鶴鶯←一+今




電子音の教会の鐘が聞こえた。
目を覚まして、慣れた手つきで音の発生源をベッドに引きずり込んで黙らせる。初春の折、肌寒さはあれど、布団と毛布に挟まれていては湿気の方が多い気もする。事実、シャツ一枚からのびる足にまとわりつく毛布の感触はすでに不快だ。五条国永は白く長い髪を乱雑にかき回すと大あくびをした。7畳1室、部屋にあるのはベッドとテーブルだけ。その上にはステッカーだらけのノートパソコンと昨日の夕飯だったカップラーメンの残骸、そして山となった灰皿。現実を端的に具現化したような風景を別に見なくてもよかったな、と思ったところではたと意識が、ここでようやく、完全に覚醒した。
「……今日何曜だ」
手の中で携帯が、またけたたましく鳴り出す。

この時期の大学は閑散としている。後期の試験を終えた学生なんて檻から放たれた野生動物も同じで、皆それぞれに資金を握り締めどこへなりと行って仕舞うのが常だ。まして昼時も微妙に過ぎた時間、人の姿は輪をかけてまばらだった。国永は律儀にボールを追いかけまわすサッカーサークルのいるグラウンドを尻目に、キャンパスの中央を目指した。大学付属の図書館。敷地の中の緑地も兼ねる、雑木林に抱かれるようにして立つこの箱が、国永の一番好きな檻だった。
春休みには何かシフトに変化はあるのかと聞いた際の「否」にたがわず、待ち人はかわらず、受付に座っていた。『司書 鶯友成』のネームプレートを下げるカラーグラスをかけた彼女は、相も変わらずお決まりのタンブラーと共に仕事をしていた。
「鶯」
「やあ、鶴か。はは、さっき起きた顔だな」
国永の顔を認めると、彼女はにやりと笑う。いつもなら手間と時間ばかりかかるゴシックロリータを身にまとう国永が、今日は髪も流しっぱなしで簡素なスカジャンにジーパンといういで立ちだからだろう。わかりやすすぎて嫌味にもならない。
「ご明察〜。昼まだか?」
「ああ」
「飯でも行こうぜ」
「いいぞ。ここまで片づけさせてくれ」
「了解、外で煙草吸ってる」
ひらりと手を振れば、ふっと返される温度のない笑み。わずかに端を釣り上げた鶯の唇を見て、国永はいますぐ口付けたい衝動を振り切って外に出た。

「煙草がない」
「は?職場に忘れてきたのか」
「いや……これは、」
キャンパスからは少し離れたところにある、喫煙者にもやさしい今時珍しく喫煙席の方が多いカフェで昼食を食べ終えて一服しよう、というときになり、鶯はポケットに手を突っ込んで眉根をひそめた。早々に火をつけて煙を呑んでいた国永が首をかしげるのに、どうしてか鶯もそれに続く。
「一期……」
「ああ〜。だから言ってるじゃねぇか、ストーカー家に上げるのやめろって。そのうち煙草だけじゃすまなくなるぜ」
ほれ。国永が煙草を差し出してやると、すまないな。国永の忠告には特に応えを返さずに鶯は曖昧に笑って毒を口に咥えた。ともすれば喫煙者にはとても見えない鶯が、常ではなくとも、だいぶクセの強い国永の愛飲物をこともなげに嚥下していくのを見るのは小気味がいい。不感症の彼女だが、これを呑んでいるときだけは、ベッドにいる時以上に酩酊した目で気持ちよさそうに息をしているから。国永は、鶯のこの目が好きだ。だから、べらぼうに高い自分の煙草だって喜んで差し出してしまう。
俺も大概だなあ、という言葉は、煙と共に換気扇に吸い上げられてゆく。話題に出されたあの女のことは嫌いだが、今はまだ、自分の方が鶯の中で優位にある自信がある。自覚すると楽しい気持ちは恋かといわれるとそんなにきれいなものかねと自分で自嘲したくなる程度には汚れているが、それでも。
「国永」
「なに、」
「夜は暇か?」
「うん。やることねぇし、書架にいるよ。仕事終わったら声かけてくれ」
「わかった」
2人して灰皿に吸い殻を放るのに、ふれあった指先に目配せをする。先に笑ったのは鶯の方だった。

「今。帰りか」
「はい」
今日もやってきた、いつもここに立ち寄る中学生に声をかける。心なしか元気がない。
「どうした、何か嫌なことでもあったのか」
「……鶯ねえさま、ごめんなさい」
「?なにが」
困惑していると、彼女はそっと、鶯にそれを差し出してきた。
見慣れたてのひら大の箱。中には、嗜好品とは名ばかりの猛毒の束がごまんと詰まっている。鶯は苦笑した。隠していたつもりだったのだが。
「助かったよ、ありがとう」
「……おこらないのですか?ぼくは、ねえさまからこれをぬすんだ、わるいこです」
罪を告白し見上げてくる赤い大きな瞳は揺れて、しかし、自分からの叱責を心から望んでいる。鶯は正しく今の心持ちを理解した。理解した上で致命的に残酷な答えしか、彼女には返せない。
「怒るものか。きっと俺を心配してくれたのだろう」
暫くは我慢するよう努める。そう言ったら、今は顔をくしゃりとゆがめて、踵を返してしまった。ああまた間違えたなと思ったが、昔からだ。もう慣れた。諦観を誤魔化すのにさっそく禁を破りそうになったので、手の中の煙草はそのままトイレでごみ箱に捨てた。


「きみは許すのが驚くほど上手いからな」
「許すのに上手いも下手も………く、」
胸の飾りを揉んでも弾いてもてんで無関心を貫いていた身体も、足を開いてその奥をのぞき込めば本能までは忘れていないようだった。しとどに濡れたそこに国永が指を突っ込むと、色気も何もない、刺激に対する反射で鶯が身を固める。
「う、あ」
「指冷たいか?ごめんなあ」
「いや、いい……」
異物感に眉根をひそめる、性感を忘れた悲しい女のうつくしい眦に、国永はそっとくちづける。無意識にわだかまっていた涙を吸いあげて、鶯色の髪が散らばる首元にすり寄りながらなかをそっとかき回す。
「ひ、」
「こんなに悦んでんのに、」
「ちょっと、」
「あたまとつながってねぇってのはどうにも不思議だ」
「待、」
鶯の呼吸が乱れて不規則になっていく。ああ、鶴。声のトーンはいたって通常営業、波打つ白い腹はそれでも、国永の与えるそれを刺激としか思わないらしく、頬に刺す赤みはどう見ても有酸素運動がもたらすだけのそれだ。内から滴る愛液だけが空しく、忘れ去られた彼女の性を嘆く。薄い唇は囀る代わりに、律儀に反応を返して息をみるみる上げていく。
「はっ、はぁっ、っあ、うっ、………」
ぎゅっと目をつむってがくりと頸をさらした。恥も嬌声もない、酷く殺風景な果てを見て後ろに倒れ込んだ鶯を追いかけて覆いかぶさると、国永はキスをした。舌を絡ませ口内をひっかきまわしていると、背中を叩かれて抗議を受ける。
「わりわり、苦しかったか」
「違う、下。膝で押すな、痛い」
乗っかった国永の膝がちょうど鶯の陰核を押しつぶしていたようだった。真っ赤に腫れ上がっててらてらと光るそこは間違いなく熟れ切っているのに、これは何も機能しない。股に生えたこれも、腹に埋まるそれも、鶯にとっては腐った果実なのだ。
一体、何に傷まされたのだろう。国永は哀れっぽく、その足の付け根に舌を這わせる。
「こら、鶴、ぅ」
「こっちなら温いだろ、……」
「そういう問題では……、」
粘液同士が触れ合う感触へ不満げな瞳が、生理的な涙で彩られている。揺れる瞳は間違いなく期待をしているのに、対象が虚数で答えが出ない。求めているのに、求めるものが欠けているのだ。数式は永遠に完成しない。この美しい鳥は酷く不完全で、そんな彼女のいびつさが、国永はたまらなく愛しい。
「鶯、きみはかわいいなあ」
だから赦してくれるだろう、きみはきっと、こんな俺も。
今夜は春の嵐。台風も斯くやといわんばかりの強風に煽られたものがぶつかりでもしたのか、深夜だというのに玄関先がひどく騒がしかったが、ふたりは露ほども気にしなかった。

あの目障りな小蝿は、居ないと思っていた。
だって、夕方に、そっくりな影が図書館から出ていったきり戻って来なかったから。一期のいるゼミは休暇に入ったってやることが山積みだが、こと彼女にとって、『女神』と共にいられるこの箱庭にいることになんの苦もない。あの人のお勤めが終わられたのは、講義中にセットしていたアラームのバイブが知らせてくれた。あの人はいつも喫茶店に寄って帰る。時間帯的にも時期的にもカウンターは混んでいるに違いないから、自分が講義を受け終わっても彼女が帰りつくより前にお家にお邪魔して、ご用意をして差し上げられる思っていた。
「いたい、鶴、おい、っくぅ」
ドアノブに手をかけようとして、中から聞こえてきた声に息を呑んだ。よせばいいのに、現実なんか見たくないのに、中の様子に惹かれる身体はドアに縋りつく。
切羽詰まったような声音に続いて、聞こえてくるのはあの耳障りな声。うぐいす、きみはかわいいなあ。調子のいいことを言って、彼女の声と混ざって溶けていく。衣擦れ「嘘だ」スプリングの軋み「やめて、」雨の夜、酒の匂い、身体をまさぐる知らない手と、声、声、声。
弾かれるようにドアから離れて、背後の廊下の鉄柵に背中をしたたかに打ち付けた拍子に、胃から逆流したものが溢れた。目の前の光景と、蓋をした記憶が明滅し合って、壊れた堰からあふれ出す絶望が姿を変えた涙と嘔吐が止まらない。震える足で立ち上がって、何とか転げるようにその場を後にした。


▼嗤えないわ