鶴鶯 鶯♀が発作起こしてるだけ





夜中に胃の中を全てぶちまけて目が覚めた。

身体は上を下への大わらわだが、頭の隅では妙に冷静で、ああまたかと感慨に似た何かが湧く。自分の中には壊れた部分があって、それが時たまヒビを大きくして、生きるための本能まで侵食する。今回は呼吸を忘れた。そして目が覚めて、驚いた身体はひきつけを起こした。そんなところだろう。
半分転げ落ちるようにベッドから抜け出て、回る視界で薬を探す。呼吸をしようと開いた口から泡だった液体が溢れ出した。本格的に危険を感じる。嫌な夢でも見たのだろうか、覚えていないが。ローテーブルに見えた薬瓶をひっくり返して、散らばった錠剤を手当たり次第に掻き集めて口に放り込む。水などない。貪り食うように腹に押し込めても次から次から泡が込み上げてちっとも飲み込めている気がしない。視界が明るい。というより白い。まだ夜ではなかったか?
あ、だめだ、もう保たん。
「ああ、鶯や」
ーーーうん、うん、聞こえている。俺は今でも、いつでも、お前に返事をする気でいるんだがなぁ。


「おはよ」
「……おはよう鶴。ここは?」
「びょおいん」
覚醒した鶯の目に飛び込んできたのは、どこもかしこも真っ白な味気のない部屋。そしてそこにいる自分、横たわったベッドのそばには、これまた真っ白な少女。椅子にさかしまに腰掛けて背もたれに顎を載せている。凝った意匠が頭のてっぺんからつま先まで施された、可愛らしいドレス姿で下品に開脚している姿さえ様になっているのだから驚きだ。鶯が起き上がろうとすると、体中を縛り付けているものに阻まれる。五体拘束を施されている身体では身動ぎもままならない。国永は、抗議の色を載せた鶯の視線をひらりと掌で払うそぶりを見せると、ナースコールで鶯の覚醒を伝えた。
発作で意識がオチたのは夜だと記憶していたが、カーテン越しでもわかる外の様相は、今も夜だった。しかし、身体の状態から考えても短時間のうちに回復したとは考えにくい。俺はどれくらい眠っていた?という鶯の問いに、国永は指を4本立てて見せた。4日。長い。保険が下りる。
「完全別棟で主任は俺のセンセイ。守秘義務バッチリ。ちなみに支払いは俺持ち」
「……すまなかったな。借りは追って、」
「金なんか要らん、……」
起きないかと思った。
ベッドに乗り上げた国永は、そのまま鶯の身体に覆いかぶさる。心音を聴くように、長い白い髪を絹糸のように散らばせて形のいい頭を鶯の胸に寄せる。しばらくすると鼻をすするような音が聞こえてきた。位置的に顔はうかがえない。もどかしかった。鶯はそんな国永を抱きしめてやりたいと思うのに、やはり無粋な拘束がそれを阻んで、寸分もかなわないのであった。



その電話が鳴ったのは、日付が変わって少ししたころだった。
国永はいつも通り、特に何の達成感もなく一日を無為に過ごしたあと、家に帰って速攻転寝をかまして、今しがた目を覚ましたところだった。こんな時間では、いくら身体や意識が食事や入浴を求めても、もう本能がうんともすんとも言わない。全部明日でいいか。とりあえずそれらの代わりと言わんばかりに手元の煙草に火をつけて、有害物質で肺を満たす。国永の携帯が悲鳴を上げたのは、そんな折であった。
現代っ子の例にもれず、基本的に国永の電話はならない。鳴らすとしても所定の相手かセールスか詐欺かと言ったところで、ディスプレイを見れば今回はそのうちの一番初めだとすぐに知れた。
「めずらし」
表示された名前はこの世で一番愛しい女の名前だ。睡眠にのみ向かっていた国永の意識が少しだけ冴える。
「よーす、どした?さびしくなったかぁ?」
自覚できるほど脂下がった声で応対する。つけたばかりの煙草を灰皿に押し付けて殺す。けれども待てど暮らせど、携帯が吐き出すのは耳ざわりな雑音ばかりだ。
「……おい?鶯?」
そこで異変に気付いた。ノイズだと思っていた音の正体は、向こうからひっきりなしに聞こえる音だ。何かが落ちたり、壊れたりするような。ついで聞こえる、泣き声と、悲鳴交じりの呼吸
と、派手に嘔吐く声、液体がこぼれおちる音。鶴、鶴、つる。苦しげな声が終わらない嘔吐の合間で自分の名前を呼んでいる。いつもの嫋やかで落ち着いた音とは似ても似つかないひっくり返った声で、それでも必死に、すがるように。彼女をそんな状態にしてしまう原因に、賢明なことに国永は直ぐに思い当たることができた。発作だ。
「くるしい」
「おい鶯、ああ、」
「つる、たすけ」
「まて、ああ助ける、助けるから」
「うええぇっ………」
そこでまた鶯がひどく嘔吐いた。倒れ込みでもしたのだろうか、一等大きな破壊音が聞こえる。国永は努めて冷静に、おそらく意識など蜘蛛の糸よりも細いであろう鶯に呼びかけ続ける。
「すぐに、すぐに行くからな。ああ、そう、俺が行くから、だから、鶯、鶯?おい、おい!」
上着を雑に羽織り、裸足のままローファーをつっかけて外に出る。鶯の家に走りながら、意識は片時もそらさず携帯の向こうに向けていた。だから、しっかりと聞こえた。
なんだ、むねちか。
それきり無音になった通話を切ると、国永は119をコールした。


散歩はしたいがまだ絶対安静、という医者と鶯の間にとられた手段は車いすだった。しかも今から外に出るという。頭痛が酷くなったような顔の主治医に許可をもらい、点滴つきの鶯をそれに座らせ、ひざ掛けをかける。その時鶯の左手が目に入ったが、包帯でぐるぐる巻きにされていた。眉をひそめた国永に、何故か鶯の方がこう尋ねた。
「感覚がないんだ。怪我してるんだろうな」
「きみんちに刃物の類はないはずだろ?むしろどうやってこんな怪我すんだ」
「そうだな?俺も不思議だ、酷くひっかきでもしたかな」
まあ、細かいことは気にするな。からりと笑った鶯に、国永もあいまいに笑い返して、車いすを押し始めた。
「さて、鶯。どこ行くんだ」
「今日は少し寒いなあ。もう春だというのに」
「そういや、早咲きのさくらはもうぼちぼち咲き始めていたな。ここの中庭とか」
「なら、それが見たい」
「了解」
キイキイと音のなるだけの静かな散歩道。夜半の時間、病院という場所柄外出もない。鶯への対応が破格なだけだ。夜の病院というと灯り少なに不気味な印象だが、ここは街灯もたくさんあって、無粋なほど明るい。案の定中庭までたどり着くと、無機質なLEDに照らされた咲き始めの夜桜が二人を出迎えた。闇に溶ける白色。風にあおられちらちらと散る花びらは正しく雨のようで、彼らは折り目正しく鶯の膝へと舞い落ちる。
「今年も、春が来たな」
「そうだな。まだ寒いけど」
「……鶴」
「ん?」
ぎゅってしてくれ。
桜に目をやったまま、鶯はそう、希う。国永は言われるまま、後ろから身を乗り出して、車いすの鶯を抱きしめた。前で交差した国永の腕に、鶯の吐息が触れる。そして、かさついた指先も。
「生きるって、難しいなあ」
国永は鶯の言葉には応えず、鶯がもういいというまで、その痩身を包み続けた。


処置室の外のソファで待っていた国永へ、鶯の応急処置が終わったらしい主治医が近づいてきた。顔見知りの彼は、出奔しても五条の娘である国永には首を垂れる勢いで深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。胃洗浄の途中で目を覚まされたので、酷く苦しませてしまいました」
「聞こえてたよ。人間の声かあれが、ってなあ」
彼女は朦朧とする意識の中で手あたりしだいに家に会った薬をかき込んでいたため、軽いODに陥っていた。国永が家にたどり着いたときには失禁までしていてすでに意識がなく、かろうじて呼吸はある状態で救急隊に運びだされた。胃の中の薬を出すために胃洗浄を執り行うことになったが、幸か不幸か、内臓を引っ掻き回されているときに意識を取り戻してしまったのである。
ああー鶯さん、起きちゃいましたねー。もうちょっとかかりますよー。我慢しないで吐いてくださいー。という場慣れし切った看護師たちの声の合間に挟まる、鶯の絶叫と断末魔。初めの内こそ耳をふさいでいたものの、しばらくすると慣れてきて、不謹慎だとは分かっているが興奮したのも事実だ。口にはしないが。
「容体は?」
「安定しています。発作自体はいつものものと変わりません。難儀ですね、彼女も……」
「まあ、クスリブチこまれてこれくらいで済んでんだ。まだマシなほうじゃないか」
どうせ入院になるだろう。国永は彼に自分もしばらくここにいる旨を伝え、くれぐれも三条には伝えおくなとくぎを刺す。ポケットから出した小切手は紙飛行機にしてとばしてやった。それをあわてて受け取った彼は、そうだ、と、彼もまた小さな袋を国永に差し出した。
「なんだこれ、……鍵?」
「はい。胃洗浄した際、彼女の胃から検出されたものです。誤飲でしょうか……」
「いくら朦朧としてたからって、鍵、食うか……?」
まあいいわ預かっとく。国永がそれをポケットに収めたタイミングで、奥の部屋からストレッチャーに載せられた鶯が運ばれてきた。身体は拘束され、汗と唾液と吐瀉物のせいで饐えた匂いを纏っているのに、そんな寝姿も国永にはひどく美しくしか映らない。顔を覗き込む国永に、台を押す看護師たちは止まる。
「なあ、キスしたらだめなのか」
「ダメですよ」


▼そのドアには取っ手がない