スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

8組のこと



文化祭からひと月たって、
文化祭がもっと遠くなってしまう前に、
やっぱり書きたくなったので、
いまさらだけど書きます。



わたしは、今年の夏が始まってから、去年までの夏とは、なん…か、なにかがちがう感じでした。
こんなことを思っていたのはすごく身勝手なことなんだけど、平としては、自分がいなくても、全然成り立つと思っていました。もちろん、自分がいなきゃだめなんだ、なんて思ってるのも、それはおこがましいけど、この考えもずるくて勝手。能力のあるひとは、それを最大限に活かしている、毎日こつこつ来て、自分のできることをしっかりやってるひとはまわりにたくさんいる。でも自分が行ってもたいした力にならないしいいや――っていうような、逃げ道をつくってたのかもしれない。
その考えにぶらさがって、チーフとしての役目もちゃんと果たしてなかった。

チーフとして、やるべきことをやり遂げていなかったのに、自分がんばった気になってもう仕事終わりにしちゃったくせに、あとになって、現在進行形でがんばってるひとの前でなにもわかってないのにえらそうなことをいって、勝手にしんどい顔をする。
……

「5月にチーフになるって決めたときから、文化祭が終わるまでは、チーフとして走り続けなきゃいけない責任がある」
って言葉を聞いたとき、わたしにはその責任が、足りてなかったことを痛感しました。そんなんだったのかとあきれられそうです。そのとおりです。

わたしは責任のある行動をしてなかった。それで失敗すると、自分はだめだ、ごめんなさいと謝る、だけ。謝罪じゃなくて、その後をどうするのかということが求められているのに、結局わたしはまた、謝ることに逃げて、自分ではなにもしなかった。こうやっていま書いてることだって、うっとうしい懺悔文にしかならないし、こういうひとことも余計だとか思ってしまう。

そして、「海の底」からひきあげてもらったとき、よしがんばらなきゃ――って思ったあとの自分が、はたしてその前より変われたのか、わからない。

だから結局、もういいよ、って水に流してもらうしか、手立てはないのかもしれないです。

でも、ほんとうに確かなことが、あります。

蒸し返すようだけど、わたしは、8月24日に、「きみぼくがすきではない」と、いいました。よくもあんなことを、いますぐにでもあの日の自分を投げ飛ばしたいとか思うことはいろいろありますがあえて書きません。
でも、それから、わたしは きみがいた時間ぼくのいく時間 が、すきになっていきました。……ということはつまり、それまではすきじゃなかったということを認めることになりますが、あの日わたしがそう口にしたことは、やっぱり事実です。言い訳するのはやめます。

ただ
わたしは、3800の「きみぼく」がすごくすきだ
ということは確かだと思うんです。

三年見せで他クラスの劇をふたつ見てきたとき、まわりが号泣してる横で多少ぐっときても、ほとんど泣かなかったのに、
8組の三年見せのとき、いちばん激しい「あのシーン」で、暗幕係やりながら舞台袖で演技の声を聞いているだけでも、涙がふつうに出てきたんです。
白々しいかもしれないけど、ほんとうでした。

わたしがすきになっていった理由のひとつには、暗幕係は大きく影響してるかもしれません。演技こそ見られないけど、舞台の真横で劇を感じられる場所にいさせてもらいました。キャストのひとたちがいつもすごく近くにいました。裏方のひとたちの見えない仕事を知りました。自分が知らなかった、わかってなかった劇のかたちをおしえてもらえた。だから、クラスの一員としてすごくしあわせな仕事でした。

でも脚本としては、
最後の最後まで、セリフやシーンをカットしたり言い方を変えたり暗転をなくしたり……振り回し続けました。わたしがすごく後悔したのは、一文や言葉単位のカットをしたときです。キャストのひとが自分のセリフを自分から短くしてくれて。そんな編集は脚本がいちばん最初のころにもっとやっておくべきだったはずでした。特にキャスト演出には死ぬほど申し訳なかったし、最後まで会議を開いていた演出と脚本に感謝しています。

それでも、文化祭の二日間はほんとうに楽しかった。
直前まで改変が重なった脚本でも、キャストも照明も音響も最後までやってくれたし、外装はめっちゃ素敵だったし、垂れ幕なんてどこよりもいちばんよかったし、劇見られないのに少し離れた大会議室で整理券配ってくれて、これまた劇見られないけど衣裳大道具で黙々と仕事しているひとがいて、その一員でいられたのがうれしかった。

「乱闘シーン」のクライマックスで、照明が赤くなるのと、曲のいちばん盛り上がるところと、演技とが、ぴッッッたりあったときは、ほんとうに鳥肌もので、鼻高々でした。それから、最終公演が終わったあとの内装公開。現代から過去への場転を見たのははじめてで、まさか、あの暗闇の中でこんっなにすごいことをやっていたなんて知らなかった。他のクラスには絶対まねできない。あの場転を見たときすごく誇らしかった。それだけじゃなくて、8組の劇は、全部、わたしの誇りだ――って思う。
ほんとうにうちのクラスの劇は最高です。こころから、そう思います。

だから、賞のことは、悔しかったのかどうか、よくわからない。「他のクラスには興味ないんだ」ってひとがいってるのを聞いて、自分でも、確かにそうだなって思ってたからなのか、8組の劇は賞以上のものがあるって思ってたからなのか。でも、アカデミー賞が発表されたとき、少し涙出てきました。悔しいからってわけじゃないのに。そのとき、何度も開いた脚本会議のこと思い出してました。会議で、この劇でほんとうにいいたいことって、なに? って最後まで考えて、当初脚本が考えてたよりもずっとずっと深いものに行き着いたというか、気づかされました。その会議も含めて、8組のやってきたものはたしかなものなんだ、まちがってなかった、って思ったら、涙が出てきた。最終公演が終わったあと、スパイラルポーズで写真をとったことも、8組にしかない、最高の瞬間だったって思ったら、涙が出てきた。

なぜだか泣けてしまったけど、こころの底からそう思いました。わたしは迷惑をかけてしまったけど、そう思えた8組が、全部ひっくるめてすきです。わたしは8組がほんとうにすきです。8組でよかった。しあわせだ。


振り返ると、思い出すのは、しんどかったこと心苦しかったこと、そして迷惑かけたことばかり。ここで一度だけあやまります。8組のみんな、ごめんなさい。
でもそういうことを多く思い出しても、やっぱり出てくる言葉はたのしかった。っていうこと。ほんとうにたのしかったことがたくさんありました。8組でひと夏、最後のひと夏、乗り越えられたことがほんとうにうれしいです。


ありがとう、っていうの恥ずかしいけど、
8組のみんなありがとう。


言葉の足りていない
こんなわたしの文章を
最後まで読んでくれてありがとうございました。


 




2011年10月10日 13:07pm
3826 はぎやかおり

←prev next→