僅かながら、寝ていてカーテンから漏れる陽射しが暖かくなったなと感じた。今日は二十四節気の「雨水(うすい)」。雪から雨に、氷から水に変わり始める頃に入った。東北はまだまだ雪は降るから実感できるのは来月下旬か。冬の寒さに耐えたのだから、やがて来る春が今か今かと待ち遠しい。

 かつて、向田邦子先生が黒柳徹子さんらが出演するラジオ番組のセリフに「人生(禍福)は、糾える縄の如し」という言葉があって、徹子さんが向田先生を語るときにこの言葉のエピソードがよく使われる。
 徹子さんがこの言葉はどういう意味なんですかと尋ねると「人生はいいことがあると必ず、そのすぐ後に良くないことがあって、つまり、幸福の縄と不幸の縄と二本で撚ってあるようなものだ、という事なんじゃない?」と教えてくれたそうだ。若き日でも、さすがは洞察力抜群で知識が豊富な向田先生らしい言葉である。私も四十代に入って、わかったことやこれまでの経験で「禍福は糾える縄の如し」の意味が少しずつだが理解してきて、身に沁みてくるようになった。
 悪いことは長く続かないし、いいことも長く続くこともない。いつもそれらは互いに裏側にあり、いつ表と裏返しになるかわからない。だから大人になるとじっくり考えて慎重になるわけだけど、予期せぬ出来事で糾えた縄はほどけることもあるのを知っている。経験がものをいうことと、そうでないことがある日突然訪れてあたふたして身動き取れないこともある。それがいつか自分の根っこになるまでには時間が必要だったりする。年を重ねていくうちに、あの時あんなことがあったのはそのためかって気づくと妙に安心したり納得することも多々増えてきた。若さでの失敗や無知ゆえの未熟さも人にとって大事なことなんだよね。最近、そんなことをよく考えてばかりいる。

 私のこれまでの人生を振り返っても、浅はかで失敗の連続だった。あの時、あんな風にしなかったらこんなことにならずに済んだのにって。それは誰しもが内に秘めながら生きてるわけで、特別でもなんでもない。幸福そうに見える有名人だってプライベートでは苦労してるだろうし、不幸な境遇に見える人は逆に運が良かったりすることもある。みんな平等に様々な試練をそれなりに経験していると思えば、人に優しくなれるのだ。菩提寺のご住職も仰っていたな「産まれたときから修行に来ている」って。どれだけ頑張ったかは亡くなってみたらすぐわかるらしいな。だから私は、自分の人生に手を抜かないと決めている(ほんとかいな?)。

 長かった冬から春になるように、つらいことも糾える縄の如く根っこに出来るようになりたいものですな。







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