羨望と 何か

ある秋の夕暮れ、幼い弟が風邪を引いた。
まだ年は四つ程の所為か病弱な弟を心配し、湛快は見舞いに訪れる。
「望むモノはないのか?」
「ありません」
酷い熱がある癖に、嫌に冷えた冷静な声が答える。
幼い声の癖に、生意気にも芯のある。
だから、問うてみたくなった。
「惜しむモノはないのか?」
「ありますよ…兄上の命です」
本当に生意気を言う。
湛快は眉を寄せると、弟の不思議に淡い色合いの髪を撫でてやる。
常に気を張り詰めている弟に触れる事ができるのは、生憎とこんな時くらいだった。
「……それだけは、惜しいです」
増して、兄の命だけは惜しいと繰り返していては、愛でたくもなる。
しかし、疑問は尽きない。
何故、自身が病床についている癖に、他人を思いやる余裕があるのか?
「何故だ?」
「……兄上は熊野別当ですから…民の為に…生きて下さいね」
そう熱に浮かさせているとは思えない笑みを浮かべた弟に、湛快は苦く笑った。

 

 

 

ある秋の夕暮れ、久方振りに弟が熊野の地を踏んだ。
労おうと豪奢な夕餉を用意しようと、湛快は眼前に膝を折る弟に問うた。
「望むモノはないのか?」
「ありません」
いつかと同じ口調で返されて、ふと昔を思い出す。
思わず、昔と同じ問い掛けが口から零れた。
「惜しむモノはないのか?」
「ありますよ…兄上の命です」
また同じ答。
澄んだ琥珀色の瞳がこちらを真っ直ぐ見つめている。
「……それだけは、惜しいんです」
「理由を聞きてぇな。…もう俺は隠居した身だ…“別当”って理由はナシだ」
以前は幼い弟に巧くはぐらかされたように思う。
湛快は先打って、逃げ道を塞いで応えを待つ。
「義姉上やヒノエ…家族の為に…生きて下さい」
ヒノエは別当として采配を奮っているが、妻はまだ美しく湛快の傍らで咲き誇っている。
確かに守るべき家族が居る。
「巧く逃げるな、お前は…」
だが、またもや巧く逃げられてしまう。
つい大人気なく舌まで打った湛快に、弟は尚もすました微笑を浮かべて。
「何の事でしょうか」
くすり、と笑った。

 

 

 

ある秋の夕暮れ、病に倒れた湛快を見舞いに弁慶が訪れた。
「望むモノはないのか?」
「ありません」
見舞いに来たのは弁慶だと云うのに、そんな事を問う湛快に弁慶は首を左右に振った。
「惜しむモノはないのか?」
「ありますよ…兄上の命です」
掠れた兄の声は弱々しく、あの豪胆な人物のものとは思えない。
病に倒れたと聞き、京から馬を走らせた。
間に合って良かったと心底思うと同時に、まだ死に目には早過ぎると強く思う。
「……生きて、下さい」
「理由は何だ?」
妻は流行り病で土に還り、ヒノエも妻を娶り所帯を持つ立派な別当だ。
以前に告げられた弁慶の言葉はもう意味を成さない。
「生きて…っ」
病に侵され褥に落ちていた湛快の腕、その皺の刻まれた手を取り、弁慶は握り締めた。
「僕の命なんか要らないから…っ」
「……弁慶、死に損ないを前に随分だな」
「…っなら、僕の為に…っ僕の為に生きて下さい…!」
もっと告げたいはずの想いは巧く言葉に成らずに、ぽろぽろと涙となって頬を濡らす。
「……おいおい」
長年、弁慶の兄でいたが弟の涙を見たのは初めての事で、湛快は驚きに目を見開いた。
止まる事のない雫が褥に横たわる湛快の頬までも濡らす。
その熱い涙に、あの強いはずの弟を泣かせてしまったのだ…そう改めて理解して。
「生きて…下さい、兄上ぇ」
「嗚呼……」
ようやく聞き出せた言葉。
それの意は、羨望と何か…。
「お前を泣かせちまったんだ…その涙に報いてやるよ」
握られていた手を出来る限りの強い力で握り返した。
「お前の為に生きてやるさ…」
「…っ、はぃ…はい」
もう片方の手で弁慶の頭を撫でて、蜂蜜色の髪を弄ぶ。
可愛らしい弟に構うこの余裕があるのだ、まだ生きていられるだろう。

弁慶の言葉に込められていたのは、兄と慕う羨望と、懸想としての恋心に違いない。
だが、それを弁慶の口から聞き出すのは病を治した時の褒美にしようか?


終わり。

 

 




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