ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーリミックス見てきて無事死亡しました。
笑える場面も自分に合ってて面白かったし、終盤はかなり泣いたわ。隣のお姉さんが号泣してたので遠慮せず一緒に泣いといたww

1の小説読んでから尚更、ヨンドゥがピーターのことを好きすぎて通じてないとこもどかしいと思ってたけど、ほんとの最期の最期になるまで通じてなかった不器用っぷりが愛しくて切ない。
ピーターがお母さんやおじいちゃん達から普通に愛されたことのある子どもだったからでもあるし、ヨンドゥが普通に愛されたことのない人だったからでもある、そのすれ違いがなんとも言えず心に刺さる。
ヨンドゥの愛は、大人のお店のシーンでもわかるけど、自身が愛されたことがなかったからこそ一方的に押し付けるものとなってしまっている。愛されたいということも誰より強く思っていたんだろうけど。
ピーターの愛は、ガモーラとのシーンやお父さんとのシーンでもわかるように、愛し愛されること。愛されることも愛することも当たり前だった子どもだったから。逆に言うなら、幼少期に攫われたことでピーターの愛の形はそれだけだったから、他の形がわからなかったともいえる。
その食い違いがあったから、ラヴェジャーズの他のメンバーから見るとピーターはあからさまにヨンドゥから贔屓されて可愛がられてるのに、ピーターだけはそのことに気付かなかったんだろうと思う。
とはいえ無意識では気付いてたのかなと取れるシーンも少なくないんだよなー。
1のオーブ横取り事件がそうだし、人形すり替え事件もそうだし、2ではヨンドゥが自分を愛していたと知る前からピーターの思い出の中にヨンドゥが銃を教えてくれたシーンがあるし。
もちろんヨンドゥが愛し方を知らなかったことが一番の理由だけど、攫われたことで内に子どもの自分が置いてけぼりになってしまったピーターも、どちらも不器用だったのかなと思う。

それ考えると、ヨンドゥが作中でピーターからの愛を遠回りに遠回りを重ねて確認しようとしてるシーンがしんどすぎてだな……。
エゴのことをどうだったかって聞くシーンも、メリーポピンズのシーンも、思い出すだけで胸にこみあげてくるものがある。
ヨンドゥはピーターにとってエゴがどうかを聞きたいんじゃなくて、エゴに会ってしまってから自分のことをどう思うかが本当に聞きたいことでしょ?
メリーポピンズの下り(「メリーポピンズみたいだ」「いい男か?(メリーポピンズが)」「……ああ」)も、遠回しに褒められたがってるヨンドゥ可愛いし、それに対してメリーポピンズなのにいい男だと肯定するピーターはやっぱりヨンドゥのことずっとちゃんと好きだったんだろうと思うし、なのにこじらせて二十年経ったのかと思うと心臓ねじ切れる。

ヨンドゥが愛を求めていたのはピーターとスカター及びラヴェジャーズだけだったのかな。
でも、ピーター達はラヴェジャーズ達が死後に悼んでくれたことを知っているけど、そしてよくある展開なら死ぬ直前に死ぬ人はそのことを知って喜んで逝くわけだけど、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはそれをしなかった。
ということは、ヨンドゥにとっては、最期までピーターしかいなかったまま。最期は愛する息子だけを見ながら、その息子に死んでほしくないと願われながら息を引き取った。
ヨンドゥがとても愛しげにピーターの顔を包んでじっくり見つめるところ、今思い出してもそれだけで泣けるほど気持ちがこもってた。
ヨンドゥにとっては本当に、至上の死だったんだろうなぁ……。

ピーターがグルートが何言ってるかわかってるようになってるのくそ萌えて映画館で叫びそうになったので今言わせて。か”わ”い”い”!

エンディングロールでちょいちょい「I am groot」が出てくるのスタッフ可愛いかよ。