固有名詞に、一瞬だけ誰だっけと考えてしまったが、ルイさんの事だと気が付く。
ルイさんはシャルレ家の次期当主だ。屋敷の中で働いている人達は、若旦那、と呼ぶ。
「アルグラード様!困ります、勝手に!!」
次いで慌てたような声。
確か、ルイさんの部下の……。
名前が思い出せない。
永井さん?
永谷さん?
「すみません若旦那、応対しきれず……アルグラード様、この部屋には…―」
「いいよ永田、仕方ない」
永田さんだった。
暢気に私が名前と格闘し終わって、気がつくと、場は険悪な雰囲気。
「どうなさったのですか。アルグラード様とあろう方が、私室に押し入るなど」
それでもルイさんはあまり驚いた風もなく、丁寧に応対する。
アルグラードさんは、怒っていることをわざと強調しているかのような足音で、立ち上がったルイさんに歩み寄る。
つまり私の座る椅子のすぐ傍だったが、同席している遥稀さんや要さんや私に一切構う様子はない。
「……どういうおつもりかな?」
「何の事です?」
わなわな、という表現がぴったりな言葉にも、ルイさんはあくまでも落ち着いている。
「我々との取引を全て取りやめた事だ!」
どうやら仕事関係の揉め事らしい。
ああそれなら、とルイさんは何でもないことの様に答えた。
「我々シャルレと貴公ルサンチの利害が残念ながら一致しなくなった、それだけです」
何やら難しい話に突入しかけているようだ。
ルサンチというのが、この男の人の家名らしい。
聞いたことのある名前の気がして、頭の中をめぐらす。
勿論、私の脳内とは関係なしに、話は進んでいる。
「シャルレは我がルサンチの恩を忘れたということか?」
ルイさんが嘲笑を僅かに滲ませて笑った。
「ははっ、ご冗談を、アルグラード様」
「冗談だと……?」
「それは私の祖父の代のお話でしょう。既に恩は十分過ぎる程お返ししました。それを未だに振りかざす等、ルサンチの名が泣きますよ」
「……っ、庶民の成り上がりめがっ!」
何の感情の変化もなく滔々としたルイさんと、憤慨するルサンチ家の男の人のやり取り。
ルサンチという名前を検索しても、わからなかった。
とりあえず成り行きを見守っていると、遥祈さんが私の肩に手を置く。
「ルサンチという名前に心当たりはある?」
私は黙ったまま首を振る。
「天宮という名前と、ミュゼットという名前は?」
「確か……貴族の家名だと思います」
その二つの名前はピンとくる。どちらも由緒正しい貴族だったはず。
けれど遥祈さんの質問の意図がわからずにいると、遥祈さんは神妙に頷いた。
その間もルイさんとアルグラードさんの会話は続いている。
「仮にも貴族を敵に回してどうなるかわかっているのか」
「仮にも?おや、私の勘違いでしたか?既に敵ではありませんか」
「……何を……」
「私が存じ上げないとでもお思いですか?」
緊迫した空気が一層張り詰める。
「先代まで守り通して来た両家の関係を、今になって反古にしようと画策したのはそちらではありませんか」
そのルイさんの言葉に、私への質問を終え、会話を聞いていた遥稀さんが、そういうこと、と小さく呟いた。
要さんがこそっと遥稀さんに話し掛ける。
「何なんだ?何の話だ?」
私もさっぱりわからない。
ルイさんは、この西の地で、貴族ではないけれど大きな勢力をもつ貿易商の、若旦那だと聞いている。
その取引の話ではあるのだろうけれど。
「後でルイに聞いたらいいわ」
素っ気ない態度に、要さんは小さくため息をつく。
「お前、めんどくさがんなよ」
「失礼ね、その方が効率がいいだけ。それより」
遥祈さんが要さんの腕を引き、より一層小さな声で耳打ちをする。
「鈴音を出来るだけ見せないように部屋を出るわよ」
どうして見せてはいけないのか、私にはわからなかったが、遥祈さんの言葉に要さんの顔色が変わり、真剣に頷いた。
「私達は失礼致しますわね」
そう、ルイさん達に聞こえるよう言い放って、立ち上がる遥稀さん。
二人の会話が途切れる。
「あぁ、失礼をしました天宮様。別室に案内させます」
天宮様?
天宮というのは、由緒ある貴族。しかも、特に高位の。
その名をルイさんは遥祈さんに向けて言ったということは。
知らなかった。
この、私の手を優雅な笑みで引いてくれるこの人が、天宮様だったなど。
「……天宮?まさか」
ルサンチの人も私と同じく驚いたらしい。
「挨拶のないまま失礼を致しました。天宮とルサンチの間に交流はございませんが、どうぞお見知りおきを」
素敵過ぎる。
ルサンチさんはかなり動揺しているような返事をした。
「……こ、これは失礼をしました。まさか貴族の中でも名高い天宮の方がいらっしゃるとは」
急に低姿勢になっている。
「どうぞ私にはお構いなさらず。今は友人として個人的にお会いしているだけですから」
「そ、そうですか。ご友人でいらっしゃると……」
さすが、遥稀さんの振る舞いには威厳がある。
ルサンチさんは何だか圧され気味だ。
「で、では時に、そちらのお嬢様は……?」
私に注意が向くと、要さんが私の前に立ち、遥祈さんは軽く手を上げ制す。
「私の知り合いのご令嬢ですよ。とある事情で預かっているんです」
更にルイさんがさらりと答える。
記憶を失っている見ず知らずの娘だとは確かに言えないだろう。
「……そうですか……」
何かを深く考えるように、ルサンチさんがつぶやく。
「……随分と天宮様に懐いていらっしゃる様で。天宮様はよくこの屋敷にいらっしゃるのですか?」
「……それが何か?」
ルサンチさんの言葉がなぜか嫌味のようなものを帯び始めて、遥稀さんの声が固くなる。
「天宮の現当主はお忙しくなかなか帰宅されないというのは噂に聞いておりますが……」
遥稀さんを挑発しているような、そんな感じだ。
私には、ルサンチさんが何を言いたいのかさっぱりだが、場の雰囲気がかなり緊張している。
その中、要さんが口を挟む。
「天宮様、私は先にお嬢様をお連れしてます」
どこかぎこちない丁寧口調で言いながら、私の肩に手を置いて、扉の方へ誘導する。
「……ええ、そうして下さい」
遥稀さんが加わっての談議に発展しそうになったために、要さんが気を効かせてくれたようだ。
「永田、客間に」
ずっと部屋の隅に控えていたらしい永田さんは、はい、と小さく返事をした。
要さんに誘導されるがまま、歩きだす。
すると急に、思いもしない方向から手が伸びて肩を捕まれ、無理矢理振り向かせられた。
「っお前……!何故こんなところにいる!?」
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