レイヴンとリタ。
さあ、先に進もう。人は靴に穴が開いたあんたの姿を滑稽だと笑うけど。そんな輩はあたしが笑い飛ばしてあげるから。
「……結局、何も変わっちゃ居ないな」
擦り抜けた風が、頬を撫でた。
足が先に進む事を拒む。
鴉の濡れ羽色の髪を無造作に束ねた男−−レイヴンは褐色の腕に抱えたキルタンサスの花束を抱え直す。彼のふわり、と風に踊る黒髪と同じく…可憐な花を探す彼の花は細い首を揺らした。
呼吸をすれば乾いた空気に舞上げられた土の匂いが鼻腔を擽る。
当時と異なるのは−−人間と化け物…どちらの物だか判別の付かない夥しい量の血に硝煙、焦げ臭い不快な匂いが漂って居ない事。咆哮や怒号が響き渡る事無く、閑散としている事か。男と、男の遥か前方を先導する少女の足音…そして気紛れに山肌を撫でる突風だけが、嘗ての戦場に存在する音だった。
無。
絶望も閃光と共に吹き飛ばされてしまった後に遺るのは、虚無。
静寂が支配するこの地は、10年前から時が止まってしまった男の心情その物である。男の呟きは、全てを失ったこの地に対してでは無く…自身に向けられた物であったのだろう。まるで山自身が意思を持って彼自身に見せ付けているかの其の様に、男は自嘲気味に口端を吊り上げる。
「……おっさん、遅い」
思考の海に沈んでいた男を引き上げるのは凛とした少女の声。
男が殺風景である周囲を見回せば、声の主である少女は大分先を進んでいた。目立つ赤の着物を纏う少女を、男は見失う筈も無かった。彼女は崖のほんの手前で此方を振り返っている。上腕に巻かれた黄色のリボンが風で泳ぐ。
腕を組み剣呑そうな半眼で此方を眺める少女−−冷淡とした翡翠に射抜かれた男は、眉をハの字に下げて困った様に笑う。
「…根性無し。ケジメ付けに来たんでしょ?」
「そー簡単に感情の整理って着かないもんなの。おっさん、若人と違ってガラスハートだからねぇ」
「10年もずるずる、ずるずる…只の根性無しに違い無いわよ。あんまり遅いと、あたしも置いて行っちゃうんだから」
困った時には笑って誤魔化す癖が男にはあった。現に一歩を踏み出せず立ち止まったままの男は…無精髭の生えた顎を撫で、緩い笑みを浮かべている。
聡明な少女はそれを見抜く故に容赦無い言葉を男に対して紡ぐ。そして、眉間に皺を寄せ、男を急かす様に右足で乾いた大地を叩いた。
尚も動こうとしない男。
足を動かそうとしても、脳が命令を筋肉に伝達する事を拒むのだ。
遂に痺れを切らした少女は、溜め息を一つ吐き出した。其のため息すらこの地では風に直ぐ攫われ、男に届く事は無いが。
一歩、後方へと足を退く。勿論、少女の背後は崖−−何も無い空間で。
男の目の前で小さな身体は後方へと身を投げ出す様に傾く。
「…リタっ!!」
男は突然の少女の行動に驚く間も無く、大地を蹴って駆け出していた。此方に向けて伸ばされた右手を掴み、小柄な身体が虚無に呑まれる寸前で自身の胸へと抱き寄せる。抱き締めた身体は非常に軽かった。簡単に風に乗って飛ばされて行ってしまうのでは−−と男が恐怖する位には。
「…何、を考えてる!!」
身投げとしか見えなかった少女の行動に、珍しく男が息を荒げて怒鳴る。小さな少女を離さない様に抱き締める腕の強さを強めれば、少女は小さく身動ぎしてから男を見上げる。
男の蒼空の瞳を見つめる翡翠の双眸は嬉々とした光を宿していた。
少女の薄い唇が弧を描く。してやったり、と言った表情。
対して少女を失いたく無い一心で状況が読めていない男は怪訝そうに少女を見据える。
「ほら、動けたでしょ?」
先に進めない駄目な中年の手を強引に引いただけ。
男の疑問に答えるべくそう語る少女は、未だ幼さの残る顔立ちで綺麗に笑った。
此れには男も言葉を失った。
「…やられたわ」
喉奥から一言、やっとの事で絞り出せば…わしゃわしゃと少女の茶色の癖毛を掻き乱す。
足元ではキルタンサスの花束が風に揺られていた。
quasi,jus cogens
(彼女は彼を繋ぐ鎖であり、)
(彼は自ら彼女の手を取るのだ)
−−−
タイトルは
capriccio様の長文お題『beautiful world』より。
因みに【quasi,jus cogens(強行規範に準じる)】です。
うじうじおっさんと強引なリタっち。要約すると何時ものパターンです←