昨日は20時間ぐらい寝ちゃった。ずっと熟睡できなかったからかな。今日は春らしいいいお天気。さっき、チイ姉がふきのとうを取ってくれたので、今夜はふきのとうの天ぷらを作ろうかな。




 私は仕事で一度、北野武さんにお会いしてから、彼の太っ腹なところや温かさを知って大好きになった。この間、彼の著書『ヒンシュクの達人』って本を読み返してたら急に涙が止まらなくなった。これは震災直後に週刊誌で語られた話なので有名な話でご存知の方も多いことだろうが、一部引用してご紹介したい。

 なによりまず、今回の震災で被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。こんな大惨事になるとは思ってもみなかった。

 ちょうど地震の時は調布のスタジオで『アウトレイジ』続編の打ち合わせをしててさ。オイラ、普段は大きな地震でも平気な顔して座ってるタイプなんだよ。

 だけど今回は、スタジオの窓から見えるゴミ焼却炉のデカい煙突がグラグラしててさ。今にもこっちに倒れてきそうなんで、たまらず逃げたね。こんなこと初めてだよ。そんなの、震源地に近い東北の方々の被害に比べりゃ何でもない話だけどさ。

 どのチャンネルつけても、報道番組一色で、オイラはすっかりテレビから遠ざかっちまった。こうなってくると、ホントにお笑い芸人とかバラエティ番組にできることは少ないよ。

 地震発生から間もない14日の月曜日に、『世界まる見え! テレビ特捜部』(日本テレビ系)の収録があって、スタジオに客まで入れてたんだけど、直前に取り止めたんだ。所(ジョージ)と相談してさ。こんな時に着ぐるみ着てバカやれないよって。とてもじゃないけど笑えないよってさ。

 よく「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。

 オイラたち芸人にできることがあるとすれば、震災が落ち着いてからだね。悲しみを乗り越えてこれから立ち上がろうって時に、「笑い」が役に立つかもしれない。早く、そんな日がくればいいね。

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

 人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

 一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。

 だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。

 逆に言えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。

 それにしても、今回の地震はショックだったね。こんな不安感の中で、普段通り生きるってのは大変なことだよ。原発もどうなるかわからないし、政府も何考えてるんだかって体たらくだしさ。政治家や官僚に言いたいことは山ほどあるけど、それは次回に置いとくよ。まァとにかく、こんな状況の中で、平常心でいるのは難しい。これを読んでる人たちの中にも、なかなか日頃の仕事が手につかないって人は多いと思うぜ。

 それでも、オイラたちは毎日やるべきことを淡々とこなすしかないんだよ。もう、それしかない。

 人はいずれ死ぬんだ。それが長いか、短いかでしかない。どんなに長く生きたいと思ったって、そうは生きられやしないんだ。「あきらめ」とか「覚悟」とまでは言わないけど、それを受け入れると、何かが変わっていく気がするんだよ。

 オイラはバイク事故(1994年)で死を覚悟してから、その前とその後の人生が丸っきり変わっちまった。

 今でもたまに、「オイラはあの事故で昏睡状態になっちまって、それから後の人生は、夢を見ているだけなんじゃないか」と思うことがある。ハッと気がつくと、病院のベッドの上で寝ているんじゃないかって思ってゾッとすることがよくあるんだ。

 そんな儲けもんの人生だから、あとはやりたいことをやってゲラゲラ笑って暮らそうと思うんだ。それはこんな時でも変わらないよ。やりたいことは何だって? バカヤロー、決まってるだろ。最後にもう一本、最高の映画を作ってやろうかってね。




 なんて温かい人なんだろうね。ぶっきらぼうだけど気遣いがあり、今まさに傷みの中にある人を思って考えている。
 震災直後、バラエティ番組に毎日ぐらいに出ているタレントさんが仮設住宅へ来て激励に来た話を前に書いたから覚えてらっしゃる方もたくさんいると思う。
 その人は物凄く声が大きくてマイク無しなのに避難所だったホールの外側まで聞こえるほどだったそうな。避難所の子どもたちや若い人は前に集まり喜んで写真を撮ったりしてたけど、お年寄りとかは全く興味がなくて知らん顔してたり、疲れて寝ている人も多かった。赤ちゃんの泣き声も物凄かった。昼夜問わず賑やかな避難所で過ごしていると眠れなかったり、気疲れして体調が悪い人が大勢いらした。
 この大声を張り上げて馬鹿みたいなことを言うタレントさんはその後、仮設住宅にも現れたのだった。誰とは言わないがその方の思いやりは温かく嬉しいが、声が大きすぎてありがた迷惑になったのである。笑いの力は大切だが、テレビ局のひな壇と同じ感覚では失礼になるよね。自分の声の大きさがわからなかったのかもしれないが、被災地支援のためとはいえ、迷惑をかけるのはご法度。バラエティ番組で自分はわりと早くに避難所や仮設住宅を廻ったと自慢していたとも聞く。元気になってほしいと励ましに来てくれた気持ちは有難いし、物資も持ってきてくれたのには感謝しているが、声のボリュームを下げることには気づかなかったようだ。
 このことを書いたコラムがある地方紙に掲載され、名指しもしていないのにどこかでご本人の耳に入ったらしく、角川書店を通して私にお詫びの手紙を寄越したが、謝罪するのは私ではなくて被災した人たちであろうと返事を書いたらサインが送られてきたのをここに告白する(苦笑)。なんだかなぁ…。あっ、前に拍手に「その人は出川さんですか?」って質問がたくさんあったんだけどまた来そうだから言うけど、出川さんでも吉本の方でもないです。


 たけしさんが「今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。」というのが、やはり段階というのがあって直後で明日さえも見えない状態で大騒ぎするのは間違っているよね。今振り返ってみても、たけしさんの考えはいちばん温かい思いやりだったなと改めて思う私だった。











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