今と膝




獅子が笑っている。短い刀で刃を弾いて飛び退る。懐に入り込んで、喉笛を掻き切ってしまえば終わりなのに。何度とないやりとりに、体力は奪われてゆく。なにがおかしい。なぜ笑っている。

影がさした。目の前に、背を向けて立ちはだかる見慣れた姿。
「もうやめてくれ! 姉者!」
悲痛に叫ぶ声は、ぼくのためだろうか、だれのためだろうか。ぼくには目の前の動物しか見えていなくて、どちらでもいいと、沸騰した頭は考えを放棄する。
「邪魔ですよ、薄緑……!」
勢いに任せて刃を突き立てた。頭が冷えた。いま、ぼくはーーぼくは?
鋭く駆ける足音、殺気。薄緑の身体から刃を抜いて振り返る。けれど、すぐ目前で光った。光ったそれは、身体にめり込み、一瞬でこのからだを斬り裂く。その視線は、みたことが、あるような、なつかしいような、おかしな感じがした。焼け付くような痛みの最中、むこうに、いとしい姿が目に入る。どうして?
「うぐいす、ねえさま」

あおむけになったぼくのすぐ横に、手放した短刀が落ちて、きん、と切っ先が弾かれる音がした。
「今際の際の断末魔なら、鳥(からす)でもちょっとはマシなんじゃないのか」
うるさい。うるさい。うるさい鳥の声。
「あなた……みたい、に、っぁ……っごほ……喧しい、鳥は、だいきらい……です」
だいきらい。こどもみたい。けんかをしたこどもみたい。
うるさい鳥のむこうに見える、うつくしいひとの表情は、もう視界がぼやけてしまってわからない。
「ねえ、さま……うぐいす、ねえさま……あいしています、あいして、います」
血濡れの声はとどいているかしら。いなくてもかまわない。なまえを呼べただけでかまわない。
焼け付くような痛み。冷えていくゆびさき。

薄緑、ごめんなさい。ぼくをかばった薄緑を、どうかせめないで。
鶯ねえさま、どうか笑っていて。脚に巻きついた糸を取り払って、いつか自由に飛んで。
そこの喧しい鳥は、その不器用なくちばしで、小鳥を縛る糸をはずすことができますか?

閉じかけた目のむこう、母の幻影が重なった。
どうして、どうして、あの、白い鳥に、
「………おかあさん……」
ああ、ああ。あいしています。あいしています。
ぼくのめには、あいするひとのすがたしか、うつっていませんでした。



---

多量の出血で意識が朦朧としていた。刺された腹から血が流れ、コンクリートを汚す。
自由な片目だけで見上げると、姉が笑っている。
「今際の際の断末魔なら、鳥(からす)でもちょっとはマシなんじゃないのか」
視線の先には、五条の鶴がいるらしい。そして。
「あなた……みたい、に、っぁ……っごほ……喧しい、鳥は、だいきらい……です」
背に感じる重みと幼い声は、紛れもなく、自分が守ろうとした子供の、今剣のもの。長くは持たぬと、その声は語っている。

まただ。また何も守れなかった。
何もできなかった以前とは違う。いまこそは裏切った。何にも代え難い姉を裏切り、刃を向けたのだ。
再び目の前がぼやけ、頭が重くなる。そのうち死ぬのだろう。声は出ない。指も動かない。言い訳などいらぬ、これでよいのだ。このまま、串刺しにされた蛇は、干からびて朽ち果てるのだ。


白い天井。点滴棒。
生かされていた。情けか、罰か。罰だろう。あのまま終わるのだと、愚かにも安堵した。しかし生きている。生かされている。おそろしい。これほどにおそろしいことは、いまや他に存在しない。
乱暴に点滴をを抜き、傷が開く痛みにも構わず、室内を物色する。誰かが忘れたままの、埃をかぶった花瓶が目に入った。ちょうどいい。
陶器の花瓶が割れる音は、これから行う行為に対して少しの罪悪感をもたらす。刃となったそれに願いを込めた。

あの時、もう片方を姉に潰された時は、もっと痛かったような気がする。精一杯の力を込めて貫くと、ぽたぽたと服に血液が落ち、冷たく湿っていく感覚がした。徐々に震えてゆく手に力が入らなくて、陶器の刃がするりと抜け落ち、床で砕ける音がする。
暗い? 赤い? 黒い? 目が、開かない。
無様に穴の空いた目が何も映さないことに安堵した。そのまま倒れこみ、強かに頭を打ち付けたが、もう、どうでもいい。
使い物にならなくなった『薄緑』は棄てられるだろう。『膝丸』の処遇はわからない。少なくとも、自分が愛するものを見ることは、二度と叶わぬ。近づくことさえ許されぬだろう。

愚鈍な妹から姉へ託す。
願わくは、姉妹に、自由を。