嫌なことは見たくない、そんな誰もが思う普遍的な感情は在り来り故に厄介だった。本当に見たくないものでも直面しなければならないときはあり、例え"嫌だ"と拒絶したところで社会の常識という見えない有刺鉄線に引っ掛かってしまう訳だ。それが早かれ遅かれ、いずれ全ての人に、様々な形で降り掛かってくる。やりたくもないものを強いられてやり遂げ、見たくもない聞きたくもないものを目や耳に入れ、我慢しなければならないのだ。お父様はとてもご立派で、名誉除隊されたときには多くの兵士がその門出を祝い、中には憂う者も、だとか、D中隊の誉れとして、優秀な軍人一家の一員を迎え入れます、だとか、出てくる言葉口上全てがこれに値した。誰も時代遅れの優秀遺伝の話をしていないのは分かっていたが、理解も出来ない褒め言葉を壊れたビデオテープのように繰り返されては流石に堪えた。声高に煩い黙れ好きで軍人になった訳じゃないと叫んでやったら、いよいよ奴らも理解するだろうか。…そんなことを思ったところで、実行に移さなければ何の意味もないのだろうが。
喧騒から離れられる戦場は、社会の常識が通用しないからまだ楽だと思えた。人を殺し殺されるのが"合法"だとされる場所に初めて来て震え上がる新兵、どれだけ殺すか考えるのが楽しいと下卑た笑みを浮かべるウォーモンガー、任務を忠実にこなす冷静な機械じみたベテラン、多種多様な顔が揃っている。誰もが目的を持っているのは知っていた。その目的の根底には、生への渇望があるのも知っていた。だからこそ様々なラベリングが剥かれ、飽くなき欲望が見え、"優秀だから""そういう血筋だから"と口を揃える者がいないここが好きだった。丸裸にされるのを嫌がる人は多いだろうが、自分にとってはそれが心地良かった。ヘイトやバイアスが直接降り掛かってくる、その方が丁度良かったのだ。
迫撃砲が地面を揺らしている。崩れた瓦礫がいくつも散乱し、何が何だったのかが分からなくなるぐらい辺りは騒乱の最中にあった。日差しは午後の傾き加減だが、閉じた目にはやけに暗く感じる。瞼をゆっくり開けると、眩しい太陽光が突き刺してくる。音を拾わなくなっている耳が、段々戻ってくる。こちらの機甲小隊の主戦力であるM1エイブラムスが、踏み場のなさそうな瓦礫を乗り越えている。履帯が擦れ、銃声や罵声が溢れる中東の空に金属音が紛れていく。
身体を動かそうとしてまずは頭を振ってみる。ろくな力が入らない。瞬きを繰り返す内に時間は過ぎゆき、M1エイブラムスが砂埃を立てて目の前を通過していく。誰か助けてくれないものか。ここにいる、と手を上げようとしたが、さっぱりだった。呼吸が浅い。焼け付く熱さだと言うのに、やけに寒く感じる。
見慣れた米軍海兵隊のデザートブーツが近付いてきた。眼球を動かし、男を見上げる。日差しの影になって見えないが、LWHに書かれた階級にはLCplと殴り書きされているように見えた。
「――えますか、――曹」
名も知らない上等兵は、水筒を出そうと跪いた。いや、もういいんだと言えたら良かった。水を飲んだところでこの身体が動きそうにないのは、他でもない自分が知っている。丸裸にされ、街の中を引きずり回される前に友軍に見つけてもらえたのが不幸中の幸いだったのだろう。胸元で遊ぶタグを送り届けてくれそうな、ひとつの可能性に出会えて良かった。
力を振り絞った。さっきから見えていた腰から下の光景を現実と捉えながら、腕を振り上げた。立派な殉死だったと、せめて伝えて欲しい。
最期に見えた光景は呆気なく、手を伸ばしても空を掴むだけだった。自分らしいと笑った。笑えたかどうか、上等兵の返事を聞くことも無く、煩かった履帯が擦れる音が遠のいた。