つめこみ

□サトシとせかおわ
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小さく震える身体を抱きしめる。
恐る恐るというような動作は、まさに私の中の“負い目”の表れだった。
怖くはないか、とは聞けない。
あまりにも愚問だ。

雲ひとつなかった晴天が翳りはじめる。
とうとう、始まってしまったのだ。

「ごめん、ね…」

トレードマークの帽子のない黒髪をできるだけ優しく撫でる。
腕の中の彼は震えが止まらないようだ。
この子がこんなにも恐怖を露わにするのは、初めて見たかもしれない。
良くも悪くも、怖いもの知らずな子だと思っていたから。

「なんで、姉ちゃんが謝るんだよ…」

後ろに回された彼の腕がきつく腰を締め上げる。
その何倍もの力で心臓を握られるがごとく、胸が痛んだ。

サトシに恐怖を感じさせているのは、私だ。
私が引き止めなければ、この子はこの状況を何とかしようとなりふり構わず立ち向かっているはずだ。
ひたむきに、がむしゃらに。
最後の最後まで、恐怖を感じる暇もなかったかもしれない。

その勇気を、私が挫いた。
惨めな姿を曝して縋った。
100%の勝算がないのなら、どうか最期は傍にいてと泣きついたのだ。
各分野の天才奇人が為す術なしとさじを投げたこの状況。
ポケモントレーナーの少年にできることなんて万に一つもあるはずがない。
私の醜態に黙り込んだサトシは、困ったように眉を下げて涙を拭ってくれた。
彼の方もまた、泣きそうな顔だった。

演技をしたつもりはない。
が、涙を見せたことに全く打算がなかったと言えば、嘘になるだろう。
どんな時でも頼れる姉でありたいと、弟に涙なんて決して見せなかった。
この子が生まれて初めて、私はその制約を破ったのだ。
たった二人の姉弟。
私の涙がサトシに対してある程度の効力を持つのは、充分想定の範囲内だった。

「姉ちゃんごめん…」

サトシは気に病んでいるはずだ。
私のことを泣くまで追いつめたのは自分だと思い込んでいる。

「謝んないでよ」

「姉ちゃんこそ…」

私がサトシの頭を撫でるごとに、彼からの抱擁はきつくなっていく。
サトシの吐息が繰り返しあたる鎖骨部分が熱く汗ばんでいた。

大きくなったな、と改めて思う。
サトシの方から私によく抱きついてきた頃は、彼はちょうど私の腹部に顔を埋めていた。
もちろん旅に出た時点でもその頃よりはもっと成長していたが、それからいろんな地方を旅して、ことカロスに来てからは背の伸びるスピードも上がったように思う。
顔立ちも随分精悍になった。
あくまで私の心情的には彼を包んで抱きしめているつもりだったが、きっと傍から見れば普通に抱き合っているのと大差ない。
もう、キスをするのに彼を抱き上げる必要も、私が大仰に膝をつくこともない。

「サトシ、」

眼下の肩を緩く掴んで視線を合わせる。
あぁやはり…瞳が潤んで泣く寸前の顔だ。
いや、潤んでいるのは私の視界だろうか。

「姉ちゃ、――」

何か言いたそうな弟の唇を自分のそれで塞ぐ。
平生の私なら、愛する彼の話のならば何時間聴いていても退屈はしない。
誰よりも真摯に彼の言葉に耳を傾けてきた自信があった。
なのに、今はとにかく時間が惜しい。
私の中の何かが早く早くと急き立てる。

「(ひとつになれたらいいのに…)」

弟に口付けながら、漠然とそんなことを考える。
目の前の彼とひとつになれたら、この今にも胸を突き破ろうとしている凶暴な焦燥感も大人しくなるだろうと理由もなく確信する。

「、――好き…」

唇の角度を変えるそのほんの一瞬に言葉を紡ぐ。
既に何百、何千と繰り返してきたその文言。
どうして一分一秒が惜しいというこの状況でわざわざ告げる必要があるのか。

「…ぅ、姉ちゃんっ――!」

私の『好き』など耳にタコが出来るほど聞き慣れているはずのサトシは、嗚咽を飲み込んで強く私を呼んだ。
途端、先ほどまで大人しくキスを受け入れるだけだった彼の態度が一転する。

「んぅ、っ…ふ、――」

深い、というよりは強いキス。
唇、胸、腹部、脚――
触れ合っている箇所の全面をぐいぐいと押し付けてくる。
あまりの力に思わず後ずさると、膝裏がベッドに触れ、そのままかくんと座り込んでしまった。
その弾みで、痛いくらいに押し付けられた唇が離れる。
サトシの唇は、濡れて赤く色づいていた。
痺れたようにジンジンと火照る私のそれも、きっと見た目には同じ状態になっているだろう。

「……、……」
「…、……、」

心なしか息を乱したサトシに見下ろされ、自分の方が激しく息切れをしていることに気づいた。

頬を上気させ、怖いくらいに真剣な表情の彼が、両手を私の頬に添える。
すっぽりと包んでしまえるほど大きくなった弟の手に感動していると、掬い上げるように上を向かされ、再び口付られた。
先ほどと同じようにぐいぐいと強く唇を押し付けるサトシ。
ベッドに腰掛けている私に対し、彼は立ったままだ。
上から押さえつけられるような強いキスに、仰け反った首が痛む。

「、ぁ…」

「うわっ!」

とうとう耐えきれなくなって、私は仰向けにぱたりと倒れた。
当然サトシも勢い余って私の上に倒れこんだが、寸でのところでベッドに手をついて額や歯を打ち付ける事態を回避する。
実弟ながら、さすがの反射神経だ。

「ご、ごめん、姉ちゃん…オレ、なんかカッとなって…」

「怒ったの?」

「ちがうんだ。なんか、姉ちゃんとチューして…してる最中なのに『もっと、もっと』ってなって、こう…頭の中がカーッとなって…」

「…そっか」

私に覆いかぶさったままのサトシが眉を下げて、私の口元にそっと手を伸ばす。

「姉ちゃん、口、赤くなってる…痛かったよな?ほんとにごめん…」

優しい指先に撫でられる唇がむず痒い。
右に左にぎこちなく往復する中指を、唇を開いてぱくりと捕まえた。
チロ…とほんのわずが舌を這わせ、軽くリップ音を立てて解放する。
ここ一年で急に存在を主張し始めた喉仏が上下するのが、はっきりと見て取れた。

「もっと深いキス…する?」

その少年らしい突起に唇を触れさせながら囁けば、サトシはぴくりと愛らしく身を跳ねさせた。

「深い、って…」

「その…舌、とか、入れたり…」

喉元に口付けながら会話を続ける。
サトシの目を見る勇気はなかった。
弟を“イケナイコト”に誘っているという自覚は、充分にあったからだ。
これまではなんだかんだで濁してきた“家族としての一線”に抵触し得る行為だと、少なくとも私はきちんと理解している。

「…いい、の?」

ごく至近距離で息を飲む音が聞こえた。
次いで、平生の彼では考えられないほど遠慮がちな声がかかる。
一辺倒な問いには思えなかった。
私の同意を確認する意図というより、『そんなことが許されるのか』という不安が大半だったのではないだろうか。

「うん…いいよ。いいんだよ」

やはり顔は見られなかったが、できるだけ明瞭に肯定した。
私の意思は言わずもがなだが、“社会的”な事情を考慮するのも、酷く今更だ。

誓って言えることだが、私はサトシに“幸せ”な“正しい”道を歩んでほしいと思っていた。
そのための助力は惜しまないし、私がその妨げになるのなら躊躇いなく消えようという覚悟もあった。
そんなことを考える程度には、私とサトシの関係が“良くない”方向に向かうという予感は確かにあった。

しかし、仮に今“社会”とやらが私たちを許さないと判じたとしても、あと数分で“人間社会”そのものが消滅するのだ。
極端な話、殺人や強盗といった凶悪犯罪が今起きたとしても、『どうせ直にみんな死ぬ』という心情に収束してしまう気がする。
私にとって、それは何よりの免罪符だった。

「いっぱいキスしよう?サトシとしたい。…して?」

人類にとって絶望的なこの状況、さっきまでのサトシのように恐怖に震えるのがきっと“正しい”反応だ。
一方私といえば、もう咎める者もいないのだと実感した途端、得も言われぬ興奮が湧き上がった。
最低な姉でゴメンと胸中で詫びながら、“媚びた声”で弟を誘う。
本当に、救えない。

肩をベッドに押し付けられながら、性急に口付られる。
誘い入れるように唇を開くと、遠慮がちに舌が侵入してくる。
『それでいい』と肯定するように私の舌で彼をそれを撫でれば、あとはもう箍が外れたような弟に口内を貪られるだけだった。
寒気に似た何かが背筋を駆け上がり、しかし頭は熱を持ってぼぅっと酩酊する。
息が苦しくて、苦しくて、それでも合わせた唇を離したいとは微塵も思わない。
私に経験はないが、それでもサトシは“キスが上手い”のではないかと感じる。
将来有望だと思ったのも束の間、私にも彼にも、地球上のどの人間にも最早“将来”などないのだと気づいて、無性に泣きたくなった。

「、好きっ…サトシがすき、…いちばんっ…!」

与えてくれる息継ぎの間さえ惜しくて、熱情を伝えるも、もはや自分が何を口走っているかもわからない。
目の前の彼も吐息と共に何言かを吐いたけれど、熱に篭った耳では拾うことができなかった。

確実に近づいていたはずの隕石の轟音も聞こえない。
衝突はもはや秒読み段階だろうが、もう、どうでもいい。

一緒に過ごしてきたどの時よりも、今サトシと“ひとつ”になれたと感じる。


幸せ。
嗚呼、幸せだ。―――






【End.】

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