ただの落書きの線を引くことにすらおびえてる自分に気がついて、
何をそれほどまでに恐れているのだろうと思って、
ああそうか、と思った。
多分私は、何事も失敗しないように、間違えないように、ということばかり考えていたのだよね。
失敗したように見えても、これは実は間違っちゃいないんですよ、みたいな、言い逃れのできる道を探しているというか。
いつも誰かに弁明している気がする。
そうでないのは、美味しいもの食べてる時とか、絵描いてるときとか、写真撮ってるときの、一心不乱に、夢中になっている時だけ。
誰か、は、自分の想定する、自分の中の「他人」であったり「世間」であったり、いわゆる「社会の目」というやつなのだろう。窓じゃないよ(聞いてない。
対人関係に関する不安と、
自分の未熟さに対する不安、焦り、情けなさ。等々。
能力値があまりにも違いすぎるような、私からみたらとてつもないパワーを持ってる先輩が、
私だって40超えた今でも、毎日失敗ばかりだよ、って笑って言っていて、
そんなものかもしれないと思いながら、どこかで、それでも自分のような愚かさとはレベルが違うんだよきっと、なんて思っていたのだけれど、なんか、そういうことじゃないんだよな。
考えても仕方ないことでぐるぐるともうずっと考えこんでいて。
とはいえ、家を出るまでは、寝たらもう二度と目を覚ましたくないような気持ちで生きていたのですが、
今はそういうことはないので。少しはよくなっているんだろうなと思います。
どうしても我慢しなきゃいけないことと、我慢しなくてもいいことの見極めっていうのは、難しいなと思います。
それは、本当に耐えなきゃいけないことなのか、やらなくてはいけないことなのか、と20年ほど問い続けて、
2年ほど前に、「やらなくてよかったのか」とぽつりと言ったのを見て、どうしたら、もっと早く伝わったのだろう、という気持ちと。
未熟な私が、ちっぽけな頭で考えただけの正しさを、どれほど伝えたとしても、相手には届かなかったのだろうとは、思います。
自分が他者を変えられるなんてことは、傲慢さにすぎないのだよね。
今思えば、サポートの仕方を変えるべきだったんだと思う。望みをかなえてあげる、のではなく、
何が相手のためになるのか、相手のためになることで、自分にできることは何か、ということを。
なんて、ずーっと同じこと考えてる気がするし、同じことかいたような気もするんですが。
誰かのためにできることって、なんだろう。
だけど、誰かのためだけに生きているわけではない私は、
何をしたくて、そのためには、どうすることが必要なのだろうな。と思っているこの頃。