今薬今 





十六になった冬。級友に年が追いついた頃。

ぼくは女になりました。


なにをいっているんですか、三日月おねえさま。三条の子はぼくだけなんです。ぼくのあとを残さなければなりません。これはぼくのお役目。
だいじょうぶです! ぼくはもうこどもじゃないんですから!


ずっと胎になにかが入っている。なにも入っていないのに。あのおぞましいものはとっくに、なんにちも前に、ぼくの胎から出ていったのに。
顔などおぼえていない。ええと、なんという家の血統書付きのいぬだったかな。候補のひとりにすぎないそれの顔なんて、おぼえている必要はない。だってこれから、何匹ものいぬの相手をするはずだから。


きもちがわるい。さわらないで。
きたないこえでぼくのなまえをよばないで。

いたい。いたい。
やめて、やめてください。おねがい。
いや、いやだ、ああ、ああ。
(おかあさん、おかあさん、たすけて)



何日も学校を休んだ。部屋に塞いでいたら三日月おねえさまが心配するから、月経で体調がすぐれないのだと言って、夕飯には顔を出した。
かくれるみたいにして、学校にいった。みんながちがう生き物に見えた。ちがう。ぼくが異端だった。また、かくれるみたいにして、学校から帰ろうとした。
「今? 久しいな、帰りか?」
ああーーいちばん会いたくなかったひと。いちばん、会いたくて、会ってはならなかったひと。
うつくしいひと。ぼくの恋しいひと。どうしていまなの、神さまは、ぼくのことがきらいなの。あんなに、あんなに、がまんしたのに。思い出さないように、きっと空想の女神さまだったんだと言い聞かせて、わすれていようとしたのに。ぼくの目は、あなたをみる資格がもうないのです。
視界がぼやけてうつむいたら、ぽたぽたと涙がこぼれた。どうした、なにかあったのか、やさしい声がぼくを責める。ごめんなさい、そう言うだけがやっとで、ぼくは逃げた。ごめんなさい。
だいすきな鶯ねえさま、ごめんなさい。


「薬研、でて、でてください」
気づいたら、薬研に電話をかけていた。ぼくには彼女しかいない。いままで、だれもぼくと目を合わせてくれなかったから。
呼び出し音に話しかけながら祈る。おねがい、声をきかせて、そうでないと、ぼくは。
「今、いーま! 出てるって! 繋がってっから落ち着け!」
ぼくはさらに泣いた。
「やげ……やげん……う、うあ、あぁ」
「大丈夫だから、落ち着け。大丈夫だ。先に帰ってごめんな、今日も休みだと思った。いまどこにいる? 学校の近くか?」
「はしの、むこうの、こうえん」
「そうか、そこで待ってな」
ごそごそと電話越しに音がする。ぼくはこわくなった。
「き、きらないで」
「通話か? ……大丈夫だよ。繋げとく」
薬研の声は、いまのぼくにとってはなによりもやさしかった。たった一本の電話をしただけなのに、用件なんてつたえられていないのに、ぼくのために、薬研は走ってくれる。ぼくはもっともっと泣きそうになって、慌てた薬研になだめられた。



その夜、俺は今の部屋にいた。屋敷に招かれた時は世界の違いに頭が痛くなったが、傷ついた今をひとりにしておくことなどできなかった。三条の者には、顔を見ていない当主にだって、どうせ大丈夫だと言い切っているのだということは想像に容易い。彼女のプライドの高さは知るところだ。
だから俺に頼った。気を許せる使いの一人も、ここにはいやしないのだ。
今の部屋はやたら広く、生活感がない。兄妹の多い自分には無機質に映った。毎日ここでぽつりとひとりで過ごす今を想像すると、この寂しがりやには広すぎるような気がした。
茶が運ばれてくる。茶受けの菓子も添えてあった。家族旅行で行った旅館でしか見たことがない。
「熱いですから、きをつけてくださいね」
すっかり涙も引っ込んだ今は、むしろ、どこか楽しげだ。
「おともだちをお部屋によぶのははじめてなので、なんだかうれしいんです」
はにかんで笑う少女が悲しい。注意されたにもかかわらず、茶はとても熱かった。

休んでいた間は大丈夫だったか、体調はどうだとか、ぽつぽつ会話を交わした。交わした会話の中には、今がどのような立場でいるのか、初めて知ることも多かった。そして、今がどのような目に遭ったかを聞いた時、息が止まりそうになった。
「薬研、あなたにたのみたいことがあるんです」
言葉を紡げずにいる俺に、今は静かに言う。
「……ぼくに触れてほしいんです」
ちいさく呟いたあと、今の顔が泣き出しそうに歪んだ。膝の上で握った手が震えている。
「ずっと、思い出して、ゆめを見ることも、こわいんです」
ついにこぼれた涙は、電話先で泣きじゃくっていたものとは違い、重たく、大きな粒だった。
「……いやですよね。ふつうじゃないですよね。ごめんなさい、」
今が言い終えた頃に、小さな身体を抱きしめていた。とん、とん、と背中を撫でる。泣いた兄妹をなだめる時のように。
「泣いてもいいが謝るな。今、覚えてるか? 今と初めて会った時」
あれは暴漢に襲われそうになった時。掴まれた腕の気持ち悪さをいまでも覚えている。
「そんなちっせぇ身体で俺のこと守ってくれただろ」
「ぼくは、これから、おおきく、なるんです」
「はは、そうだな。あの時の借りもあるし、もちろんそれだけじゃない。俺だって今を守りたいんだよ」
頼ってくれよ、電話かけてきたみたいに。なんだってしてやるさ。
今はとうとう泣き出して、痛いほど抱きしめ返された。やげん、やげん。名前を呼ぶばかりで、いや、何か言っているのかもしれないが、それは聞き取れない。
いいよ、ふつうじゃなくて。だって今はずっと、ふつうじゃない場所で、戦って、生きてきたんだろう。