寝癖か?」
右後頭部。いつもしっかりと身なりを整える副団長にしては珍しい、ぴょこんと跳ねた髪の毛を指して俺は問うた。え? と驚いた声を漏らす古泉に、ここだよと触れてみせる。
「ああ……本当ですね。お恥ずかしい……」
右手で押さえつけるようにして寝癖を隠す仕草が意外で、胸中で少しだけ笑ってしまう。傘を差しながら、鞄を邪魔そうに持ちながら、不器用に直そうとする。梅雨だからな、と言うと古泉は苦笑した。
昇降口に着くと生徒が各々に自分のクラスの下駄箱へと向かう。俺たちもそれに倣って、「また放課後」と声を掛けた。
離れていく背中を何となく見送っていると、傘を閉じた分自由になった右手で寝癖に触れたのを見た。さっきは胸中でこっそりと笑っていたのに、今回は声を出して笑ってしまう。授業が始まるまでに直すのだろうかと考えるとなんだか楽しくなった。
「なに笑ってるの?」
「不気味だぞキョン……」
振り返れば国木田と谷口がいて、俺は慌てて誤魔化す。何か楽しいことでもあったのかと質問をくらいながら、視界の端で古泉の姿を探した。けれど、もう見えなかった。
ふとした瞬間に思い出す。見晴らしなんてないのと同じ、梅雨の最中のような黒い世界で。青くて、馬鹿みたいに大きいそれから逃げた日のこと。
――アダムとイブですよ。
――産めや増やせやでいいじゃないですか。
名案だとでも言うような溌剌とした声を思い出す。創世神話に出てくる、赤いリンゴを持った蛇が実際に居たらこんな感じなのではなかろうかと考えてしまった。その道が正しいのだと唆すような台詞が腹立たしかった。
球体になった彼が赤い残像を俺の網膜に焼き付けて消えてから。青い奴の悪意を持った破壊から逃げながら。後ろの席の、我が儘な団長の肩を寄せながら。
望む世界の在り方を、考えていた。
知恵をつけた男女は追放された。気付いてしまった俺は、どこへ行けば赦されるのだろうか。
一つだけ分かることは、無力なうちは選択肢など無いに等しいということ。
世界は、彼女を中心にして回っているということ。
夏になり、七夕を迎え。
学校が休みになると、旅行して。終わらない夏休みを駆け抜けた。
二学期が始まり、相も変わらず団長の無茶な要望に応える日々。
たった数ヶ月――合間の638年と110日は抜きにして――で自分の感情などとっくに認めた俺だったが、月日が経つのに比例して偽りを演じ続ける恐怖に負けそうになっていた。
旅行の時に同じ部屋で眠ったり、夏の催しに――団員全員居たとはいえ――参加し、SOS団の活動の度に会って、小さなことを積み重ねてゆく。些細なそれらは俺の決意を鈍らせてく。
そして、今日。
「涼宮さん、お上手でしたね」
周りは五月蝿いのに、こいつの声だけはよく聞こえる。
顔をあげて声の主を見ると、人混みを掻き分けて一歩前を進む古泉もこちらを見ていた。その仕草にどきりとする。
見慣れない格好のせいで一瞬誰だか分からない。
体育館で隣に並んでいた時からどうしても意識してしまう。衣装だけでなく、雨で濡れた髪の毛までも貧血のような眩暈を起こすには充分だった。
堂々としているから舞台に映えるんでしょうね、とか。多才な女性ですよね、とか。なんとか。言っていたけれど、どこか遠くで響いているようで、頭に入ってこない。
前を歩く古泉と一定の距離を保って歩くのに精一杯でいたら、返事をしない俺に不思議に思ったのか奴が俺の前に立って顔を覗き込んできた。喉の奥が鳴って一歩後ずさる。
どうかしましたか? そう苦笑する古泉から逃れるように、俯く俺。
体育館から出て行く人の波が少なくなって、遠くから聞こえる文化祭のざわめき。そこに混じって雨の音が鼓膜に響く。すぐ近くに人の気配があるのに、現実味のない古泉の衣装が平衡感覚を狂わせた。
「お前も、」
「え」
「堂々としてたから、よかったよ」
先ほど見た舞台の感想を素直にくちにした。見慣れないその姿に心臓が五月蝿いなどとは言えなかったが、精一杯の気持ちのカケラを声に出してみた。
文化祭のこの空気がいけない。仲睦まじく歩く男女の雰囲気に充てられたことを認めよう。
古泉は、俺の言葉に驚いたような表情を見せたあと、
「ありがとうございます」
そう言った。
視線の先には笑顔。胡散臭い、いつものそれではない、ただの笑顔。
気付いている。無力なうちは、選択肢など無いに等しい。気付いている。
なのに、どうしよう。
「こ、いずみ」
くちの中が渇く。絞り出した声は掠れていて、酷く滑稽だ。
足を前へ、手を、伸ばす。びくり、と跳ねた古泉の腕を取ろうとしたところで。
「教室、戻るわ」
頭の中で過った台詞が、理性を繋ぎ止めてくれた。いつの日か、世界は崩壊するのだと言った言葉の重み。望む世界の在り方を。
大丈夫だろうか。いつも通りだろうか。
こんなにも心が叫んでいる。ぼんやりと立っている古泉の横を通る今のこの瞬間にも、早鐘は止まらないというのに。
忌々しいと思う。無力な自分が、忌々しい。
崩れる音だけが聞こえてくる。
寒い朝。布団から這い出て、白い息にげんなりした。
指折り数えて、もう半年。梅雨を間近に感じたあの廊下の気配をまだ覚えている。
俺の世界は変わらない。無力な日々も変わらない。振り回される毎日は続いてる。
ただひとつを除いて。
凍てつく風が頬を刺す。俺はハルヒに会いたかった。ハルヒに会いたくて、息ができなかった。
エンターを押して、選んだ未来を後悔なんてしていない。アダムとイブだと喩えたこの世界に戻ることを後悔なんてしていない。俺が求めた世界は、皆が求めるそれだったけれど、知ったことか。
ハルヒ特製の鍋を囲んでクリスマスを終えると、少しずつ決心が固まってくるというものだ。
古泉が剥いてくれたリンゴを食べたあの日。この世界の中心である彼女を、俺の世界の中心に配置することはできないと思った。痛感した。目が覚めて一番に視界に映ったのが、古泉でよかったと思った。
――5人の団員内訳。女子3人、男子2人。1/4の確率を選ぶなら、ハルヒでもよかった筈なのにな。どうして、同性の古泉だったのだろうか。どうしてだろうか。彼が命を懸けて護ろうとしているものを、壊そうとしているのは分かっているのに。
どんなに繕っても、どこからか綻んでゆく。そんな未来しか見えない。学ランに身を包んだ他人行儀な古泉を見て崩れそうになったことを、知らないふりしたくないと思った。
改変後の世界。ハルヒの機嫌取りをしなくて済む世界。古泉とも関わらず生きていく世界。……無意味だ。
「どう足掻いても、世界の崩壊の危機を迎えるな」
自嘲気味に呟く。寒い部屋にこだました俺の声が、白い息とともに消えてゆく。
……それならいっそ、終わりにしてくれたほうがいい。人知れず世界を護るお前のくちで、罵ってくれたほうがいい。受け入れてくれなくてもいい。
この気持ちを持ち続けたまま、平然な顔して隣に並ぶのは嫌だ。
携帯電話を手にした。着信履歴に名前を見つけて、この時は何を話したっけと思い出しながら、発信する。呼び出し音が鳴って、まるで終わりに向けてのカウントダウンのようだ。積み上げてきたものが崩れていく音がする。
少し高い目線。とくに合わせる必要のない歩調。ぴょこんと跳ねた寝癖。几帳面なように見えて、どこか隠せてない本性。動揺してリンゴを剥きすぎてしまうところ。
「あー、休みのところすまん。俺だが……いや、まあ……たまにはいいだろ」
声が震えてないだろうか。終わりに向けて全力疾走している自覚はあるが、止まらないから、仕方ない。
赦してくれよ、この世界の神様よ。今だけ、崩壊がどうだとかを忘れさせてくれ。気が遠くなる時間を覚えていた長門がああなってしまったんだ。ただの人間の俺はそんなに強くない。
窓の外は曇天。及ばぬ恋を聴いてくれないか。そしたら後は、俺の役目を全うすると誓うからさ。