地上デート
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壱八
(彼と別れてから丁度三週間過ぎた頃、その日は朝から塒と倉庫とを往復して既に些か疲労したような面持ち。塒へと足を運んだのは店舗へと作品を幾つか運び込む為の準備と、完成した腕時計を取りに行ったものではあるが、それ以上に体力を削いだのは待ち合わせの時間を伝える相手からのメールの追伸に添えられていた、己の弁当を求める言葉により。段々とハードルが上がっていくような彼からの料理要求には当初こそ吃驚と拒否の心が満ちたものの、再び彼の心を軟化させ罠に誘う切っ掛けにでもなれば良いと前向きに捉えることにし。倉庫の台所にて挑戦した弁当作りは困憊の末、見目の程はどうあれ食べれないものではない事は番犬に食わせて実証済み、散らかしたままのキッチンはいつかその内片付ける事と。苦労を詰め込んだ弁当は地上に置いた車の中のクーラーボックスへ詰め込み済みで、黒いワイシャツにガウンカーディガン、肩に掛けた大きめのトートバックには梱包材に包まれた新たな作品が店頭に並ぶのを待ち身を横たえるだろう)はあァ…ねみィ(待ち合わせに指定した宿の入り口横、胸元で腕を組みつつ背を壁へ預け身を傾けながら、湧き上がる
欠伸を噛み殺すでもなく大口開けて脳の換気を促すも、目尻から涙が滲むのみで眠気は払拭されず。太陽のない地下街を包む空気は肌寒いもの、直ぐにでも暖かなベッドへ飛び込みたい意識が差すも、それを塗り潰すのは久し振りに会う彼を地上の店へと引き連れる期待。友人と旅行にでも出掛けるような、わくわくとした心の昂ぶりを感じつつ。そろそろ待ち合わせの予定時間である事を携帯で確認したなら、視線は昼ほど人通りの多くはない宿街通りへと向けて、見知った姿が現れるのを探るように揺らめくだろう)


葛西雅隆

(指折り心待ちにした外出の日。無法街の保険屋として普段は長く地下に縛られる為、地上の世界は己にとって稀にしか足を運べぬ桃源郷のようなもの。街では感じられぬ自然の光や風を浴びるだけで言葉にもできぬ幸福感に包まれるほどだが、目的地が相手が作り上げた地上の城となるなら歓喜は強まるばかりで。幸いに指定した日は心地良い秋晴れになるようで、澄んだ青空を仰ぐことが出来るだろう。数日前からやたらとソワソワしていた事を同僚に不審がられたが誤魔化し、一日街を離れる為の仕事の連絡、引継はそれでも不備はなく。前夜は思考が昂ぶり過ぎてなかなか寝られないという事態に陥ったものの、寝不足気味でも頭がすっきりするのは楽しいことが待ち受けているからで。相手の店舗、依頼した時計、外の世界、そしてさり気なく要求した手作り弁当。弁当は一方的に言いつけただけで本当に用意されるかは不明であったが、相手の気まぐれな優しさに期待をすることと)…よし、(自室で身支度を整えたが、身なりは普段と変わらぬスーツ姿。一応は業務上の外出であり後からオフィスへ戻ることを考えると、気楽な私服という選択ができぬのが少々残念なところ。
肩掛けのショルダーバッグには仕事道具、悪戯道具等を詰めて、上司に言いつけられたついでの買い物メモも再度見直し。パスカード等の忘れ物がないことを確認して街へと繰り出す足取りは、普段以上に軽く、緩く綻んだ表情からも機嫌の良さが伺えるだろう。待ち合わせ場所の宿前に到着した頃、通りに佇む見慣れた姿に気がついて、自然と表情は崩れて満面の笑顔が咲き)おはようございます(相手の傍らへ歩み寄ると足を止め、弾むように軽い声音で吐いた挨拶。笑みは絶やさぬままに久し振りに対面した相手へ視線を注いでいたが、若干眠たそうな気配を察して)あれ?壱八さんも寝不足ですか?僕もワクワクしてなかなか寝付けなくて、2時間くらいしか寝てないんですよ(睡眠不足を語る割には瞳は嬉々とした輝きを帯び、顔の血行が良いのは心理的に満たされていた為。旅行前のような心地良い気の昂ぶりと、謎の体調の良さは見て取れるほどに顕著で)本日はよろしくお願いします


壱八

(道行く人影を視線で追うよう通りへと向けた視界に、見慣れたスーツ姿を見付けよう。自然と表情が緩むのを感じながら、己の居場所を示すべく緩く掲げた右手を揺らして見せ)おう、おはよう(朝故の思考の鈍りを感じていたものの、相手を眼前にすると脳に張り付く眠気も剥がれてゆく感覚を得て。しかし表情には未だ眠たげな色が滲んでいたか、それを指摘する彼もまた余り寝ていないようだったが、表情や言動からは窺えぬ程に晴れ晴れとした様子に口端を引き上げて)遠足前の小学生かよ。まァ俺も人のこと言えねェけど(彼に向けた揶揄は己自身にも跳ね返るようで、持ち物の再確認や天気、交通状況の確認等を幾度も繰り返した末ベッドに潜り込んだものの寝付けぬ夜長を過ごした挙げ句、目覚ましに叩き起こされ弁当準備に追われたのはつい先ほどのこと。滅多に出れぬ地上へ赴く今日を余程楽しみにしていたか、寝不足を語りながらも彼の表情にそれが見て取れないのを思いつつ。緩く肩を竦めて壁へと寄せていた背を離し歩みを進めようか)こちらこそヨロシク、変な事書いてくれんなよ(一応の表向きである己の身辺調査に悪戯書き
が無いよう笑いながら、足を向けるのは通り沿いの宿と香屋の合間にある地上への階段。花街で馨るような甘ったるい香りが漂えば街に点在する内のひとつの階段が近いことを物語るもので、普段は首から下げたまま服の中に隠すかバッグにしまうかするパスケースを服の内側から引き抜いて手に取りつつ、足元と天井とに蛍光灯が設置されたその階段へと足を掛けようか)アンタ、上に出ンのは何年ぶり?地下じゃア滅多に風景変わらねェが、地上ァ数年経つだけで景色もかなり変わってるだろうよ(上と下との行き来が頻繁な己からすれば普段通りの事ではあるが、地上に出れぬ彼が階段を踏むことは既に冒険への第一歩にも思えて。地下に拓かれた空間分の段差を登り切った先、通行ゲートの傍らに立つ監視員へ手に持ったパスを晒し、目視での通行許可が降りたならば次いでゲートのセンサーへと翳して一人分の幅程度の通路を無事抜け切ろう。ゲートを越えた傍ら、彼が同様に抜けるのを待つべく足を止めて)


葛西雅隆

(久し振りに対面した相手から感じられるのは、己と同じくこの日を心待ちにした様子。普段から地上とを行き来する相手には今日の行程は慣れた日常であるはずだが、それでも同じ気持ちを共有できたことは単純な歓喜を誘うもの。自然と表情は綻んだが、一応は保険契約候補者、保証人の身辺調査が名目であり、それを思い出すと頬を引き締めて)本日僕は正式な調査書を作成しなければならないので、御協力お願いしますね。そのおつもりで…(軽く流すような声音で語りながら、語尾には隠し切れぬ笑いの気配が滲むだろう。身辺調査を名目にした企みを匂わせる不穏な笑みであったが、怪しい素振りを見せたのは一瞬で、意識は直ぐに地上へと繋がる階段へと傾いて。相手の数歩後から背中を追う形で階段へ歩みを進めつつ、手繰り寄せたのは最後に地上へ出た頃の記憶。脳裏に浮かんだのは河川敷に沿って連なる鮮やかな菜の花と、優しい桃色桜の紡ぎ出す温かな光景で)…、壱八さんと出会う前、桜の季節でしたね。半年以上前かな。年に二、三回程度は外に出ていると思います(地下でも季節の変化は気温、届けられる食材によって感じられはするものの、実際に太陽の光、
風の匂いに触れなければ分からないことも多いだろう。年に数度だけの外出は一般人にとっての旅行のようなもので、そのたびに触れる景色は新鮮で胸を揺さぶる魅力的なもので。やがて階段を登った先にある管理者へ首から掛けたパスを示し、ゲートのセンサーへと翳すと無事に抜け出て相手の傍らへと歩みを進めよう。互いに本物のパスを所持し正式な手順で通行するならば特に足を止められることは無く、管理者は感情の伺えぬ事務的な態度で此方を監視するだけで。ゲートを抜けた先にある扉は地上と繋がる拠点であり、この先は様々な義務と権利で構成された法治国家。それは己にとっては異界にも等しいもので、ぞくりと背を這う高揚感に身震いつつ)僕、いつもは他の階段から抜けてるんです。この先はどこに繋がっているんですかね(倉庫宿に近いこの階段は、相手にとって利用しやすい場所に出ることが予測できよう。地上では不要となる、還らずの街を連想させる秘密のパスカードを隠すため、首から垂らしたケースをジャケットの内側へと差し込んで)


壱八

あァ、思ったより外にゃ出てんのか。今ァ紅葉がちらほら、山から下にも降りてくる頃合いだ(碌に外に出れぬと語っていたことから数年に何度かくらいの外出を予想していたものの、季節の移り変わりを感じれるほどには外の風を浴びる環境にあるらしい。半年程度と言えども地下にはない自生植物が大地を彩り季節を伝える変化は大きいもので、春には薄桃色の花を探せた桜も今や葉先から橙に染まりゆく頃合いだろうか。全て色付くには未だ些か早い時期ではあるが、空に掛かる薄い鱗雲や冬の気配を感じる前の仄冷たい風の匂いなど感じられるはず。滞りもなく互いに通行ゲートを通り抜けたならパスはウエストバッグの内側へ、彼を待つべく振り返った視線は目の前の重々しい扉へと向けよう。外界と隔絶する為に置かれた鉄扉、それを押し開いて一歩踏み出せばそこは地下と繋がる階段の管理を任された建物内部。四方をコンクリートに囲われた2メートル程度の廊下はまだ地下街の気配を漂わせたが、その先の扉を押し開けば飲食店のスタッフルームと思わしき空間へと出るだろう。同時に仄かに漂うのは、地下で感じたのとは違う甘い香り。パイの焼けた香ばしさ、果
物を煮詰めたジャムの濃い甘さ。休憩所のような装いでありながら誰もいない空間から更にドアを抜ければその香りはより満ち鼻腔を擽るはず)此処は洋菓子店。季節ごとに新作出すし、階段の目隠し程度の店にゃ思えねェくらい美味いンだぜ。(それは当初地下の階段をカモフラージュする為の店とは思わず立ち寄った場所ではあるが、自らの倉庫と程近い場所から繋がる階段が此処に出ると知ってから使用頻度が増えたのは、利便性よりもショーケースに飾られた宝石の如きデザートに惹かれた為でもあるが。店内へと抜けられる通路の反対側へと進めば裏口に通じる扉があり、踏み出た先は漸く地上の空気が満ちる外へと続くだろう)んン…今日ァ雨も降らねェし、出かけるにゃア丁度イイな(深く吸い込んだ酸素、脳内の空気を新鮮なものへと入れ替えると眠気の破片も吹き飛ぶようで。ポケットから車の鍵を取り出しボタンを押せば従業員駐車場に停められた幾つかの車の内ひとつがライトを瞬かせ居場所を主張するか。運転席側の後部座席を開けて肩に掛けたままのトートバックを転げないよう座席に置いた後、運転席のドアを開けシートへと座り。傍らの
座席へと座る相手へ横目向けて)生きたモンを運ぶのァ滅多にしねェんだがな…お代はアンタの血で良いぜ。ひひひッ…



葛西雅隆

(無法の地下街と地上とを繋ぐ路は複数存在しているものの、その全てを把握しているわけでも無く。初めて通る通行ゲート先の光景は予測付かずに若干の警戒心は沸いたものの、相手の背を追いスタッフルームらしき空間へ入る中、甘い香りが鼻腔に染み入るのを感じよう。卵、砂糖、バターの織りなす芳香は、ここが洋菓子店だと語る相手の言葉を何よりも証明しているようで。倉庫部屋から近い階段が洋菓子店に繋がるというのは、甘味を好む相手にとっては理想でもあるだろう)へぇ…、良い立地でしたね。意外とカモフラージュ店舗、良い店だったりするんですよね(地上に長期間自然に溶け込む為か、Dの管理する店舗の質は高く、表の商売だけで利益が出せる程に繁盛している事が多いようで。この店舗もどうやら、相手の舌を満足させる優良店の様子。口角がゆっくりと上がったのは、それが己にとっても好都合であった為で)良かった。僕、上司に美味しいケーキを買ってくるようにお使いを命じられていたんですよ。壱八さんのお勧めを、帰りに買っていこう(美味でないものをうっかり購入すれば無能と叱責されるが、菓子についてはそれほど興味は無く不安が残ると
ころ。ならばこの店に詳しく菓子好きな相手へ任せることを企んで。やがて裏口から抜け出た先に続いたのは、開けた駐車場。秋の澄み渡った青空から零れる光には、まだ朝の清々しさも混ざり、心地の良い空気が頬を撫でて。しばし歩みを進めて足を止めると仰ぎ見たのは、果ての無い、どこまでも広がる空の彩り。明るい自然光は人工光とは異なる波長で瞳孔に染み入るようで、瞼の裏にツンとした痺れのようなものを感じ、眩しげに双眼を細めて)は…っ…、空の青が濃い(それは久し振りに浴びた太陽の光。吸い寄せられるようにしばしその場で佇み、肺一杯に酸素を吸い込み、生き物として本能的に欲する自然の輝きを取り込んで。数十秒どこまでも続く青空を見上げた後、相手が車へ乗り込んだことに気が付き、足早にそれを追って助手席のドアを開けて)すみません。失礼します(会釈して座り込み、ショルダーバッグは膝上へ。シートベルトを装着すると、これから向かう未知なる宝島への冒険への期待に胸も高鳴るばかり。相手が運転する車の助手席に乗り込むことも新鮮で、視線はもの珍しく車内を揺れていたが、傍らから掛けられた言葉に相手へ苦笑を浮かべ)そうい
う悪さをすると、傷害罪で逮捕されちゃうんじゃあないですか?いつものノリで、僕の憧れの世界を汚さないでいただきたい(己にとっての地上は、無垢な夢憧れを抱いた美しい世界。あらゆる法律の張り巡らされた息苦しさですら非日常であり、相手の吸血行為もまた、何かしらの法によって裁かれるものであるだろう)帰りに好きなだけケーキ買ってあげますよ。それが車を出していただくお代(伸ばした人差し指を相手の唇へ重ね、軽く指先を弾きながら子供へ言い聞かせるような声音で。この程度で相手が大人しくなるとは思えなかったが、向けた笑みには疑いを掛けぬような柔らかさを保ったままで)よい子の壱八さんに納得して頂いたところで、出発しましょうか。楽しみだなぁ


壱八

(己の乗車が彼の行動を急かしたか、久し振りの空気を肺に取り込み佇んでいた彼が早急に車に乗り込む姿を見るとやや眉端垂らして緩く笑み)なンだ、まだ堪能しててヨかったのに(外界への憧憬、無垢な色。それは彼から滅多に見れぬ本意の心、味わうまま暫し待つつもりであったが助手席へと乗り込む姿を見れば緩慢と瞬いたものの。乗車賃として求めた対価は案の定却下された様子、苦笑い浮かべる彼の表情を視界端に、さも他人ごとの様に肩を竦めて見せ)合意の上なら警察沙汰にゃならねェだろうよ、通報シなきゃイイだけだ(統治国家と言えどもすべての行動を見張られている訳ではない、故に彼の言動次第ではあると語るものの己の店へと連れる程度で彼の血肉が釣れるとも思わず然して気にせぬ様子で。寧ろ唇へと指先が触れる感触と共に告げられた提案には、眉根を跳ねさせ瞬いて)店のモン全部、って注文スんの夢だったンだ。まさか好きなだけ買って貰えるとァ…(代わりに差し出された対価への言葉を勝手な解釈で受け取ろう。現実的に考えて了承を貰えるようなものではない事は明確ではあるが、もしそうなれば帰りに上司への
手土産を買うというお使いは非達成に終わるだろう、それは己の欲を優先するよりも単なる彼への悪戯心でしかなく。触れられた部位の感触を舐め取るように唇へ舌を這わせつつ薄ら笑い。やがて発進した車は駐車場から抜け公道へと曲がるだろう、道の両側へと連なる公孫樹の葉は青黄に色付き浅い秋色を帯びて。過ぎ行く景色は都市部のもので、背の高い建物が両側を挟む様は真下の地下街にも似ているが、果てのない天井が遠く青空を映し出そう。車内はこれと言って趣味に寄ったものが飾られているでもなく、必要最低限のものが手の届く範囲に置かれている程度。右手はハンドルへと添えたまま、左手を彼側に軽く伸ばしてグローブボックスを指し示し)そう言やァ、アンタからの依頼品。完成したから見てみなよ(彼が座る目の前のボックスを開けば中には真っ白な包み紙に細い金糸でラッピングされた掌より少し大きめの箱が入っているだろう。箱を開くと中にはウォッチスタンドにもなる木枠の外装が入っており、その内側には彼が特注した腕時計が収まって。腕への負担になりにくい大きさと重み、青色の瞳がひとつ埋められた文字盤、鳥籠から飛び立った羽に
は程良いウェザリング塗装が施されており、それに合う濃茶色のベルトが全体的な統一感を醸し出そう。視線は前方へと向けながらも意識は傍らの彼に惹かれ、その反応を窺いつつ)オ気に召しましテ?


葛西雅隆

(犯罪行為であれ、通報さえされなければ警察沙汰にならぬ事は己も理解することで。しかし自ら痛みを受け入れ血を差し出す気など無く、相手の主張は小馬鹿にするように鼻先で笑い飛ばして。しかし車の代わりに提示した対価を歪んで解釈されると、嘲笑からは毒が抜け、呆れるような脱力した苦笑へと変わり)思い通りにならないと、くだらない駄々をこねて困らせる。小学生ですか貴方は(たまに幼稚な言動を見せるのも相手の魅力であり、それに翻弄されるのもさほど悪い気もせずに紡ぐ言葉は穏やかで。相手が本当に店ごと買い占めると言うなら、此方も自棄になって全てのケーキをその場で食べさせるくらいの嫌がらせはするつもりで)もっと素直なよい子になった方が、可愛げがあると思いますがねぇ(悪戯子を扱うような困り顔で笑いつつ、低次元な嫌がらせ合戦となりそうな冗談はそこそこに呑み込んで。やがて駐車場から滑り出した車は、都市の広々とした公道へと出ていくだろう。左右に広がるのは秋色に淡く色付き始めた街路樹、そして聳える銀色の建築物。歩道には無法の街ではあまり眼にしない女子供、老人たちが行き交う姿も映し出され、それぞれの平穏と
日常を堪能しているようで。無数の人間の暮らしを包むように、空の澄み渡った青い光は地上を暖かく照らし出すだろう。この季節の青空は一年通しても特に色濃いようで、この心地良い眩しさには慣れずに眼を細めながらも映し出される光景を脳裏に焼き付けて。言葉すら忘れて景色を眺めていたが、相手に依頼品完成を告げられると、弾かれたように視線は車窓からグローブボックスへと飛ぶだろう。即ボックスを開けるとラッピングされた箱を取り出し、金糸を解く指先は僅かに震えて)あー…、すごく楽しみにしていたんですよ(行き場のない思い出の古時計の解体から始まり、不思議な番犬へのデザイン依頼を経て、ついに己の手元へと届いた腕時計。動かなくなった時計に閉じ込められていた憧れの小鳥が再び光を浴びて、新たな命を授かるというのは感慨深く、完成の日を心待ちにしていたところ。糸を解き、包装紙を雑に剥がし、膝上に乗せた鞄の上に箱を置いて。緊張した面持ちで息を呑み箱を開くと、しっかりとした木枠には、己が求めた羽ばたく鳥の世界が収まって。鳥籠から発つ躍動感、生きた瞳の青色、鈍く輝く彩りの中で、独自の機械観と思い出が上手く調和す
>る上、それほど主張しない程良いサイズ感は長く日常使いするには適したもの。求めたのは美術品として愛でるものではなく、お守りとして身につけるものであった為、スーツに合わせてもそれほど浮かぬ色合い、さり気ないスチームパンク感は心を踊らせるだろう。そっと時計を外し持ち上げると、冷たいはずなのに肌に馴染むような心地よさ、程良い重量感を確かめ、あらゆる角度から眺める瞳は明るい光を湛えて)…あー…っつ、(胸を満たすのは純粋な歓喜と感動。沸き上がるものが多く言葉さえ紡げぬ中、吐いたのは腹からの深い嘆息。れほど嬉しいことに気恥ずかしささえ感じたものの、垂れ下がる頬は緩めたまま、時計は左手首へと装着しよう。普段から腕時計は必ず身に着けているアイテムだが、今日はこの時計を飾るつもりであえて外しており)嬉しいです(心が躍り紡げたのは、何の捻りもない単純な歓喜の言葉。はにかむような照れ笑いを浮かべながら左腕を翳し、相手に腕へ飾られた時計を見せようと)


壱八

(依頼品の腕時計の所在を示せばすぐに食いついた様子、間髪入れずにボックスが開けられる音、そしてラッピングを解いてゆく気配を聴覚で感じ取りながら、やがてその時計が彼の眼下へ晒されたことを物語るのは言葉無い感嘆の声が彼から漏れた為。図に起こしたデザインと、実際に手にしたそれにイメージの相違は無かったようで、彼の声に失望の色合いが無いのが喜びとなろう。それは己が製作を手掛けた訳でも、彼の過去の穏やかな記憶を共有する訳でもなく、ただ客と犬とを繋ぐ程度の役割しか果たさなかった己ではあるが、自分の事のように喜びが満ちるのは形作られる過程をすぐ横から眺め続けたからだろうか。木枠から時計が外され彼の腕へと飾られる淡い昂揚感に笑い交えた吐息を零して)は…っ、そりゃア良かった。鳥もまた、アンタに見て貰えて嬉しいだろうよ(差し出された彼の左腕、視線をその手元へと落とすと共にハンドルへ重ね戻した左手を彼の手首へと添えようか。普段他の物が巻き付いていた部分を彩られた鳥、アンティークゴールドの主線を潰し過ぎぬよう飾られた鳥羽根と籠の曲線、秒針が動き正確な時を刻む姿を見るのは己も初めてで
。添えた親指の腹は時計の縁を掠めた後、それとスーツとの合間に覗く肌を撫でて)あァ、似合うな。良い色だ(うっとりと目を細め零した感嘆、視線は一度安全を窺うべく前方の景色を映したのちに傍らの彼へと向けて。その視界に差すのは歪んだ色のない、純粋な歓喜を物語る笑顔。邪気のないはにかんだ姿に、引き締めたはずの心が緩む心地を自覚して頬を綻ばせるだけの笑みを浮かべよう。以前の失態もあって、出会った当初に彼へと向けていた筈の警戒心を取り戻そうと心を引き締めていたつもりではあったが、一瞬で崩れ掛けた己の意志の弱さに自嘲の吐息を洩らし)やっぱズルいのはアンタの方だ、可愛いツラしやがって…(独り言染みて細く吐き捨てた言葉は、同じ空間のすぐ傍らに居る彼の耳にも届くか。舗装された通りを滑るように抜け、幾つもの建物や車、人影を後ろへと押し流し、景色は次第にコンクリート色の強い都市部から離れ植物が織り成す色合いが差し始めるだろう)




葛西雅隆

(腕に飾られるのは新たな命を与えられた、羽ばたく鳥が織りなす世界。大切な思い出を素材にしたものであるからこそ、過去と未来との想いを繋ぐような不思議な感覚さえ得て、時間を刻む以上に価値のある品となろう。長く待ち焦がれた時計は期待以上の出来であり、歓喜は膨らみ、この感情を共有したいと願ったのは制作過程を共にした相手。若干の気恥ずかしさを覚えながらも見せつけた時計への褒め言葉を掛けられれば、純粋な心だけが揺らされて、時計と肌とを撫でる指先に心地よさそうに眼を細めて)質が良いから長く使えそうですね。大切にします、ありがとうとポチにもお伝えください。代金は後ほどお渡しします(この世界に唯一の作品は、大切な思い出も重なり、己にとっては手放せぬものとなるだろう。使い込めば自然と風合いが変化するだろうがそれもまた楽しみで、宝物を手にして心疼くままに綻ばせた笑顔に邪気は無く。完全に心は無垢なものになっていたが、相手の独り言のような呟きを拾うと、細めた瞳の奥には怪しい企みの色が滲むだろう)僕が素直で可愛いのはいつもの事じゃあないですか。まぁ甘いだけじゃあ飽きると思うので、本日は多少のスパ
イスを御提供するつもりです。御心配なく(前回は悪巧みを企てるにはリスクが高く何もできず、悪戯心が満たされない為に若干の欲求不満で。含んだ笑いを向けて挑発的な言葉を吐いた後、時計の箱と包装紙は鞄へ押し込み、視線は再び車窓へと向けよう。景色は街の中心地から徐々に離れているようで、太陽光を浴びて輝く高層ビル群、繁華街は後方へと流れ、映し出される景色には自然の色合いが増してきた様子。窓に張り付くようにして秋色に染まり始める景色を眺めながら、時折歩道を通る買い物袋を積んだ自転車に乗った主婦、手を繋ぎ犬の散歩をする老夫婦といった、己とは別世界を生きる住人たちへも視線を注いで)上の世界の人間も、それぞれの日常があり、喜怒哀楽を抱えて生きているんですよねぇ(呟いたのは何でもない、己へ言い聞かせるような独り言。己にとっては憧れの異世界であっても、地上の人間にはこの光景が現実なのだろう。不思議な感覚に陥りながら移り変わる景色を眺めて)自然豊かで気持ちがいいですね

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