ベロニカの虜03
高校の授業も終わり、学校から駅へ向かうための長い長い坂を下る。
首筋にかいた汗が肌をつたいぽつりと落ちた。今日はいくら夏にしても、ここ数日よりずっと暑い気がする。
むせ返る温度が足元から鼻先へと立ち込めて、セミの泣き声が渦を巻いて意識を持っていかれてしまいそうだった。
ーージジジジジジジ!!!!
「わあああ!?」
「ひゃあああ!?」
知らず一歩踏み出すと、アスファルトに横たわっていたセミがバタバタと回り出した。
それに驚いたリリィは声を上げ、ユーリィは怯えてリリィに抱きつく。
「せ、せ、せ、セミか…!」
「ふふ、ユーリィ、こわいの?オレに抱きついて。男の子なのに」
リリィがにこりと笑うとユーリィが顔を真っ赤にして、バッと体を離した。
「ちが…!驚いただけだし!」
「へーーぇ」
頬をつんつんとつつくとユーリィはむくれて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
そして、息絶えるだろうセミに視線を落とす。
「こいつ…もう死ぬんだよな」
「そうだね。……ユーリィ?」
ユーリィは思うところがあるのか、何か考え込んでいる。
死んでひっくり返って、からだは蟻に千切られて羽の一枚まで全て食糧に。
土に還るものなんて何もない。
「死ぬのがこわい?」
リリィがユーリィの顔を覗き込んだ。
金色の瞳が夏の空を反射してきらきらしている。
「違うよ。……オレは」
「ユーリィは?」
「……なんでもない。暑いから早く駅に向かおうよ」
リリィはユーリィに隠し事をしている。
そしていま、リリィはユーリィも自分になにかを隠しているのだと思った。
先に歩き出した友人を追う。先ほどのセミが地面を転がることは二度となかった。
「やあ、こんにちは」
「……………………」
目の前でにこにこと片手をあげて挨拶をしてくる男をリリィは呆然と見ていた。
駅までついて、近くのドーナツ屋の前に彼はいた。一週間前に駅でぶつかった相手ーールイだった。
「リリィの知り合い?」
「知り合いっていうか……」
状況が飲み込めずリリィが視線を彷徨わせる。
「リリィくんっていうんだね。連絡先渡したのに全然連絡がなかったからここにいたら、また会えるかなあって思って」
こんな暑い日に、来るかどうかもわからない一度会っただけの他人を待っていたのだと言う。
「連絡先って…しかも待ち伏せされるくらい、リリィなにしたの…」
「なにもしてなくはないけど、してないよ!ああーでもオレのせいで彼女さんと別れたとかなって怒ってんのかなあー」
「なにそれ、修羅場じゃん…」
ふたりはルイから離れてコソコソと話す。
しかし、ルイはそれも気にせずぐいぐいと距離を詰めてきてまた話しかけてきた。
「きみは…リリィくんのお友達?」
「えっ、あっ、はい」
「リリィくんがよかったらそこのドーナツ屋でお茶でもしようと思ってたのだけど…一緒にどうだい」
うーーん、とユーリィは考えてから、ドンっとリリィの背中を突き飛ばしルイへと押しつけた。
「オレは用事あるんで、リリィとふたりで」
「ちょっと、ユーリィ!?」
「ごめーん、オレ今日は好きなブランドの新作のお洋服買いに行くんだ」
ユーリィは女装癖があり、制服の時以外は女の子の服を着ている。女の子になりたいわけではなく単純に可愛いものが好きなのだということだ。
以前リリィがユーリィの家に遊びに行った時も部屋はピンクを基調に可愛らしい小物やフリルとレース、ぬいぐるみで部屋は彩られていた。リリィが可愛いからいいんじゃない?と言うと、ユーリィは安心したような嬉しそうな顔で笑った。
「あうううう、ユーリィの薄情ものー!」
「お洋服は仕方ないだろ!?ちゃんと謝れよ。じゃ!」
バイバーイとお洋服を前にご機嫌そうに大きく手を振るとユーリィは足早に駅の構内へと消えていった。
「そっか、用事があるのか…。リリィくんは大丈夫?」
大丈夫じゃないけど、こんな暑い中、自分を待ってた彼の言い分くらいは聞いた方がいい気がしてーーそれにこれ以降もこんな風に待たれていたらたまらないので、一緒に店へはいることにした。
「いらっしゃいませー」
店内は冷房がきいていて、汗ばんだ身体にとても気持ちが良かった。はあ、とひとつリリィが息を吐く。
「リリィくんはなにを食べる?」
「あ、自分で取るからいいです」
エンゼルクリームを3つトレーにのせてレジへ並ぶとルイがトレーをひょいと取り上げる。
「あ……」
「飲み物は?」
「……アイスミルクティー」
「うん。じゃあ席に座って待ってて」
言われた通り席に着く。
この店はたまにリリィの通う高校の生徒のたまり場になるが、店内を見渡す限り今日はいないようだった。
奥の方に一組、カウンターにふたりいるだけだ。
「おまたせ」
「あ…ありがとうございます」
渡されたアイスティーにミルクとガムシロップを入れて混ぜる。カラカラと氷のぶつかる音がした。
「あの後びしょ濡れで大丈夫だったかい」
「特に困らなかった、です」
「本当?ならよかったけど……」
制服をクリーニングに出してる間ジャージ登校になったけれど、それは特に問題ではなかった。
「ルイさん…でしたよね」
「ルイでいいよ、敬語も使わなくていいし。俺たち先輩後輩でもないからね」
リリィは目を丸くする。
相手は社会人だろうか。歳が離れている気がするが、敬語に慣れてないリリィとしては願ったりだった。
「えっ…じゃあ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
「ルイはあそこでなにしてたの?オレに用って…やっぱり怒ってるの?」
「怒る?」
りんごパイを持ったルイが首を傾げた。
「オレとぶつかったせいで彼女さんと喧嘩になってたから…それで…」
「うん、別れちゃった」
あはは、とルイが笑う。
やっぱりかあ、と気まずくなったリリィが目を逸らしてアイスミルクティーを飲む。
「でも、リリィくんとぶつかったのは関係ないんだよ」
「え?」
「サクラちゃん…元カノさんね、ちょっと前からあんな感じで。単純に俺が愛想尽かされちゃっただけってことなんだよ」
ルイは特に悲しそうな感じでもなく、にこにことしている。
ホットコーヒーに一口つけて続けた。
「昔からそうなんだよね」
「昔から?」
「気づくと振られちゃうんだ。まあ、そんなことはいいとして。待ち伏せみたいになってしまって驚いたよね、ごめんね」
「驚いたけど…別に……」
「クリーニング代は?」
「たいした金額じゃないから」
「払わせてほしいな」
「いまドーナツおごってもらってるもん」
自分の身体で稼ぐことをどうと思ったことはなかったが、その金を使ったことでルイに払わせるのはなんだかいやだった。
にこにこ笑うルイがきらきらしてみえた。
それからしばらく、他愛のない話をしてそろそろ、となったときだ。
「あ、そういえばリリィくんって」
「リリィでいいよ。オレもルイって呼んでるし」
「…じゃあリリィはどこかでバイトってしてる?」
ちょっと答えに詰まって、でも咄嗟に「してない」と答えた。
「本当かい?俺のバイト先で人探してるんだけど気が向いたらおいでよ。本屋だから時給安いけど」
「バイト…本屋の…」
「あっ、でも、高校生だと校則で禁止だったりするかな」
「禁止じゃないっ」
気付いたら父親と関係を持たされていて、身体を売ることを当たり前に教えられてきたから、それ以外の方法でなんて考えたこともなかった。
「でも…なんで」
「うん?」
「なんでもないや」
「店長には俺から連絡しておくけど、一応面接なんかはあると思うから」
どうしてそんなにオレに良くしてくれるの?という問いは飲み込んだ。なんだか思いあがってるようで。
単に人手の足りないバイト先に人を紹介するだけのことだ。
でも、こうやってちゃんとバイトして学校いって…そしたらオレもこんな風にきらきらできる?
そんな風に思ってしまう。
今度こそ連絡先を互いに交換して、別れた。
するとリリィのスマートフォンが着信を告げる。以前関係を持った男からだった。
体の血が一気に冷めて、こころが平坦になっていくのを感じた。