双極性の痛みにさえ(クジャジタ/現パロ)


等間隔に並んだ街灯の光がゆらゆらと揺れている。大通りに面したファミリーレストランの灯りは白く、夜の真っ暗闇にまるで異質なもののように浮かんでいた。

「あー、腹減ったあ……いただきますっ」
「まったく、どうして僕まで」
「だって、どうしてもここの油淋鶏が食べたかったんだよ」

嬉しそうなジタンとは対照的に、クジャは不満そうな表情をしている。
胡麻とラー油のソースをかけながら、ジタンは鶏肉を口いっぱいに頬張った。
兄弟たったふたりで暮らしている彼らの役割分担は非常にはっきりしている。
料理や洗濯は学生のジタンが、車を出したり時折、弟の保護者の代わりをするのが社会人のクジャ。
今日はジタンがどうしても夕食を作る気になれず、また、どうしてもこの店の油淋鶏が食べたい気分だったため、仕事から帰ってきたクジャに車を出してもらい外食の運びとなった。
しかしクジャは食事は注文せずに飲み物だけをたのんで、それに口をつけている。
彼が好んで訪れるのは予約をしていなければ入れないような、いわゆる高級店だ。
大衆向けの飲食店に入ればこうなることはジタンも予想の範囲内で、いつものことだ。
面倒な兄だなあ、とジタンは内心愚痴る。

「勿体無いな、クジャは。こんなに美味いのに」
「まるで油の塊だ」
「はいはい。お前は夕飯どうすんの」
「適当に済ませるよ」

家事全般はジタンがしているが、クジャも決して出来ないというわけではない。
ジタンが父と妹と暮らしていた家を出てクジャの元へやってくるまで、彼はひとりで暮らしていたのだから。
ただ、クジャの料理はどこか味がなくて、見た目こそきれいにできているがなんだか本当に食事をするためだけに作ったような、ジタンには物足りなく、それならば自分がと役割を買って出たのだった。
ストローを口に咥えながらジタンはふと気がつく。

「お前ってさ、こういうとこのご飯は絶対食わないだろ。よくオレの料理を毎日文句言わないで食べてるよな。絶対に外で食べるご飯の方が美味いと思うぜ?」

言われたクジャが少し目を開く。

「確かにそうだね」
「否定しないのかよ」
「否定してほしかった?」
「別にー」

メロンソーダをぶくぶくとすると、クジャに行儀が悪いと窘められた。
つまらなそうに目をそらしたジタンにクジャが続けたが、それは独り言のようだった。

「さて……どうしてだろう」

口元に手を当て、目を伏せたクジャは本格的に考え込んでしまった。
後ろの席の家族連れが食事を終え、レジへと向かったので子どもの高い声が遠のいていく。客はまばらで、離れた喫煙席の方に何組かいるだけだ。

「そんなに考え込むことか?単純に慣れてるってだけだろ」
「………」

ジタンとしては特に何か意図があって言った言葉じゃなく、ただなんとなく訊いただけのことにクジャが考え込んでいるのがなんだか落ち着かない。

「クジャってば」
「……キミだからだ」
「…ん?」
「ジタンだからだ。言われてみれば僕は食事以前に他人と暮らすこと自体がうんざりだ。でも、キミがいるなら悪くないと思う」
「…クジャ…?」
「…僕はキミのことを愛しているのだろうか」

ガッシャーンと音を立ててジタンが手に持っていたフォークを落とした。

「行儀が悪いよ、ジタン」
「おっ……お前が変なこと言うからだろ!?」
「僕だって不思議な気分だ」
「はあ!?意味がわからない」

替えのフォークで、ジタンはできるだけクジャの言葉を気にしないように食事をすすめたが顔が熱くなってしまって、あれだけ食べたかった油淋鶏の味も分からなかった。



帰りの車では何を喋ったのか思い出せなかった。どうでもいいテレビの話をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。
鍵を開けたマンションのドアは少し重い。
リビングへは行かず、自室へ戻ろうとしたジタンの腕をクジャが掴んだ。

「クジャ?なん……」

身長差があるため屈んだクジャがジタンに口付けた。驚いて半開きのままの咥内に舌をいれて、歯列をなぞる。

「ん……っう、んー!」

ハッとしてジタンがクジャを押し返すと、クジャはジタンの腕を引いて更に強く囲い込む。

「…ふっ…はあ、あ…っ」

口付けを止めると、うっすらと涙を滲ませた目で信じられないとでも言いたげに見上げてくる。
ジタンから非難の声が上がる前に、クジャは弟の手を引いてそのままジタンの部屋のベッドに押し倒した。
電気の点けていない暗い部屋で月明かりが薄い涙の膜をぬらりと光らせる。

「お前…っ、なにして…!?」
「気付きたくなんてなかったよ」
「なに……」
「ジタンが僕の元へ来た時に、あの男からひとつ奪ってやったと、そう思った。それ以外はなにもなかったんだ」

クジャの言うあの男、とは父のガーランドのことだ。
ジタンが物心ついたときには、ふたりの関係は酷く冷たいもので互いが互いの存在を認めていないかのように、そこに無いものとして振舞っていた。
まだ幼かったジタンはそれが恐ろしくて……そこで気付く。どうしてそれが恐ろしかったのだろう。なんで。

「……クジャ」

自分に覆いかぶさっている兄の名を弱々しく呼んで、袖を握った。
耳元で鳴るように煩く鼓動が脈打つ。息を吸っても肺の浅いところまでしか空気がいかないようで息が苦しい。
なにか、自分は言葉を続けようとしている。その言葉がわからない。けれども喉が鳴って声を発した。

「ごめ…な、さ……い…ッ」

そう言うとジタンの大きな両目から涙がぽろっと溢れた。
忘れていたビジョン。それもこんな暗い部屋だった。暗い部屋で今よりも幼い兄と、今よりも幼い自分がこんな風に。じんじんと痛む頬が熱を持って、シャツの下を這う手は冷たくて。

「うわあぁああ!」

足をバタつかせて必死に頭を振るジタンをクジャが押さえつける。

「何か思い出したのかい?」

そう問うクジャが喉奥でくつくつと笑った。

「知らない…!」
「そうだ、僕だって知りたくなかった。ジタンがあの日のことを封じ込めてしまったようにね。……まさか僕がキミを好いているだなんてそんなこと」

クジャがジタンの首に手をかける。
あたたかい肌の下で血がどくどくと流れている。手に力を込めるとジタンが小さく呻いて、クジャの手を外そうと爪を立ててくる。
そんな些細な抵抗に、生きてる、と思った。
そんな些細な抵抗を、絶ってしまいたいと思った。

「だったら僕は、なんのためにキミと暮らしているんだ」

絞り出すような声だった。
苦しそうで、首を絞められている自分よりもずっと苦しそうな声で。

「はっ…!はあ、はっ……けほっ…」

細い首から手を離す。
そうしてクジャはベッドの端に腰掛け、スプリングが軋む。
息を整えながら、ジタンがのろのろと体を起こした。
乱れた金髪が暗い部屋の中に差し込む月明かりに透かされる。
喉をさすりながらジタンがクジャへ視線をやるが、彼の表情はうかがえなかった。
クジャの横顔が滲む視界で境界を無くしていくように「あの日」の記憶が封をされていく。ただ、こわかった。

「出て行くなら好きにするといいよ。荷物は後で送ってあげるから」
「クジャ……」
「…なんだい」

ジタンがクジャの隣へ腰掛け、肩へこつんと頭を預けた。
クジャは驚いたように、ジタンへ視線を落とす。弟の手は震えていた。

「オレ……ここに居ていいんだよな」
「…どうして、そう思う?」
「オレがまだあっちで暮らしてたとき、誰もいない家に帰ったんだ。家中まっくらで、電気を点けてもなんの音もしなくて…その時、出てったクジャはいつもこんな部屋に帰ってきてるんだって思った」
「僕に義理立てする必要もなかっただろう」
「…一度だけ」
「ん」
「オレがもっと子どもの頃、迷って帰れなくなったときに探しに来てくれただろ。その時に一度だけお前がオレに笑ってくれたから…だから」
「馬鹿げてる。天秤にかけても釣り合わない話だよ」
「馬鹿でいいよ。お前と暮らして、必要とされてるって思っちゃったんだ。それが嬉しかった」
「……だったら僕はなにを憎めばいい」
「何も」

クジャはベッドサイドの机からカッターを取ると、僅かな震えの収まっていたジタンの手をとった。

「クジャ…?」

ジタンが体を硬くする。

「少し大人しくしていておくれ」

言うが早いか、切れ味の鈍ったカッターが手首を切る。傷口からプツプツと血の粒が流れて赤く染めた。
ジタンが眉を寄せているとクジャはその傷口に口付けた。

「大人しくって、お前……ッ」
「あの日も、今日も、キミを殺さなかったからいま、キミが生きている。……いい気分だ」
「……クジャも、オレも、ここにいるよ」
「信じてみたいね。……続きをしてもいいかい」
「続き?」
「口付けの続きさ」
「……それは嫌だ」
「ふふ、そうかい」

封じ込めてしまった記憶は思い出せない。
けれど、今日までの時間がほんの少しだけ互いの距離を近くしたようにジタンに思わせる。それが蜃気楼のようなものだとしても。
頬を撫でて、クジャがジタンの額にこつんと顔を寄せた。

「キミは不確かなものばかり掴んでいるね、ジタン」
「それでも、信じてみたい」

デジタルの時計が1分時間を進めて、今日が終わりに飲まれて行く。


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