時の流れ

「邯鄲の夢」のことなど

1998年8月13日

一口に「時間」と言っても、過ぎてしまった時間、今の時間、これからやってくる時間は、たとえ物理的な量としての時間に変わりはなくても、実感としてはとても同じ長さとは感じられない。これは誰もが経験していることだと思う。

過ぎてしまった時間はあまりも短く、10年前、20年前のことであっても、つい昨日のことのように感じられる。

私自身、自分が高校生であったころからすると、もう30年も経っているのかと思うと、愕然とすると同時に、それはつい昨日のことのようにしか感じられないことに奇妙な感覚も覚える。

「邯鄲(かんたん)の夢」という有名な中国の故事がある。

盧生(ろせい)という若者が一旗揚げようと邯鄲に向かって旅をしていた。途中のある町で、昼飯を食べるため一軒の店に入ったとき、そこにいた老人に自分のこれからの夢を話した。老人は若者の話を興味深く聞いてくれたが、飯ができるまで一休みするようにと枕を貸してくれた。若者が枕をあてると、すぐにうつらうつらし始めた。夢の中で、地位も名誉も財産も持ち、美しい妻や5人の子供に囲まれ、大きな屋敷住んでいる自分自身の姿、50年にわたる波瀾万丈の成功物語を見ていた。

誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。「さあ、食事ができましたよ」。その声で若者は目を覚ました。その途端、今まで見ていた屋敷も何もかもが消え、そこにいるのはただのみすぼらしい身なりの自分自身であった。若者は驚いた。老人は若者が何に驚いているのかを知っていた。

自分が今見ていた夢、50年にも渡るあの波瀾万丈のドラマは、粟が煮えるまでのつかの間の出来事に過ぎなかったのか。彼は自分の抱いていた夢のはかなさに気がつき、邯鄲に行くのをやめ、故郷に戻ったという話である。

これは、一般には栄枯盛衰のはかなさを象徴した話として知られている。またそれと同時に、どのような波瀾万丈のドラマチックな生涯をおくろうと、過ぎてしまった時間を後から振り返れば、ほんの束の間の出来事に過ぎなかったと感じる「時の流れの不思議」を語っているのだろう。八十歳まで生きても、百歳でも、自分の人生を振り返ったとき、それが一瞬の出来事、まさに「一炊(いっすい)の夢」と変わらない短さに驚くはずだ。二百歳でも同じこと。千年であっても、十万年であっても、時間を後から振り返ったときは同じことが起きる。

言葉はいつも一人歩きを始める。「時間」、「過去」、「現在」、「未来」。言葉が作られると、人はそれが「ある」ように思ってしまう。

たとえば「未来」。「未来」は本当にあるのだろうか。私たちが「未来」を体験することはできない。今から1時間後を「未来」と定義することはできるが、それを体験することはできない。もし私が30分後に死んでしまえば体験できないし、1時間後生きていたとしても、それはすでに未来ではない。そのときは「今」を体験しているにすぎない。

人が自分の生きてきた数十年の時間を振り返るとき、時の流れの速さに愕然とするのは、時間を、等間隔に目盛りが刻まれている直線のようなのだと思うからだろう。1時間ずつ刻まれた長い巻き尺のようなものだろうか。生まれたとき、巻き尺の端をどこかに固定して、腰につけた巻き尺から、一定のペースで出てくる。そのようなものを思い浮かべると、数十年の人生を振り返ったとき、自分自身が遙か遠くに来ているような錯覚に陥り、驚いてしまう。しかし、実感はそのようなものではないはずだ。実際、時間は長い巻き尺のようなものではないのだろう。

過ぎ去った時間や出来事は、自分の後ろに、長い巻き尺を引きずって歩いているというより、すべて「圧縮」されて貯えられていると言ったほうが実感に近い。自分自身の記憶に検索をかけて、過去の出来事を引っぱり出してくるとき、それが時系列に並んでいても、出てくるときは一瞬である。ちょうどコンピューターでCD-ROMの辞書を検索しているのと同じようなものである。コンピューターの初期の頃、データを普通のカセットテープに入れて保存していた時期がある。あれだと端から順にデーターを読み込んで行くので、途中だけを読み出すことはできなかった。しかし、CD-ROMに詰まっているデーターはどこにあっても、ほとんど同じ時間で取り出せる。データーの場所に、後ろも前もない。テープに詰まっているのなら、私のテープはこんなに長くなったのかと感慨に耽ることはあるかもしれないが、1枚のCD-ROMに入ってしまったらそれもない。

私たちが自分の過去を振り返り、過ぎて行った時間を思うと愕然とするのは、自分とは無関係の、物理的な基準量としての時間を思い浮かべるからだろう。しかも、それは実感とかけ離れている。むしろ誰もが経験しているように、10年前の出来事も、20年前の出来事も、昨日のことと何も変わりはなく、すべて同次元の出来事なのだろう。それと同時に、私たちが過去の出来事を思い浮かべているとき、対象となっているものには実体はない。実体がないというのなら、イメージの中のものだけでなく、目で見ることができ、手で触れることができるものでも実体はないのだが、記憶の中の「もの」はますます実体はないような気がする。しかし、本当にそうだろうか。「すべてのものに実体はない」ということを認めるのは少ししんどいとは思うが、もしそれを認めるのなら、所詮、記憶の中の出来事も、目の前で今起こっていることも同じ次元の話になる。つまり、記憶の中に生きている「もの」、それが亡くなった知人であれ、どこかの風景であれ、それらは、丸ごと「ある」とも言える。記憶の中から引っぱり出してきて、ある人や物のことを思い浮かべているとき、それは、今、目の前にあるのと同じ状態で、私の前に現れている。「過去」は遠ざかるのではなく、いつでも、自分自身の周りにある。

時は流れない。あるのは"Here and Now". 「今ここ」だけがすべてなのだ。記憶の中に残っている自分自身の体験は、すべて"Here and Now"のゴッタ煮として自分の中に詰まっている。

誰が作ったのかわからない「時間」の基準に振り回されなければ、「邯鄲の夢」で落胆することも、「人生は何て短いのだ!」と嘆くこともないだろう。


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