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続きッス(*^)ゞ
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剛志 自然科学の世界では、二十年前の議論に固執していたら淘汰されるでしょう。しかし社会科学の世界では往々にしてあることなのです。
それどころか、経済学などは二十年前から逆に退化していますから。四十年前、五十年前の経済学のほうが、はるかに優れている。マトモな学者はみなそう言います。
信子 退化?
剛志 経済学にはたとえば「新古典派」「ケインズ派」といった学派ごとに方法論が決まってますが、1980年代あたりから「新古典派」が主流になりました。それ以来、「新古典派」の方法論の様式に沿った論文でなければリジェクトされてしまうようになったのです。
下手をすると博士号も取れない。それは実証とは関係なく、です。
信子 そんなことがまかり通るのですか?
剛志 世界の有名な経済学の教授であれ、アナリストであれ、国際機関のエコノミストであれ、経済財政諮問会議のメンバーであれ、みなそうした序列のなかで生き、博士号を取り、論文を書き、政策を提言しています。そして経済官僚もビジネスマンも、経済学部の教科書で、その主流派経済学にのっとった話だけを学んでいます。
もっと恐ろしい話もありますよ。なんと主流派経済学の教科書には正しい「貨幣」の概念が存在してないのです。「市場で取引すると、需要と供給のバランスがとれて均衡に達する」というのが主流派経済学のセントラル・ドグマで、あらゆる経済モデルにおいて、市場は均衡することになっている。ところが、じつは需要と供給が均衡するのは貨幣のない、物々交換の世界だけなのです。
信子 それって縄文時代の話ですよね。
剛志 縄文時代で止まっているのが経済学なのです。リーマン・ショックの直後、イギリスのエリザベス女王が、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの新校舎の開所式で「なぜ誰も危機を予期できなかったのか?」と質問し、列席した大物経済学者たちが誰ひとり答えられなかったという珍事がありました。それもそのはず、主流派経済学の市場均衡理論には、貨幣の概念も銀行の概念もないのだから、金融危機を予見できるわけがないのです。
人間は将来の計算不可能な不確実性に対する準備として、貨幣を貯めるわけです。貨幣でモノを買わずに貯めるということは、モノの供給があっても需要しないということです。だから、不確実性があると、供給と需要は均衡しなくなる。貨幣があるから均衡しないのです。
しかし、経済学は不確実性がないとの前提のうえで理論を構築しています。なぜかというと、不確実性を入れてしまうと市場均衡が成立しないから。しかし、不確実がない取引ということは貨幣がいらない取引、すなわち物々交換しかないのです。
貨幣の概念が欠如した経済学で、経済政策の処方箋を書く。血縁の概念のない医学で治療を行おうとしているのに等しい。これでは世の中、おかしくなるに決まっています。
信子 そうした経済学の現状に異議を唱える人はいないのですか?
剛志 じつは1970年代頃まではそうした議論があちこちでなされていました。ところが80年代頃から異議を唱える人々は経済学界の主流から排除され、表舞台から追いやられてしまった。学術誌がリジェクトしたり、大学や研究機関のポストを与えないなどの手で排除するわけです。
マトモなことを言っている学者を排除し、学界で小賢しく立ち回ってきた学者が世界銀行やIMFや各国政府に入り込んだり、ウォール街でファンドの運用きアドバイスしたりしているのだから、アジア通貨危機やリーマン・ショックが起きるのは当然のなりゆきです。